先輩から聞いた過去遭遇した怪異2話目だが最終話。ごめん、先輩から聞き出せたの、2つしかないんだわ。ということで、今回の投稿で消えます。アデュー!
山の空気は、初夏でも冷たかった。
大学に入って三度目の登山。
中級レベルの山は、初心者には少しきつい。
足元は岩場が多く、一歩踏み外せば怪我では済まないような緊張感が常に漂っていた。
私は隊列の中ほどを歩いていた。
すぐ前には佐伯さん。
四年生の先輩で、落ち着いた雰囲気の人だ。
「もう少しで頂上だ、頑張れ」
佐伯さんが振り返って声をかけてくれる。
私は息を整えながら頷いた。
木々が密集し、光は細い筋になって足元に落ちている。
鳥の声も、さっきから聞こえない。
妙な静けさがあった。
風で葉が擦れる音さえも消え、自分の心臓の音だけが耳の奥で早鐘を打っている。
まるで山全体が息を潜めて、私たちの通過を待っているかのようだった。
そのとき、視界の奥に、人影が見えた。
細長い。
異様に細い。
腕も脚も、針金みたいに長く、曲がっている。
歩いている。
こちらに向かって。
その動きには生物的な印象はなく、ただただ不自然に、ひたひたと地面を滑るように近づいてきた。
「……え?」
思わず立ち止まった。
佐伯さんが振り返る。
「どうした?」
「前に……誰か」
言いかけた瞬間、佐伯さんの顔が強張った。
「見るな、神崎」
低い声だった。
普段の柔らかさが消えていた。
その瞳には、恐怖というよりは、何か絶対的な禁忌に触れた時のような鋭い拒絶の色が宿っていた。
「でも──」
「見るな」
その響きに、背筋が冷えた。
私は仕方なく歩き出した。
佐伯さんのただならぬ様子に、私は喉まで出かかった言葉を飲み込み、俯くようにして一歩を踏み出した。
でも、視界の端に、まだそれがいた。
細長い影。
ゆっくりと近づいてくる。
すれ違う瞬間、空気が変わった。
冷気が肌を刺した。
吐く息が白くなるほどの冷たさ。
山の空気じゃない。
もっと深い、底なしの冷え。
それはまるで、墓穴の底から立ち上がってくるような、生者の熱を根こそぎ奪い去る死の気配だった。
私は耐えきれず、振り返った。
──そこには、部員の列しかいなかった。
笑い声が遠くで響く。
影は、完全に消えていた。
「……何だったの」
声が震えた。
つい数秒前までそこに存在していたはずの、あの絶望的なほどの冷気はどこへ行ってしまったのか。
頂上に着いたとき、佐伯さんは何も言わなかった。
ただ、下山後、駐車場で私を呼んだ。
人気のない隅。
「振り返っただろ」
淡々とした声。
その声は感情を押し殺しているようで、かえって怖かった。
「……はい」
「二度とするな」
その目が、妙に真剣過ぎた。
それは警告ではなく、生存のための命令なのではないかと疑うような響きを持ってさえいた。
理由は聞けなかった。
聞いたら、戻れない気がした。
あの影と私の間に、永久に解けない結び目ができてしまうような気がして、私はただ黙って俯くことしかできなかった。
それ以来、先輩は山に登るとき、決して後ろを振り返らなくなったという。
俺と出会った後の数々の怪異の中でも、先輩が常に前だけを見据えていたのは、あの日の佐伯さんの教えを守っていたからなのかもしれない。
あの時を除いて。