砂を踏む音が、ひとつ増えた。
ユリは歩みを止める。耳の奥で、金属の触れ合うような冷たい響きが重なった。手術器具の音にも、包丁の刃が何かに触れた音にも似ている。
「――動くな」
背後から、喉もとに冷たいものが押し当てられた。ユリは息を呑む。視界の端に、細い刃が光った。それを握る手も細く、力がこわばっているのが分かった。
「エルシノア城の関係者ではないな。誰だ、お前は」
やや低く、よく通る声。発音の癖こそ違え、言葉はなぜかユリにもはっきりとわかるものだった。
「……死者の国に、最近来た人間」
「……」
女は一瞬考えるそぶりを見せたが、すぐにユリを解放した。
ユリの目の前に立った女は、砂漠の色の中でもやけに鮮やかに見えた。黒い革の防具は使い古されていて、サイズも合っていない。後ろで三つ編みにされた赤い髪は汗と砂でまとまり、額には泥とも血ともつかないものが乾いてこびりついている。
けれど、その青い瞳だけは異様なほど澄んでいた。
「こんな荒野なのに、どこかのお城の関係者だけがうろついていると思ったの?」
ユリは、目の前で刃物を突きつけられながらも、精一杯睨み返した。
「私は……」
女は言いかけて、短く息を飲んだ。胸元のあたりがかすかに上下している。そのときユリは、彼女の左肩から肘にかけて、赤黒い染みが広がっているのに気づいた。
「あなた、血が出てる」
思わず手を伸ばした瞬間、女は反射的に刃を押しつけ、ユリの手を振り払う。
「触るな!」
冷たい鋼の音が響く。けれど、声の端に、わずかな震えが混じっていた。
「見過ごせない。私、看護師だもの」
「看護……?」
「怪我してるなら、処置しないと。感染もするし」
「そんなもの必要ない!」
女は吐き捨てるように言い、刃をほんの少し引いた。
「ここは死者の国だ。死んだ人間が死を恐れる必要がどこにある!」
その言葉は、言い聞かせるようであり、呪いのようでもあった。
「死者の国……とは言ってもね」
ユリは首を軽く回しながら、自分の喉を確かめる。刃は薄く皮膚を掠めたが、血は出ていない。
「なんで、そんなに息切らしてるの」
「あ?」
「怪我してるのに、ちゃんと痛がってる。本当に死んでいるなら、そういう感覚、もうないんじゃないの」
ユリの言葉に、女は一瞬言葉を失った。その刹那、女の顔がわずかに歪む。胸のあたりを押さえ、短く息を呑んだ。
「……っ」
「痛いって顔してる。いいから、ちょっと見せて」
ユリは逃さなかった。救急現場で身についた反射が、勝手に働いた。顔色、息づかい、手の震え。全てが怪我の状態を物語っていた。
ユリはもう一度手を伸ばした。今度は刃の軌道を読み、女の手首を掴む。
「なっ……離せ!」
「……脈がある」
女の手首から、鼓動が伝わっていた。鼓動が、はっきりと伝わってくる。早く、不規則で、けれど確かに生きている心臓のリズム。
「死者の国なのに脈があるし、怪我だってする。それなら」
ユリは、女の手から力が抜けるのを感じながら続ける。
「治療だってできる」
「必要ないと言っているだろう!」
叫びは鋭いのに、最後だけわずかに震えた。
「楽になったほうが動きやすいでしょう? 私がここであなたを楽にするのは、単に『患者だから』ってだけじゃない」
「……どういう意味だ」
「さっき、聞いたから」
ユリは一度だけあたりを見回した。あの情報を与えた人間の姿が、今はどこにも見えない。
「この世界に、私と同じ時期に落ちてきた――ちょっと厄介な子がいるって。生命力に満ちているけど、可哀想で……意地っ張りな女の子。あなたのことでしょう?」
女の瞳が、かすかに揺れた。
「触るなと言った」
「布、ないかな。私なにも荷物がなくて」
「……」
それでも、さっきより声は弱い。女が自分の破れかけたマントの一部を顎で示すと、ユリは頷いてその布を引き裂いた。思った以上に脆く、それは簡単にちぎれた。ユリは慣れた手つきで、即席の包帯を作る。
