終わりなきスカーレット(完結)   作:雄魔雌

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第7話 虚無

 外の砂漠とは違う、石の冷気。崩れた柱、壁に残るかすかな浮き彫り。古い神々のものとも、どこの国の様式ともつかない、奇妙な装飾が並んでいる。

 

(ここを門にしたのは、クローディアスなのか。それとも、もともとあった場所を利用しただけなのか)

 

 ユリは手探りで歩きながら考える。壁の浮き彫りの一部に、真っ黒な窪みのようなものが彫られているのに気づいた。穴。闇。そこから糸のようなものが伸び、人の形を縛っている。

 指先を伸ばそうとして、やめる。今は考古学者の真似事をしているような場合ではない。

 離れた場所から、剣戟の音がかすかに届いている。スカーレットとヴォルディマンドが、もう斬り結び始めているのだ。

 

(時間、あんまりない)

 

 そう思った矢先だった。背後で、金属の擦れる音がした。

 振り返ると、影が三つ。崩れた柱の陰から、鎧姿の兵士がゆっくりと姿を現した。鎧はエルシノアの兵と同じ様式だが、どこか輪郭が曖昧だ。目の奥の光も、さっきまで戦ってきた兵たちとは違う、薄いものだった。

 

「王女……では、ないな」

 

 一人が言う。声もどこか遠い。

 

「見果てぬ場所を求める者か。ここは王の道だ、許しなくして入ることはできぬ」

 

 兵士のひとりが剣を抜いたが、どこかぎこちない。

 

(なんか、ふらふらしてる)

 

 ユリは周囲を素早く見回す。足元には崩れた石片。柱の根元には、折れた槍の穂先。武器というより、ただの鉄片。

 兵士が踏み込む。ユリは咄嗟に身をひねって避け、手近の石片を掴んで相手の手首に叩きつけた。

 鈍い音。兵士の腕がわずかに跳ねる。剣先が軌道を外れ、石柱に食い込んだ。すると……勢い余って、兵士の体が前のめりになる。

 胸当てが、折れた槍の穂先にぶつかった。

 

「え、そんな簡単に……?」

 

 ユリの口から声が漏れる。槍の穂先が、鎧の隙間にめり込んだ。深い傷だ。人間なら、確実に致命傷になる。

 彼女は反射的に駆け寄った。が、傷口に手を伸ばした瞬間、違和感に全身が固まる。

 そこには、血はなかった。あるのは、穴だった。

 槍の穂先が貫いたはずの場所。鎧の裂け目からのぞく内側は、肉でも骨でもなく、夜空よりも深い、真っ黒な「無」だった。

 境界はぼやけている。ユリが手を近づけると、指先ごと引き込まれそうな感覚に襲われた。

 

「っ……」

 

 思わず手を引っ込める。

 兵士は一歩よろめいたが、倒れない。傷口――いや、穴からは、ぱらぱらと砂のようなものがこぼれ落ちるだけだ。

 

「虚無……?」

 

 ユリは思わずつぶやいた。

 

「あぁ」

 

 兵士が、かすれた声で言った。兜の奥の目が、ほんの僅かに光る。

 

「俺は……最初から、とっくに虚無だ」

 

 ユリは息を呑む。

 先ほど壁で見た浮き彫りを思い出す。黒い穴から伸びる糸に縛られた人の形。

 

(もともとが虚無で、ここに偶然……実体を伴っているだけ)

 

 それは、あの門の騎士にも当てはまるのではないか。

 

「……手当ては、いらない?」

 

 問うと、兵士はほんの一瞬だけ笑ったように見えた。

 

「その手は、生きた者に向けておけ」

 

 言葉とともに、彼の身体は一段と薄くなった。触れようとしても、もう指が空をかくだけになる。

 ユリはその場から一歩下がった。

 

(死んだら虚無になるんじゃない。虚無から引き戻された存在が、傷を受けることで……解放されている)

 

(それなら、私は? 集落の人たちは?)

