砂嵐の気配が去り、ようやく風が落ち着いたころ。
スカーレットは、コーネリウスの抜け殻に背を向けたまま動かなかった。砂の上に残されているのは、重い革鎧とマント、短剣だけ。中身は、どこにもない。
ユリも口を開けなかった。何を言っても薄っぺらくなる。
やがて、スカーレットがぽつりと呟いた。
「エルシノア城を知っているか、レイワの女」
「令和の女と呼ぶのはやめて」
ユリは砂を払い、上体を起こした。
「私はユリ。あなたのことも、スカーレットって呼ぶから」
スカーレットは一瞬だけ目を瞬かせ、かすかに肩をすくめた。
「……わかった、ユリ」
ユリは記憶をたぐった。大学時代、北欧ツアー。寒い風、観光バス、ガイドの英語。
「クロンボー城なら知ってる。行ったことがある」
「クロ……?」
聞き慣れない発音を、スカーレットが繰り返す。
「海の向こうに、スウェーデンが見えた。砲台は睨みを利かせてて、石壁も塔も潮風で黒ずんで……さびた歯みたいだった」
自分で言って、ふっと笑う。
「あなたのデンマークは、私の知るデンマークとは違うのかもしれないね」
スカーレットはユリの横顔を一度だけ見て、静かに視線を落とした。
「エルシノアは、海峡にそびえる要塞であり、美しき宮殿でもある」
その声が、砂漠ではないどこかを思い出している響きに変わる。
「門には王冠とライオンの紋章。金と赤の彩色は、子どものころ、本物の炎に見えた。城壁に囲まれたその城は、海からの侵略者を防ぐ盾であり……同時に、私を外界から閉じ込める檻でもあった」
最後の一言には、皮肉が混じっていた。
「海はいつも灰色で、冷たくてね。父上はあの城が誇りだった。『この城こそがデンマークの牙だ』と、よく言っていた」
父上、と口にするときだけ、スカーレットの声がわずかに柔らかくなる。ユリは黙って耳を傾けた。
「父が処刑されたあと」
声の色が変わる。
「私は剣を握った。城の地下兵営で。父が捕らえられたのと同じ場所だ」
ユリの脳裏に、湿った石壁と鉄の匂い、冷たい床のイメージが浮かぶ。コーネリウスの姿が重なった。
「空気を切り裂く剣の音が、いつも響いていた。夜でも、明け方でも。誰に命じられなくても、私は剣を振った。鋭い音を聞いていないと、胸の中の言葉がうるさくて眠れなかったから」
「復讐したい、って?」
ユリがそっと口を挟むと、スカーレットは迷いなく頷く。
「それ以外に、私に残されたものはなかった。腕はいつまでも細いままだったけど、いつか、あの男の喉を裂けるくらいには強くなると思っていた」
「……なのに、父亡き後も、クローディアスは私を王女として扱うと宣言した」
「王女として?」
「そう。父の殺害を命じ、自ら王冠をかぶった男が」
笑っているのか怒っているのか、スカーレット本人も分かっていないような声だった。
「礼法の教師がつき、ドレスが用意され、舞踏会では客人の前に立たされた。新しい王のもとで、王家の血は健在だ――そう示すための、飾りになった」
ユリは唇をかすかに噛んだ。言葉にはしなかった。
「それでもなぜか、剣の稽古は禁じられなかった」
スカーレットは、ほんのわずかに目を伏せる。
「城の兵たちの中には、父の代から仕えている者もいてね。彼らは陰で、わざと厳しく私を鍛えた。『王女殿下に剣の稽古など』と口では罵りながら、誰よりもよく付き合ってくれた」
ユリは、ついさっき虚無に消えた騎士を思い出す。コーネリウスの背中。指揮官でありながら、一歩こちら側へ踏み出そうとして、雷に焼かれた男。
(ああいう人たちが、あの城には何人もいたのかもしれない)
「十九歳になるころには、誰もが認める腕前になっていた。――そしてクローディアスは、その年に、私を外国へ送ると決めた」
「……えっと、それは」
「留学だ。ヴィッテンベルクという学問の都。王女が国外へ学びに出るなど、異例だろう」
スカーレットは肩をすくめた。
「表向きはデンマークと諸侯との関係強化。内実は……狂気の火種である私を城から遠ざけたかったのだろうと、皆は言った」
「……そんな」
ユリは、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
(本当に、それだけ? 処刑した実兄の娘を、ただ危険だからという、それだけの理由で……十三から十九まで王女として育て、ドレスを着せ、教師をつけ、留学までさせる?)
