リオの大冒険 ~ 紋章の指輪と冥竜王ヴェルザー ~ 作:ギアっちょ
その日、空はやけに澄み切っていた。
海風に洗われた蒼(あお)がどこまでも続き、白い雲がゆっくりと流れていく。
その下で、真珠のような白壁を持つ城――パプニカ王城が、
いつもより少しだけそわそわと騒(ざわ)めいていた。
城下では屋台が並び、花が飾られ、子どもたちが走り回る。
今日は「祝祭の日」。
そして、パプニカ王家にとってはもうひとつ――とても重たい意味を持つ日でもある。
紋章の指輪の継承式。
勇者ダイとレオナ王女が世界を救ってから、幾世代。
その血を引く王家の直系に、代々受け継がれてきた二つの指輪。
一方は、「勇者の血」を証すもの。
もう一方は、その力を見守り、ともに歩む者の証。
その指輪を受け継ぎ、婚約者として交換する儀式が、今日、パプニカの大広間で執り行われる――
……と、歴史の教本には書いてある。
「……はぁぁぁぁ~~~」
ため息をついたのは、その“主役”――
パプニカ王女、リオ・レオナハイト・パプニカ、その人だった。
城のテラスから遠くの海を眺めながら、彼女は欄干に頬杖をついている。
陽光を受けて淡い金色に光る髪をひとつに束ね、王女用の純白のドレスではなく、
訓練用の動きやすい服のまま。
「ボク、べつに“世界の期待の星”なんてやりたくないんだけどなぁ……」
一人称は「ボク」。
これが、リオが“素”でいるときの喋り方だ。
鏡の向こうにいるのは、
“勇者ダイとレオナの血を引く、パプニカの王女殿下”で。
でも、欄干にもたれて風に髪を遊ばせているのは、
ただの一人の女の子――リオだった。
そんな彼女の背後から、軽い足音が近づいてくる。
「おーい、殿下。現実逃避はそこまでにしません?」
気安い声。
振り返るまでもなく、誰だか分かる。
「……ボクの現実逃避タイムを邪魔するなんて、いい度胸してるね、ニックス?」
振り向いた先で、扉のところにもたれかかっているのは、
茶色の髪をぼさっと結んだ青年――ニックス。
黒いローブはところどころ焦げ跡付き。
腰のポーチには魔導書と、小瓶に入った謎の液体や粉末。
いかにも“魔法使いです”と言わんばかりの格好だが、その雰囲気はどこか気弱そうで、線(せん)は細い。
パプニカ王立魔道学院の生徒にして、王家近衛隊付きの魔法使い――
そして、大魔道士ポップの末裔であるにもかかわらず、実家からは「出来そこない」呼ばわりされている青年だ。
「やめてくれる? その“出来損ない大魔道士の末裔”みたいな紹介の仕方」
「ボク、一言もそこまで言ってないけど?」
「顔が言ってる。
『また何かしくじったんでしょこの人』って」
「……実際どうなの?」
ニックスは目をそらし、手にしていた紙束をリオに差し出した。
「今朝の魔道学院からの伝令だ。“今年度も上位合格者なし。
ついでに『ポップ家の名を汚すな』と、例の親族からの嫌味メモ付きだよ。ほら」
「うわぁ……相変わらずだね、ポップ家」
リオは紙をちらりと見て、肩をすくめる。
「でもさ。ボクから見れば、ニックスって充分すごいと思うけどね?
昨日の魔物対処だって、あの結界がなかったら城門たぶん吹き飛んでたよ」
「……それは、まぁ。計算上はそうだろうけど」
「胸張りなよ。“出来損ない”とか言うくらいなら、
ボクの前では禁止だからね、その言い方」
「おおっと。リオ様は今日も勇者の子孫ムーブが上手でいらっしゃる」
「それ、褒めてる?」
「半分だけね」
軽口を叩きながらも、ニックスの視線はリオの横顔に向く。
海風に揺れる髪。遠くを見つめるその瞳の奥には、
王女としての重責と、“勇者の血”という名の鎖が静かに渦巻いている。
「……で、憂鬱の原因は。やっぱり今日の“あれ”?」
「うん、“あれ”」
リオは欄干に置いていた手を握りしめる。
「紋章の指輪の継承式。
勇者ダイとレオナ様が世界を救った証で、
パプニカ王家の至宝。