 

 外から、剣戟の音が一際強く響いた。

 

「……行かなきゃ」

 

 ユリは踵を返し、神殿の入り口へと走った。

 

 

 

 

 スカーレットの黒いマントが裂け、革の鎧の表面に浅い傷が増えている。呼吸は荒く、足元も少しふらつき始めていた。

 ヴォルディマンドはほとんど傷を負っていないように見えた。動きは静かで無駄がない。先王の処刑で剣を振るった騎士の腕前は、明らかに王女のそれを上回っている。

 スカーレットの突きが、ヴォルディマンドの肩口をかすめた。布が裂ける音。だが、そこから落ちたのは血ではなかった。

 黒い、欠け目。ユリが神殿の中で見たのと同じ「穴」が一瞬覗いた。その縁から、わずかに砂のようなものがこぼれ落ちる。

 

「……!」

「スカーレット、待って!」

 

 ユリの声がして、スカーレットが一瞬だけそちらを見る。その隙を狙ってヴォルディマンドが踏み込む――が、彼自身も動きを止めた。

 肩に空いた穴を、彼は自分で見下ろした。

 

「やはり……こうなるか」

 

 呟きは、風に溶けるように小さかった。

 

「ヴォルディマンド!」

 

 ユリは、二人の間合いに踏み込まないぎりぎりの場所で立ち止まった。

 

「あなた、もう――」

「とっくに虚無だ、と言いたいのだろう」

 

 ヴォルディマンドが顔を上げる。その目には、驚きも恐怖もなかった。ただ、自分の運命を確認した人間の目だ。

 

「神殿の中で見た兵士の身体の中は、空洞だった」

 

 ユリは息を整えながら言う。

 

「死んだら虚無になるんじゃない。虚無が偶然、実態を伴った姿――それが、この世界にいる兵たちであり、あなたなのでは?」

 

 スカーレットが、息を詰める気配がした。

 

「兵士もあなたも、血が流れない。中身がない。それでも立っている」

 

 ヴォルディマンドが静かに言った。

 

「虚無に落ちた魂を、王の望みによって形に戻し、城への道を守らせる。それが、この神殿に課された役目だ」

「そんな……」

 

 スカーレットが、剣を握り直す音がする。

 

「つまりお前は、父上を斬ったあと、一度虚無に落ちて、それでもなお叔父上に縛られているということか?」

「その通りだ」

 

 ヴォルディマンドは一歩前に出た。

 

「俺はもはや世界の理の外にいる。虚無から引き戻された影だ。こんな姿で、生きていると言えるのだろうか?」

 

 彼は剣を構え直した。

 

「だからこそ、ここで王女を斬ることが――俺に残された最後の責任だと信じている」

 

 ユリが、かすれた声で言った。

 

「そんなの……自分の意志で門番をしていると言えるの?」

「黙れ、異邦人」

 

 ヴォルディマンドの声がわずかに荒くなる。

 

「俺の過ちも誇りも……一欠片として、他の誰かに測れるものか!」

 

 先王の首を落としたときは、民のためだと言えたかもしれない。でも今は違う。虚無から無理やり引き戻されてまで守っているのは――

 ユリは、遠くの山頂を指差した。

 

「死者の国に堕ちてなお、あの城に座っている、たった一人の王様の……ために?」

 

 沈黙。

 龍が、雲の切れ間から、じっとこちらを見下ろしていた。ヴォルディマンドは目を伏せた。肩の穴から、また砂がひとつぶ落ちる。

 

「……そうだ」

 

 彼は顔を上げる。

 

「誰かが門に立たねばならないのだ。王女の復讐と憎しみが、この門を越えて何かを壊さぬように。俺もまた、立たねばならないのだ」

 

 視線がスカーレットを捉える。

 

「お前の姿は恨みの化身だ。生の時も、死の時も、ずっとそうだった。このまま城まで行けば、何をする」

「決まっている」

 

 スカーレットの声は静かだ。

 

「クローディアスの喉に、この剣を突き立てる」

「それが、先王の望んだ未来か」

「……」

「お前の父は『許せ』と言った。それでもお前には、それができない。娘でありながら、父の願いを裏切る者だ」

 

 空気が、金属の匂いを帯びていた。

 スカーレットの呼吸は荒い。黒いマントはあちこち裂け、革鎧にも浅い傷が刻まれている。ヴォルディマンドの肩には穴が残っていたが、その動きはほとんど鈍っていない。

 剣戟が一度、二度、三度。音の重さが、じわじわと違ってきていた。

 

(まずい)

 

 ユリには、素人なりにわかった。スカーレットの腕前は並の兵士よりは上だが、真正面から騎士相手にやり合うには分が悪い。しかも、相手は『疲れない』。虚無から引き戻された影である以上、スタミナという概念などない。

 スカーレットが踏み込み、ヴォルディマンドの脇腹を狙う。ヴォルディマンドはそれを受け流し、逆に柄でスカーレットの腹部を打った。

 

「くっ──!」

 

 短い呻き。スカーレットの体が後ろに弾かれ、石畳に膝をつく。

 

