今回で先輩と遭遇した怪異はすべて吐き出したことになる。なので、オチは無いのだが、それなりに盛ることにした。あまり突っ込まないでください。ただ、あの時感じた”自分という存在の不確かさ”だけは、脚色抜きの真実だ。
夜の図書館は、昼間とは別の場所みたいだった。
閉館間際の静けさが、耳に痛いほど響く。
時計の秒針の音がやけに大きい。
カチ、カチという音が、まるで巨大な空洞の中で反響しているかのように、脳髄に直接届く。
「悪いね、付き合わせて」
先輩が小さく笑った。
「修論を学会発表するための補強資料、どうしても必要でさ」
「いえ、大丈夫です」
俺はそう答えたが、胸の奥に妙なざわめきがあった。
普段通い慣れているはずの閲覧室が、見たこともない異界への入り口のように感じられて仕方がなかったのだ。
本棚の間を抜けると、紙の匂いが濃くなる。
蛍光灯の白い光が、やけに冷たい。
先輩の背中を追いながら、俺はふと足を止めた。
──潮の匂いがした。
最初は気のせいだと思った。
だが、次の瞬間、強烈な磯の香りが図書館に満ちた。
吐き気を催すほど濃い匂い。
「……先輩」
声が震えた。
先輩は振り返らない。
歩調を速める。
まるで何かに急かされているかのように、先輩の足取りはどんどん早くなっていく。
そのとき、俺のすぐ横に──俺がいた。
俺の隣に、もう一人の俺が立っていた。
同じ服、同じ顔。
笑っている。
鏡を見ているわけではない。
確かにそこには、実体を持った”もう一人の自分”が、意味不明な笑みを浮かべて立っていた。
「……何だ、これ」
思わず呟いた瞬間、先輩が立ち止まって振り返った。
先輩の視線の先には、二人の俺が並んでいた。
どちらも同じ表情をしているのだろう。
「俺ですよ」
二人が同時に言った。
声が重なる。
自分の声が二重に重なって聞こえる感覚は、吐き気がするほど不気味だった。
潮の匂いがさらに濃くなる。
図書館なのに、波の音が聞こえた気がした。
ザザァ、ザザァと、足元から本棚の奥まで、海水が満ちてくるような幻聴に襲われる。
先輩は一歩前に出る。
「どっちが本物?」
低い声。
二人の俺が同じ言葉を繰り返す。
「俺ですよ」
先輩は、しばらく黙っていた。
じっと二人を見比べ、その魂の形でも量っているかのようだった。
そして──おもむろに、一人を選んで腕を引く。
「……こっち」
選ばれなかった方が、悔しそうに舌打ちした。
その音が図書館に鋭く響く。
次の瞬間、そいつの姿は霞のように消えた。
潮の匂いも、波の音も、すべて消えた。
時計の秒針が、再び静かに刻み始める。
止まっていた時間が、ようやく動き出したかのような解放感があった。
「なぜ、俺の方を?」
「ん? 直感」
先輩は淡々と答えたあと、深く息を吐いた。
「……行こう」
俺は頷いた。
足が震えていた。
もし、先輩がもう一人の方を選んでいたら、今ここに立っているのは誰だったのだろう?
出口に向かう途中、先輩がふと俺を見た。
「……なんか、お前の輪郭がはっきりしたような気がする」
「何ですか、それ」
俺は笑った。
声が妙に乾いていた。
図書館を出ると、夜のキャンパスが広がっていた。
冷たい空気が頬を刺す。
二人は並んで歩きだす。
街灯の光が、二人の影を寄り添うように長く伸ばしていた。