スカーレットが目を覚ましたとき、空はまだ淡い灰色だった。眠りは浅かったが、頭の奥のざわめきは少し遠のいている。
「……ユリ!?」
岩場を見回す。隣は空だった。胸の奥がざわりとする。そのとき――
「起きた?」
岩陰から、ユリが顔を出した。両手には粗末な木の椀と、小さな布包み。
「……それは」
「水と、食べ物」
スカーレットの目が鋭くなる。
「どこから取ってきた」
「向こうに小さな集落があってね。火が見えたから、行ってみた」
「何を考えている! 刺客がいるかもしれないだろう」
「大丈夫」
ユリは岩の上に椀を置きながら言う。
「集落にいたのは、あなたの国の兵士でも騎士でもない。北の人もいれば、東の人もいて……」
スカーレットはしばし黙り、椀を手に取った。水面に映る自分の顔。涙ではなく、汗の跡が頬に筋を引いていた。
一口、口に含む。喉が、確かに潤う。
「……水だ」
ユリは布包みを開いた。干し肉と、薄い餅のようなもの。
「これももらってきた。あの人たち、あなたを見たら驚くと思う」
「どういう意味だ」
「この世界でお腹を空かせている人間なんて、初めて会ったって。神様なのかもしれない、って言ってた人もいた」
スカーレットは顔をしかめた。
「……くだらないことを」
そう言いながらも、指先は干し肉をつまんでいる。一口かじると、顎に負担がかかった。確かに、空腹だった。
「案内する。一緒にお礼、言いに行こう」
ユリは立ち上がり、遠くの焚き火の方向を指差した。
*
集落の人間たちは、スカーレットを見るなりざわついた。深緑のマント、革の鎧、腰の剣。王家の血の匂いというものは、見慣れた者にはわかるのかもしれない。
「君がユリの連れか」
「昨夜、ユリが来た。傷を見てもらったり、腰を揉んでもらったりしてな。疲れない身体でも、凝るらしい」
傭兵が、腕の新しい包帯を見せながら笑う。
「私の寝ている間にそんなことを……」
「眠らない身体を持ってる人間が、じっとしてても仕方ないからね」
スカーレットが小声で呟くと、ユリは肩をすくめた。
石積みの炉のそばに座ると、すぐに木の椀が差し出された。麦粥のようだった。
「……なんだ」
「よだれ出てないかなって」
「そんなはしたないこと、するものか」
そう言いながらも、スカーレットは目の前の粥に釘付けだった。
東方風の女が、興味深そうにスカーレットを見つめる。
「この世界で、腹を空かせている人間に会うのは初めて。ここに長くいると、渇きも飢えも……ただの概念になる。あなたは違う」
それから、彼女はふっと目を細めた。
「まだ、こっち側の人間じゃないのかもしれないね」
スカーレットの手が止まる。ユリは何も言わずにその横顔を見ていた。
*
焚き火を囲む輪の中で、少しずつ情報が集まっていった。
ここから見える最も高い山。その八合目に不思議な城があり、城にいる王がこう言うのだという。
――見果てぬ場所に行きたい者は、自分に従え。そこには天国がある、と。
「天国?」
「らしいさ。だが、王の言う『天国』とは何なのか……何度聞いても、要領を得ん」
スカーレットが眉を寄せると、北方風の男が肩をすくめた。
「ここでは国同士の戦があるわけでもないのに、王は常に誰かと戦っている。民が畑を耕している様子もない。ただ『自分は王だ』と言って、山に登ろうとする人間を追い返している」
「山に登るのを、追い返す?」
ユリが聞き返すと、修道士めいた男が頷いた。
「我々のように、ここらにとどまっている者は、見果てぬ場所に行こうとする者たちを時おり見かける。皆、山頂を目指すのだ。だが……城から兵が出る。『王の許しなくして、あの階段を登ることは許されない』と」
東方風の女が言葉を継いだ。
「わけがわからないだろう? あそこが天国で、王が案内役なら、なぜ自ら門を閉ざす」
「それでも、権威というものに、人は弱くてね」
男は火を見つめながら笑った。
「王だと名乗る者がいると、なぜかわからないが、ひれ伏す者が多い。ここが死者の国だと知っていても、なお」
スカーレットは黙って火を見ていた。炎に照らされた横顔が、少しずつ硬くなっていく。
山の城。ユリも同じ言葉を心の中で繰り返した。
見果てぬ場所へ続く階段。その手前にある城。王と名乗る男。従う者。追い返される者。虚無に落ちる者。点だった情報が、一本の線を描き始める。
*
「さて、それはさておき、そろそろ――例の時間だな」
北方風の男がそう言って立ち上がった。周囲にいた人たちも、それを合図にしたかのように動き出す。