「ここまでだ、狂気の王女」

 

 ヴォルディマンドは剣を逆手に持ち替えた。その切っ先が、ゆっくりとスカーレットの喉元へと向かう。

 

「お前の刃は、すでに多くを奪った。コーネリウスも、兵たちも。これ以上、王家の血が憎しみを撒き散らすのを、見過ごすわけにはいかない」

 

 スカーレットは肩で息をしながら、紅い瞳で彼を睨みつける。ヴォルディマンドが静かに続ける。

 

「先王は、処刑台の上で『許せ』と言われた。弟を、民を、愚かさを。憎しみの火を王家に残すな、と」

「黙れ」

 

 低い声だった。

 

「その言葉を盾にして、父上の首を落としたのは誰だ」

「俺だ」

 

 ヴォルディマンドは認める。

 

「だが、それでも俺は、あの言葉を信じたい。あの方が最後に見ていたのは、星空でも王冠でもなく、お前の未来だったと」

 

 スカーレットの指先が地面を掴む。爪の下に、砂が食い込む。

 

「……あのとき」

 

 押し殺した声が漏れた。

 

「私は、ただ見ていることしかできなかった。父上の足元に飛びつくことも、剣を奪うこともできなかった。処刑台の近くで、震えながら立っているだけの――お飾りの王女だった」

 

 青い瞳が、わずかに揺れる。

 

「声が出なかった。泣いていることすら、忘れていた。父上が私を見たかどうかすら、今でもよく思い出せない」

 

 ヴォルディマンドの喉が、ごくりと鳴った。

 

「それでも、『許せ』と言われたんだよ」

 

 スカーレットの声が、一段低くなる。

 

「私はそこから目を逸らして、生き延びた。あの言葉を、聞かなかったことにして。父上の娘でありながら、父上の遺言を踏みにじることで、やっと立っていられた」

 

 その告白は、血より重かった。

 

「そんな私から、復讐を取り上げるつもりか!? 許せなどと言われた瞬間から、私は壊れている。その上で生きる道が、これしかないんだ!」

 

 彼女は、喉元に近づきつつある剣先を、素手で掴んだ。血は出ないが、皮膚が裂ける感覚だけははっきりある。

 

 その声が途切れた瞬間、スカーレットの目が、何もない空間を見据えた。

 

「……父、上?」

 

 声が掠れる。

 ユリには、何も見えない。だが、スカーレットの瞳には、確かに何かが映っていた。処刑台の上で見た、あの日の背中。冷たい石の階段。剣を受ける直前の、父の目。

 それが今、目の前に立っている――スカーレットだけに見える形で。

 

「父上……お父様、おとうさま……!」

 

 スカーレットの唇が、何かを繰り返している。ユリには聞こえない言葉。だが、その表情から、何を言われているのかは推測できた。

 

(許すのだ、スカーレット)

「……え?」

(お前は……)

 

(生きてさえいれば、それだけで構わないのだから)

 

 その瞬間、スカーレットの表情が、凍った。

 

「……何、て?」

 

(復讐も憎しみも、王の名も。全部置いてきなさい。お前は、ただ――)

 

 言葉は優しかった。

 だが、その優しさが、スカーレットの神経を焼く。

 

(生きて……)

 

「……違う」

 

(お前が生きてくれれば、私はただそれだけで……)

 

「黙れ!!」

 

 叫びは、ほとんど喉を裂くような音になった。

 

「黙れ、黙れ、黙れ! お前は父上ではない、消えろ、消えろ!!」

 

 スカーレットは剣を振り上げ、何もない空間に斬りかかる。もちろん、その刃は何も斬れない。空を裂き、石畳に深い傷を刻むだけだ。

 

「今さら……今さらそんなことを……!」

 

 青い瞳から、何かが溢れた。涙なのか、怒りなのか、自分でも分からない。

 

「生きていればそれでいい? どうして処刑台に上がる前に、その言葉を言わなかった!」

 

 剣が、何度も空を切る。

 

「私が生きていればそれでいいのなら――どうして、どうして、全部見せたあとで、許せなんて言った!」

 

 ユリは、息を詰めてその光景を見ていた。

 彼女には幻は見えない。だが、スカーレットの叫びが、どこに向けられているのかは、なんとなくわかった。

 

(父親の言葉……)

 

 看護師として、何度も見送ってきた。病室で、ベッドサイドで、似たような言葉を何度も聞いた。

 ――生きていてくれればいい。

 それは、残された者には救いになる言葉だ。だが、スカーレットにとっては、違ったのだろう。

 