スカーレットの口からこぼれるのは恨みと憎しみの言葉ばかりだ。それでもユリには、そこに「手間」と「配慮」の気配が混じっているように思えた。
エルシノア城を要塞として守り、王女としての体面を整え、剣を取り上げることもなく、国外へ出る場まで用意した男。
(利用するためだって言えば……それまでなんだろうけど)
本当に邪魔で危険なだけなら、実兄と一緒に、その娘も始末すればよかったはずだ。
そこまで考えて、ユリは思考にブレーキをかけた。
(……だから何、って話になる)
今ここで「叔父さんなりに情があったんじゃない?」なんて言おうものなら、殺されても仕方ない。彼女は自分の目で父の死を見てきた。ユリの知っているクローディアス像なんて、伝聞以下のイメージでしかない。
しかしスカーレットは、ユリの沈黙を別のふうに受け取ったらしい。
「驚いたか、ユリ。私が父の仇の庇護のもとでも、王女として悠々と暮らしていたと知って」
「……少し」
ユリは苦笑にもならない表情で答える。
「でも……そんな生活の中でも、あなたは決して剣を手放さなかった」
「讃えられるようなことじゃない」
スカーレットは立ち上がり、遠くの山を見た。見果てぬ場所があると言われる、山の頂上。
「剣を手放したら、私はただの飾りになる。飾りとして笑っている間に……私はきっと、本当に狂ってしまう。それが怖かっただけだ」
その言葉が、妙にはっきりとユリの胸に刺さった。
ユリだって、看護師の制服を着て笑っているだけの時間が続いたら……自分が何者なのか、わからなくなっていたかもしれない。
「叔父上は、王としては優秀だったのかもしれない」
スカーレットがぽつりと言う。
「軍備は整えられ、外交の言葉も巧みだった。父が築いたものを、彼なりに維持しようとしていたのだろう」
それは、憎悪だけでは終わらせられない認識だった。
「だから余計に、許せないのかもしれない」
自嘲のように、彼女は笑う。
「優秀で、よく笑い、子どもに物語を語って聞かせるような男が……ある日、何の前触れもなく殺害を選んだことがね」
ユリはその横顔をじっと見つめた。
復讐の炎でできた女。でも、その炎の芯には、どうしようもなく「見捨てられた子ども」の傷が残っている。
「……で、その叔父さんが今いるのが、この『死者の国』だと」
「そう聞いた」
スカーレットは短く答えた。
「私には――死者の国も、見果てぬ場所とやらも。どこか、クローディアスが望んだ世界の一部のように見えて仕方ない」
ユリにも、この場所への違和感はあった。
デンマークの王女と日本人。顔立ちも言葉も本来は違うはずなのに、ここでは何の問題もなく意思疎通ができている。
それに「死者の国」というわりには、出会うのはスカーレットの国に関わる兵士ばかり。日本人は、自分以外一人も見ていない。
(あんなにたくさんの兵士が襲ってきた。全員、現世で死んだってこと? それって、国が墜とされたレベルじゃない?)
兜と鎧だけを残して崩れた抜け殻たち。
(彼女の国にいた人たちが、王もろともまとめて死者の国に落ちてる……ってことでもなきゃ、辻褄が合わない)
砂の匂い。虚無に溶けた兵士たちの名残。コーネリウスの残した短剣の冷たい光。
エルシノアの海風も、渋谷の冬も。今の二人には、とても遠い。
*
風が静まった。砂のざわめきが遠のき、残るのは二人の呼吸と、滑る砂の小さな音だけ。
少し高い岩場まで登ると、風は幾分やわらいだ。崖の陰に、かろうじて腰を下ろせる窪みがある。
「……ここなら、しばらく風を凌げる」
スカーレットがマントを払い、岩に背を預けた。革鎧の隙間からのぞく肌は、疲労の色を帯びている。肩で息をしていた。
「大丈夫?」
ユリは隣にしゃがみ込む。
「大丈夫だと言いたいところだが……正直、少しだけ眠りたい」
冗談とも本気ともつかない言い方だったが、声には重さがあった。さっきから、スカーレットの喉が時おりかすれている。
「水……」
ユリは自分の口の中の状態を、そこでやっと意識した。
舌は乾いていない。喉の渇きもない。腹も空かない。走り、転げ落ち、兵士たちの乱戦を見ていたのに、息も上がっていない。
対照的に、スカーレットの胸は規則正しく上下していた。汗がこめかみを伝い、革鎧の縁を濡らしている。
「……疲れないんだな、ユリは」
半ば目を閉じたまま、スカーレットが呟いた。ユリは岩肌に背を預けながら答える。
「喉も渇かない。お腹も空かない。寝なくても、とりあえず大丈夫って感じ」
「それでは生きているという実感もないだろう」
スカーレットは乾いた笑いを零した。
「こっちは逆だ。喉は渇くし腹も減る。足も重い。死者の国だと言われても、身体だけは納得していないみたいだ」
(……だから、脈があった)
さっき取った脈の感触が、ユリの指先に蘇る。この世界の兵士たちとは違う、しっかりとした鼓動。
「なぁ、悪いが……仮眠できそうなところはないか」
スカーレットが言う。
「ここでもいいけど、風がもう少し弱い場所がいい。寝ている間にまた兵に見つかるのは、ごめんだ」
「探してみる」
立ち上がろうとしたユリの袖を、スカーレットが掴んだ。
「待て。ユリは疲れを感じないのかもしれないが、落ちれば怪我はする。無理して探しに行けと命じたわけじゃない。さっきのは独り言だ」
「いいよ」