「何をするの?」
ユリが首をかしげると、東方風の女が笑った。
「歌ったり踊ったりして、暇を潰すのさ。他にやることもないからね」
「楽器は?」
「そんなものがなくても、リズムはどこからだって出せる」
誰かが空になった木の椀をひっくり返して叩きはじめた。別の者は骨の束を握り、しゃらしゃらと鳴らす。石と石を打ち合わせる者、手拍子を打ち鳴らす者。
ばらばらだった音が、だんだんと一つにまとまっていく。焚き火の周りに輪ができ、人々がそれぞれの「故郷の踊り」を踊り始めた。
腰に布を巻き肩を揺らす女。足を強く踏み鳴らし腕を大きく振る男。くるりと回るたび、影が砂の上に花のような模様を描いていく。
「……いいね」
ユリは思わず呟いた。
「何が」
スカーレットは焚き火から少し離れた場所に座ったまま、輪を眺めている。
「踊ってる間は、死者の国のことも忘れられそうじゃない」
「ただの現実逃避だ」
スカーレットはそっけなく返す。それでも、その青い瞳はわずかに柔らいでいた。
輪の中から、ひとりの男がこちらに手を振った。
「ユリと、お連れさんもどうだ。見ているだけじゃ退屈だろう」
「私は遠慮する」
スカーレットは即答する。
「踊るのは嫌い?」
「嫌いではない。でも……」
そこで言葉を切り、膝の上に両手を置いた。
「舞踏会は嫌いだった。民が苦しんでいる時に、貴族だけがあんな……」
「ここはお城じゃない。一緒に踊ろうよ」
「断る」
「頑なだなぁ……もしかして、王女様なのにダンスが下手っぴだったりして」
途端に、スカーレットの眉が跳ね上がる。
「馬鹿を言うな、舞踏会の花だと呼ばれたこともある私に向かって」
「じゃあ、証拠見せて?」
ユリは手を差し出した。
「……私の知るダンスというのは、一人で踊るような見せ物じゃない」
「令和では一人で踊って見せ物になる方が主流なんだけどなぁ」
「知るか、レイワは道化師の国なのか?」
「ふふ、そんな感じかもね。ただ、私は一人でも踊れるけど……二人だってできる。社交ダンス教室ってやつ、患者さんに誘われて一回だけ行ったことあるんだから。はい、手を出して」
ユリは胸を張る。
「ユリ……お前、リードができるのか」
「ふふん。行きますよ、王女様。令和の女の実力、見せてあげる」
本気のドヤ顔で、ユリはスカーレットの手を取った。
スカーレットが立ち上がると、集落にいる全員の動きが止まり、音楽が止んだ。ユリとスカーレットを見守っている。
そしていざ踊り出そうとユリが踏み込んだ、次の瞬間――二人の足が、見事に絡まった。
「わっ」
「きゃっ……!」
ユリの足がスカーレットのブーツにつまずき、そのまま派手につんのめる。スカーレットが慌てて支えなければ、二人とも盛大に転がっていた。
焚き火の輪から、くすくすと笑いが漏れる。
「……まったくできないじゃないか」
スカーレットが呆れたように言う。
「い、いけると思ったんだけどなぁ……砂なのが悪い。床が欲しい」
「言い訳をする前に、足をどけてくれないか。踏まれている」
「あ、ごめん」
ユリが慌てて足を引っ込めると、スカーレットは小さくため息をついた。
「ほら、こうだよ」
今度はスカーレットが、ユリの手を取り直す。もう片方の手を、ユリの背中に添えた。
「この形が基本。右足から一歩、左足を揃える。次は左足を横へ。……そう、違う、踏むな」
「ごめん!」
「やはりお前がリードするのは無理だね」
ユリが肩を落とすと、東方風の女がくすりと笑った。そのまま彼女は両手を叩き、周囲に合図を送る。
「三拍子に変えて」
木の椀を叩いていた男が、打ち方を変えた。
トン、タン、タン。
トン、タン、タン。
手拍子、骨の音、石の音が、ゆっくりと三拍子の円を描き始める。スカーレットは、そのリズムを聞いて目を細めた。
「……こんな場所で、これを聴くとはね」
「知ってる曲でも思い出した?」
「いいや。知っているのは、拍子のほうさ」
彼女はユリの腰に添えた手に、少し力を込めた。
「ワルツ。私がリードする、足を委ねて」
「は、はい」
ユリは半分ビビりながらも、スカーレットの視線を見返した。
スカーレットが、一歩踏み出す。ユリの足も、半拍遅れて追いかける。二歩目、三歩目――少しずつ、タイミングが合っていく。
「肩の力を抜いて」
「抜いてるつもりなんだけど……」
「腕だけだ。背骨は立てたまま」
「背骨意識したことないって」
それでも、ユリの身体は医療現場で鍛えられている。人を抱き起こすときに使う筋肉が、ここでも役に立った。