「スカーレット」

 

 ユリは、そっと近づいた。

 

「何も、できなかったんだよね。処刑台の前で立ってることしかできなくて。だからせめて、復讐することで、自分の時間を進めてきたんだよね」

 

 スカーレットが振り向く。その目は青く濡れ、獣のように見開かれていた。

 

「今さら父親に『許せ』なんて言われても、自分の支えにしてきた復讐が全部否定されるみたいで――耐えられないよね」

 

 一度大きく息を吸って、ユリは言葉を続けようとした。

そして、自分の職業的な癖が、ここで顔を出した。

 救急の現場で何度も使ってきた言葉。生き延びた人に対して、何度もかけてきた言葉。

 

「それでも、私は……あなたがここに、生きていてくれることが……」

 

 言いかけて、止まった。

 だが、遅かった。

 空気が、ぴたりと止まった。

 スカーレットの肩が、ゆっくりと震え始める。

 

「……今、なんて?」

 

 かすれた声。

 

「生きてさえいればって――」

「やめろ」

 

 スカーレットが、一歩下がる。

 

「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ!!」

 

「お前まで、そんな言葉を口にするのか!!!」

 

 青い瞳が、ユリをまっすぐ射抜く。

 

「生きていればそれでいいなんて、何もできなかったやつのための慰めだ!」

 

 声がどんどん荒くなっていく。

 

「何も守れなかった親が、自分を許すための言葉だ。誰も救えなかった医者が、自分を保つための言葉だ。お前まで、それを私に向けるのか!?」

 

 ユリは一瞬だけ言葉に詰まった。それは、部分的には図星だったからだ。

 

(何もできなかったとき、それでも生きてる人にかける言葉)

 

 仕事の中で、何度も使ってきた。

 

「……ごめん、私……」

 

 謝るしかなかった。

 

「でも、私は本気でそう思ってる。復讐するかどうかより、その前に、生きてるほうが大事だって」

「ふざけるな!!」

 

 スカーレットが吐き捨てる。

 

「お前たちは、私の『今』を守ろうとする。父上と同じだ。クローディアスとて同じだ! この世界の誰も彼もが、私から剣を取り上げて、それでも生きろなどと言う!」

 

 剣先が、石畳を擦る音がした。

 

「私は、生きているからこそ剣を振っているんだ。生きるために復讐をしている。それを、救いみたいに語るな!」

 

 ユリは、それ以上何も言えなかった。どんな言葉も、今のスカーレットには届かない気がした。

 

「誰一人として……私から、生きる意味を取り上げるな!!」

 

 ヴォルディマンドが、静かに息をつく。

 

 彼の姿は、もうほとんど透けていた。肩の穴から流れ出した砂が、足元に小さな山を作っている。

 

「……呆れて言葉も出ない。これでは、斬る程の価値もない子どもではないか」

 

 彼は剣を下ろし、鞘に収めた。

 

「もう止めはしない。先に行け。行って、現実を前に朽ちることだ。それを俺の慈悲としよう」

 

 スカーレットはユリから視線を外したまま言った。

 

「ユリ」

 

 ユリの喉が、きゅっと縮む。

 

「お別れだ」

「待って……」

 

 スカーレットの声は、ひどく静かだった。

 

「お前といると、父上の言葉を、何度も思い出してしまう。許せだなんて、何度も、何度も、聞きたくない言葉を、思い出させられる」

 

 ユリは、胸の内側が痛くなるのを感じた。

 

「私は、復讐の炎だけを抱いていないと立っていられない。果てしなく燃える炎に身を投じなければ生きていけない者の気持ちを――誰かに理解してもらえると思ったこと自体が、間違いだった」

 

 スカーレットは、ゆっくりと背を向けた。

 

「令和の女。お前の手は、生きたい者のために使え。私みたいな『復讐するために生きたい』人間じゃなくて」

 

 深緑のマントが、風にひるがえる。

 ユリはその背中に手を伸ばし――結局、届かなかった。

 スカーレットは振り返らなかった。山の方へ向かって、ただ歩き出す。

 龍は雷を落とさない。ただ、その姿を空から追っている。やがて、黒い影は、砂の向こうへと消えた。

 残されたのはユリと、ヴォルディマンドと、崩れかけた門だけだった。




原作との差異
・虚無に実態を与えられた云々(原作では死んだら虚無になる以上の言及はない)
・スカーレットが復讐にしがみつくことで生きているという設定
・もはや原作と同じ部分がほぼない

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