これはちょっと毛色が違う。怪異というより、時間そのものがおかしかった夜の話。確かB3の秋の事だ。先輩が言ったことを、今でも信じきれない。でも、あの時の自分の携帯は、確かに鳴った。あの振動の感触は、今でも掌に残っている。現実と非現実の境界が、曖昧に溶け出したような夜だった。
深夜の海沿いを走る車内。
街灯の間隔は広く、白い光と薄闇が交互に車内を通り過ぎては消えていく。
先輩はハンドルを握りながら、妙に黙り込んでいた。
「どうしたんですか?」
俺が聞くと、先輩は小さく笑った。
その笑みは、どこか遠くを見ているような、酷く疲れ切ったものだった。
「……言っても信じないと思う」
「試してみてくださいよ」
「タイムリープしてる」
俺は吹き出した。
「SFですか?」
「笑うよね。でも、証拠出す」
先輩は視線を前に向けたまま、淡々と言った。
冗談を言っているようには見えない。
その横顔は、彫刻のように硬く無表情だった。
「この先の防波堤、赤い自販機の横に猫がいる」
「そんなの偶然でしょ」
数分後、赤い自販機と、その横に座る黒猫がヘッドライトに浮かんだ。
猫は、まるでそこに置かれた置物のように微動だにせず、こちらをじっと見つめていた。
俺は言葉を失った。
「次、街道沿いの看板。コンビニの名前が、君の名字になってる」
「そんなわけ……」
カーブを抜けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、白い看板。
《よしいストア》
俺の名字だ。
そんな店、見たことがない。看板の文字は、まるで見覚えのある自分の筆跡をそのまま拡大したかのようにさえ見えた。
背筋が冷えた。
「まだ信じない?」
先輩の声が低くなる。
車内の空気が、急に密度を増したように重苦しくなった。
「じゃあ、次は……君の携帯、今から鳴る」
ポケットの中で、バイブが震えた。
画面には《不在着信:自分》と表示されていた。
自分の番号から、今この瞬間の自分へ。
発信したはずもないのに、画面の中でデジタル数字が冷酷に明滅している。
「……何なんですか、これ」
俺の声が震える。
先輩は笑った。
「何度も繰り返してるんだよ、この夜。君とここを走るの、もう17回目」
「なんでそんなことに?」
「分からない。でも、今回は違う」
先輩はバックミラーをちらりと見た。
その視線が妙に長い。
まるで、鏡の向こう側にいる”何か”を確認しているかのようだった。
「……何が違うんです?」
「君のセリフ。”なんでそんなことに?”って言ったよね? 今までは”回数、覚えているんですね?”だったんだよ」
ゾッとした。
自分はそんな尋ね方はしないはずだ。
先輩はさらに車を走らせる。
数分後、ポツリと呟いた。
「……抜け出せたかもしれない」
その声には、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。
俺たちはその後、明け方まで走り続けたが、景色がループすることは二度となかった。
結局、あの夜の出来事が何だったのか、先輩に詳しく聞くことはできなかった。
ただ、あの時の「よしいストア」があった場所には、後日行ってみても、空き地があるだけだった。
俺の携帯に残っていた”自分からの着信履歴”も、翌朝には綺麗に消えていた。