それを、ボクが“勇者の血を引く王女”として受け継いで――
ついでに、将来の婚約者候補と“おそろいにされる”ってやつ」
「事実だからね、それは」
「分かってる。
でも、ボクは“ダイ様のコピー”でも“レオナ様の代用品”でもないんだよ?」
リオはふっと笑って、ニックスを見る。
「ボクは“ボク”として見てほしい。
ただそれだけなのに、みんな肩書きでしか見てくれないんだもん」
「……まぁ。僕も、人のことは言えないけどね」
ニックスは苦笑した。
「“大魔道士ポップの末裔”ってだけで、実力以上の期待と失望をセットで投げられる。
血ってのは、本当にめんどくさい」
「そうそう、それそれ! 完全同意!」
二人が同時にため息をついた、そのとき――
「殿下、ニックス。ここにいらしたのですか」
低く落ち着いた声が背後からかかった。
振り返ると、そこには銀の鎧をまとった青年――タイガが立っていた。
短く切り揃えられた黒髪。
引き締まった体躯。
腰には、よく鍛えられた剣。
姿勢は真っ直ぐ。
その立ち姿だけで、“騎士”という職業を体現しているようだった。
彼は、かつて勇者アバンとフローラ女王が復興させたカール王国の出身。
アバンの教えを受け継ぐ流派の一員にして、
今はパプニカ王国に留学中の“アバン流騎士”である。
「タイガ。巡回終わったの?」
「はい。城門周辺、警戒異常なし。
ただし、祝祭の準備で人の出入りが増えています。念のため護衛の配置を増やすべきかと」
「真面目か」
ニックスが小声で突っ込む。
「……何か言いましたか、ニックス殿?」
「いえいえ何も。さすが“アバン流のエリート騎士様”だなぁと」
「事実を言わないでもらえますか。照れます」
「照れるんだ……」
タイガは小さく咳払いし、表情を引き締め直す。
「それと、殿下。
本日の継承式について、国王陛下より『準備はよいか』との伝言です」
「う……」
さっきまで遠い海を見ていたリオの顔が、一瞬で現実に引き戻される。
「準備、ね。
精神的な準備が、全然できてないんだけど」
「殿下。今日は、パプニカだけでなく、世界中から使節が来ています。
“勇者の血”の象徴として、堂々と立たれるべき日です」
「分かってるよ、タイガ。
……そういうマジメなことを真顔で言うから、なおさら逃げたくなるんだよね」
「申し訳ありません。“不真面目な励まし方”を知らないもので」
「そこは頑張って覚えてよ。ボクの婚約者(仮)候補なんだから」
「……仮、なのですか?」
「仮、だよ?」
リオはいたずらっぽく笑い、そしてすぐに真顔に戻る。
「でも、今日の式はちゃんとやる。
ボクが逃げたら、それこそ“勇者ダイの子孫失格”だもん」
その肩に、そっと柔らかな手が添えられる。
「殿下。お時間です」
振り向けば、そこにいたのは白と淡い青の僧衣をまとった少女――メル・リンス・フォース。
麦わら色の髪を後ろでまとめ、胸元には小さなペンダント。
穏やかな瞳の奥には、どこか“神官”としての揺るぎない光が宿っている。
彼女は、竜の騎士を祀るテラン神殿出身の神官見習いにして、
第四代目“リンス”の名を継いだ少女。
今はパプニカ王国に留学し、リオ付きの巫女として仕えている。
「扉の前で、侍女たちが泣きそうな顔で待っておられますよ?
『殿下がドレス着てくれません』って」
「うっ……」
図星だった。
「リンスまで敵に回った……」
「私は殿下の味方です。
だからこそ、“逃げたい時に背中を押す役”も、務めさせてください」
リンスは柔らかく微笑む。
「殿下がどんなお姿であっても。
“リオ・レオナハイト・パプニカ”として、
私は信じていますよ」
「……参ったなぁ」
リオは頭をかいて立ち上がった。
「分かった。ちゃんと着替える。
ボクはボクなりに、“勇者の子孫”やってみるよ」
「はい。では――公式の場に出る前に、口調の確認を」
「えっ」
「殿下?」
「……わ、わたくし、リオ・レオナハイト・パプニカは、本日の式を……ってやつでしょ?