「動かないで。縛るから」
「勝手なことを……」
「感染症をまき散らされるほうが迷惑です」
意味のわからないことを言われて、女は眉をひそめた。その隙に、ユリは肩口の傷を露わにする。
刃物で深く切られた跡。ここに来る前、誰かと戦っていたのだろう。血は乾きかけているが、動けばすぐにまた開きそうだった。
「消毒したいけど、ないから……とりあえず圧迫。ほら、息吸って。止めて。……はい」
女は言われるがままに呼吸を止めた。自分でも驚いているように、素直に従っている。
「……不思議」
ユリは、きゅっと布を結びながら呟いた。
「ここは死者の国だって言われたけど、あなたを見てると、死んでるって感じがしない」
女は黙り込んだ。澄んだ瞳が、じっとユリの顔を見つめている。
「あなたは、自分が死んだと思ってる?」
しばしの沈黙のあと、女は視線を逸らした。
「……」
答えないことが、答えだった。ユリは小さく息を吐く。
「私は、そうは思わない。だって、死んだ瞬間の覚えがないから」
自分の言葉に、自分で少し笑ってしまう。
「死者の国だなんて話も、あの人に聞いただけだし」
「……誰に聞いた?」
女が、ユリの言葉に食いついた。
「さっきまで一緒にいたんだけどね。私を『令和の女』って呼んできたお婆さん。白い髪に、黒い肌の」
女の顔色が、わずかに変わる。
「私も、その女から聞いた」
「え?」
「ここが死者の国だと。そして……」
女は、胸元に手を当てた。包帯の下で、まだ鼓動は続いている。
「……私には、なぜか分かる。誰かに聞かされなくても、ここが死者の国なのだと。身体が自然と理解している」
その瞳には、諦めと、諦め切れない何かが、同時に燃えていた。
「……余計な話をした」
女はゆっくりと立ち上がる。包帯を巻いた肩をかばいながら、腰の剣を握り直した。
「襲いかかったりして、悪かったね」
唐突に、そんな言葉を口にする。
「私には、ここで探さなければならない者がいる。あなたも気をつけて行きなさい。ここは現世とは違う」
「ちょっと待って。まだ怪我の具合が……」
ユリの言葉は、途中でかき消された。砂を蹴る音が、突然、四方から押し寄せてきたのだ。
「……え?」
見上げると、岩場にいくつもの影が現れていた。鎧のようなものを身につけ、槍や剣を構えた男たち。どこかで見たことのある、古めかしい軍装。ユリは、わずかなテレビの記憶を掘り起こす。
(舞台……? いや、それにしては……)
先頭の兵士の一人がこちらを見た瞬間、目を見開いた。
「いたぞ! スカーレット王女だ!」
叫びが、乾いた空気を震わせる。
女――スカーレットは、きゅっと目を細めた。その表情からは、先ほどの迷いがすっと消え去っている。
「下がっていろ、レイワの女」
彼女は剣を抜き放ち、ユリの前に立った。ユリは反射的に彼女の背中を見上げる。包帯の下から、新しい血が滲みはじめていた。
「……看護したそばから、無茶しないでよ」
ぼやきながらも、ユリはあたりを見回した。丸腰の自分にできることは、あまりにも少ない。それでも、彼女の手は自然に動いていた。近くに落ちていた、短い木の枝を拾い上げる。何もしないで見ていることだけは、どうしてもできなかった。
兵士たちが一斉に駆け下りてくる。死者の国の乾いた大地に、鉄の足音が響き渡った。
スカーレットの剣が、最初の一撃を受け止める。鈍い金属音が、荒野に木霊した。
ユリは喉の奥で息を呑みながら、その背中を見つめていた。
現時点での原作との差異
・主人公が手ぶら(原作の聖は救急セット一式を持ち歩いている)
・愛について教えてくれる令和の謎の流行歌(細田監督作詞)を主人公が口ずさまない
・主人公は自分が死んでいるか生きているか分からない(聖は死んでないと信じている)
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