苦笑しながら、ユリは袖を振りほどかず、その手を見下ろした。
「動ける人間が動くべき。あなたが倒れたら、私だって動けない」
スカーレットは何か言いかけて、飲み込んだ。指先の力が少しだけ緩んだ。
「……無茶するなよ」
「善処します」
短い言葉を残して、ユリは岩場の縁へと歩いていった。
成り行きで、二人は一緒にいる。スカーレットは「ついてくるな」とも言わなかったし、ユリも「離れる」とは言えなかった。
理由は単純だった。一人きりでこの世界に立たされるのが、どうしようもなく怖かったからだ。
スカーレットは、復讐の行き先を知っている。ユリは何も知らない。それでも、どちらも、今この瞬間だけは「同じ場所にいる」という事実に、すがっていた。
(これは、一時的な共闘。友達になったわけでもないし、復讐に賛成したわけでも、止めたいわけでもない)
ユリは自分にそう言い聞かせる。
(どこへ行けばいいのかわからないから。誰かと一緒にいるほうが、まだマシだというだけだ)
老婆の声が、ふと頭の中でよみがえった。
――地獄がはっきりしているときほど、知らないものを選びたくなるもんだよ――
(……知らないもの)
デンマークの王女スカーレット。クローディアス王。見果てぬ場所。山の上の城。虚無。
どこまでが地獄で、どこからが「知らないもの」なのか。まだ……判然としない。
*
夜になっても眠気は来なかった。空に星はなく、代わりに、砂漠の向こうにぽつりと赤い光が見えた。
「……火?」
ユリは身を起こした。
スカーレットは岩陰で横になったまま、浅い眠りに落ちている。マントを膝まで引き寄せ、革鎧の上から腕を抱きこんでいた。額にはまだ疲労の色が残っている。
(起こすべきじゃない)
ユリは少し迷ってから、立ち上がった。
戦えない。火も起こせない。食料も作れない。今の自分にできるのは――
(眠くならない身体を、できるだけ使い倒すこと)
彼女は岩場を離れ、そっと赤い光の方へ歩き出した。
火は、集落の中央で燃えていた。
粗末な石積みの炉。周囲には布張りの小さな小屋がいくつか。丸太と骨で組まれた柵。獣の皮。干された草束。
焚き火のそばには、見慣れない服装の人々が集まっていた。
毛皮をまとった北方風の男。
胸元に金糸の刺繍を施した東方風の女。
ドイツ風のジャケットを着た青年。
肩に数珠のようなものを掛けた修道士めいた人物までいる。
時代も土地もばらばらだ。ただ一つ共通しているのは、全員がここでは「異国の人間」だということだった。
「……迷ったか?」
焚き火の向こうから声が飛ぶ。
黒髪を布でくくった男が、警戒と好奇心の入り混じった目でユリを見た。
「疲れないけど、道には迷うみたいで」
ユリは正直に答えた。
男は怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに警戒心を緩め、火のそばを顎で示した。
「座るといい」
ユリは、焚き火の向かい側に腰を下ろした。熱は十分に感じる。けれど、皮膚の下が温まる感覚が、どこか薄い。
簡単なやり取りを交わすうちに、ユリは少しずつ事情を探った。
ここにいる者たちもまた、死者の国に落ちてきた人間たちだという。
北の海で船を失った船乗り。戦場で倒れた傭兵。疫病で村ごと焼かれた女。バラバラの土地と時代が、焚き火の輪の中でひとつに混じっている。
「傷、見せてもらってもいいですか」
傭兵の腕の包帯が汚れているのに気づき、ユリがそう言うと、男は戸惑いながらも腕を差し出した。
「もう死んでる身だと思ってたが。まだ痛みは残るんだな、この世界は」
「痛みがあるなら、手当てする意味はまだあります」
水で湿らせた布で血を拭き、草の煎じ汁で洗い流す。
ここにあるものだけで、できる限りの消毒と保護をする。その手つきは、いつもの勤務とほとんど変わらない。
肩を固くしていた者たちも、次第に表情を和らげていった。
「その仕事をしていたのか、元いた世界でも」
東方風の女が問いかける。
「ええ。人の体を触る仕事です。眠れない夜をいくつも越えたから、こっちでも眠らなくて済むのかもしれない」
冗談めかして言うと、焚き火の周りに小さな笑いが回った。
そうしているうちに、誰かが木の椀に水を汲んで差し出してくる。
「あなたも飲むか」
「私は……」
喉は渇いていない。けれど、椀の中で水が揺れるのを見ているだけで、なぜか落ち着く。
「ありがとう。でも……もう一椀分もらっていい? すぐ近くに、ひどく疲れている子がいるから」
現時点での原作との差異
・クローディアスに養育された事実への言及(原作にない)
・腹が減らなければ眠気も感じず疲労もないが、スカーレットだけが例外だと言う設定(原作では聖がタコスとかトルティーヤみたいなものを食べてる)
・盗賊がキャラバンを襲うくだりを完全カット
・キャラバンの代わりに集落を設定
映画見ました?
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観たし、小説版も読んだ
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観てないけど観る予定
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観てないし見る気もない