スカーレットが半歩回る。ユリの視界が、焚き火を軸にくるりと回転する。集落の人々が笑いながら手拍子を続けている。
「……ついてきているじゃないか」
「王女様の教え方がいいんですよ」
ユリは息を弾ませながら笑った。
「それと、リズムを手拍子で教えてくれてる人たちが優秀」
スカーレットの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「こんな場所でダンスをすることになるとは思わなかったなぁ」
「私もだよ。こんな穏やかな時間は……久々だ」
軽口を交わしながらも、ステップは崩れない。三拍子の波に乗って、二人は焚き火の周りをゆっくりと一周した。
音楽らしい音楽はない。楽器も、楽譜も、誰も持っていない。それでもユリの頭の中では、どこかで聞いたことのある旋律が流れていた。
病院のロビーで流れていたクラシック。テレビの向こうの社交ダンス番組。どれでもない、ここだけの、即席のワルツ。
(……死者の国、なんだよねここ)
ユリは、スカーレットの手の温度を感じながら思う。スカーレットもまた、何かを考えている顔をしていた。焚き火に照らされたその横顔は、王女でも復讐者でもなく、ただ「誰かと踊っている若い女性」そのものだった。
最後のターンを終え、スカーレットがユリの手を離す。手拍子が、ぱちぱちと弾けた。
「やるじゃないか、二人とも!」
集落のあちこちから声が飛ぶ。ユリは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「九割はスカーレットのおかげです」
「……まったくだ」
スカーレットは呆れたように言いながらも、声は柔らかかった。
*
集落を離れるころには、空はすっかり淡い光に満ちていた。山は相変わらず遠い。それでも、さっきよりは「そこを目指す」という実感がある。
「ユリ」
少し歩いたところで、スカーレットが立ち止まった。
「ここから先は、私の目的地だ」
振り返るその瞳は、焚き火の光を離れて、また鋭さを取り戻している。
「お前がついてくる必要はない。足手まといとは言わないが……」
言い淀んで、わずかに視線を逸らした。
「ここには食べ物も水もある。あの人たちも、お前を受け入れているようだった。残るなら、悪い選択ではない」
ユリは、しばらく黙ってスカーレットの顔を見ていた。
今のユリには食べ物も水も必要ないのだが、それでもスカーレットの言う通りだ。ユリが彼女と一緒にこのまま進む理由など、どこにもない。それでも――
「私も行く」
ユリはそう言った。
「……お前、私を止める気か」
「止めないよ」
即答だった。
「ただ、この何もかも曖昧な世界の中で立ち止まってしまうのは……どうにも気持ちが悪くて」
スカーレットが眉をひそめる。
「それに、この疲れない身体。せっかくなら有効活用したい。登山だって、前から挑戦したかった趣味の一つだしね」
「登……ザン?」
「登山。山歩きのこと」
ユリは、少しだけ視線を落とし、それからスカーレットを見上げた。
「それに」
言葉が喉で止まる。言わなければ、きっと後悔する。
「……あなたのことが、なんだか放っておけないの」
「は?」
風が、砂を小さく巻き上げた。スカーレットの肩が、わずかに強張る。
「怒りに燃えてる人を止めるのは苦手。でも、ひどく疲れているのに一人で歩いていく人を放っておくのも、苦手」
ユリは、笑うのか真面目なのか自分でもわからない声で続けた。
「そういう人が、気づいたら倒れてるところ……散々見てきたから。見て見ぬふりは、ちょっとできない」
沈黙が落ちる。スカーレットは、しばらくのあいだユリを見つめ、それから視線を逸らした。
「……勝手にすればいい」
耳がわずかに赤い。
「ユリが横で倒れないようにだけ、気をつけることにする」
「了解」
ユリは短く答えた。
二人は、再び山の方を向く。見果てぬ場所へ続く山頂は、まだまだ遠い。けれど、その手前にある「山の城」という目的地は、ようやく輪郭を得た。
一人ではなく、二人で歩き出せることだけが、今は心強かった。
原作との差異
・キャラバンに存在した楽器(リュート)の存在抹消
・ダンスを主役二人で披露(原作では聖だけが踊りを披露する)
・死者の国の住人が見果てぬ場所への疑問を口にする(確か原作でここに疑問を抱く人はいなかったはず)
映画見ました?
-
観た
-
観たし、小説版も読んだ
-
観てないけど観る予定
-
観てないし見る気もない