分かってる、分かってるからそんな目で見ないで」
ニックスは小声で笑い、タイガはわずかに口元を緩めた。
「では殿下。支度に参りましょうか」
「……はい。行きます、リンス」
リオは最後にもう一度だけ、海を振り返る。
青い空。
穏やかな波。
世界は、一見何の問題もなく、平和そのものに見える。
(――ほんとに、そうならいいんだけどね)
胸の奥に浮かんだ小さな不安を、
リオはまだ言葉にはできなかった。
◇
パプニカ王城・大広間。
豪奢なシャンデリアの下、各国からの使節や貴族たちが列をなし、
大理石の床に敷かれた赤い絨毯の先――玉座の手前に、
ふたつの小さな台座が用意されていた。
そこに置かれているのは、
赤と青の宝石をそれぞれ一つずつ嵌めた、古びた指輪。
――紋章の指輪。
勇者ダイとレオナ王女が残し、
代々の王とその伴侶へと受け継がれてきた、“竜の紋章”の器。
大広間の壁の一角には、
厳重な封印と結界に守られたガラス越しに、一振りの剣も飾られている。
名工ロン・ベルク作、勇者ダイのために打たれた、伝説の剣――ダイの剣。
今や国宝として、抜くことを許されているのは現パプニカ国王ただ一人。
リオでさえ、訓練用の模造剣しか握ったことはない。
(……いつか、ボクも)
ほんの一瞬だけ、リオはそちらに視線を向けて、すぐに逸らした。
――今日は、指輪の話だ。
剣に手を伸ばす日は、まだ許されていない。
「静粛に!」
儀礼官の声が響く。
楽団が演奏を止め、大広間は一瞬で静まり返った。
「パプニカ王家直系、リオ・レオナハイト・パプニカ殿下、ご入場!」
扉が開き、白と金の礼装を身にまとったリオが姿を現した。
いつもの動きやすい服ではない。
胸元には王家の紋章。裾には竜と獅子を模した刺繍。
髪も、侍女たちの努力の結晶なのか、いつもよりそれらしくまとめられている。
(うわぁ……歩きにくい……)
心の中でだけ、リオは素のボク口調で愚痴る。
だが表情は崩さない。
ゆっくりと、玉座の前まで歩み出る。
反対側の扉からは、銀の礼装を纏ったタイガが入場してくる。
彼もまた、いつもの鎧とは違う。
それでも、その一歩一歩にはやはり揺るぎない騎士の風格があった。
玉座に座る国王――リオの父が立ち上がる。
「本日、我が娘リオ・レオナハイト・パプニカと、
友邦カール王国よりの客人にして、我らの未来を共に担う者、タイガを、
ここに“紋章の指輪”の継承者として迎える」
重々しい声が大広間に響く。
「この指輪は、かつて竜の騎士と勇者が世界を救った証。
そして、彼らが『未来を託したい』と願った“希望の器”である」
国王は台座の前に進み、赤と青、ふたつの指輪を手に取った。
「リオ。前へ」
「……はい、父上」
リオは一歩進み出る。
今だけは、「ボク」ではない。
パプニカの王女としての顔で、父を見上げる。
「リオ・レオナハイト・パプニカ。
そなたは勇者の血を受け継ぎ、この大地と人々を見守る者として、
この指輪を受け継ぐ覚悟はあるか」
「――わたくしは」
喉が一瞬、乾いた。
だがリオは、しっかりと前を見据える。
「わたくしは、リオ・レオナハイト・パプニカは、
勇者の血を誇りではなく責務として受け止め、
この世界を見守り続けることを、ここに誓います」
その言葉に、静かなざわめきと、幾人かの感嘆の息が混じる。
国王は頷き、青い宝石の指輪をリオの前に差し出した。
リオは両手を差し出し、そっとその指輪を受け取る。
――その瞬間だった。
指輪の青い宝石が、かすかに。
本当に、ほんの一瞬だけ。
海の底の光のように、淡く輝いた。
(……え?)
リオは思わず息を飲んだ。
指輪が、温かい。
手のひらの中心から、心臓の方へと、じんわりと何かが流れ込んでくる感覚。
幾世代もの時を越えて、誰かの想いがふわりと触れたような――そんな感触。
「……どうかしましたか、殿下?」
すぐそばで控えているリンスが、小さな声で囁いた。
その瞳は、リオの手元をじっと見つめている。
どうやら、彼女にも“今の光”が見えていたらしい。
「……ううん。なんでも、ない。
……はず」
リオはかろうじて表情を崩さず、青い指輪を自分の右手の薬指にはめる。
ぴたりと、収まりが良かった。
「続けよ」
国王の声に促され、今度はタイガが前へ出る。
「友邦カール王国の勇士、タイガ。
そなたは、我が娘と共に歩み、この世界を守る伴侶として、
この指輪を受けとる覚悟はあるか」
「はい」
タイガの声は、まっすぐに響いた。
「私は、カールの騎士として。
そしてリオ殿下の隣に立つ者として、
この指輪を誓いの証とし、剣をもって世界を守ることを誓います」
国王は赤い宝石の指輪を、タイガに手渡す。
タイガはそれを左手にはめ――ふと、わずかに眉をひそめた。
「……?」
「どうしたの、タイガ?」
「いえ……。気のせい、でしょうか」
赤い指輪もまた、一瞬だけ、
今にも炎になりそうな赤でちらりと光ったような気がした。
だが、それは誰も確かめる前に消えてしまった。
儀式は滞りなく進み、
やがて「パプニカ王家とカール王国との永き友誼を――」という締めの言葉で、
大広間は拍手と歓声に包まれた。
(……今の、なんだったんだろう)
リオは胸元に手を当てる。
指輪は、もう何の変哲もない、ただの宝石にしか見えない。
けれど、右手の指先から胸の奥へと続く、温かな余韻だけは消えなかった。
◇
――その夜。
祝宴も終わり、城に静寂が戻った頃。
リオはひとり、自室の窓辺に座っていた。
ドレスからはとっくに着替え、いつもの楽な服装に戻っている。
右手の指輪だけが、今日から加わった“新しい違和感”だ。
「……光ってよ、なんて言ってないんだけどなぁ」
指輪を摘まんで、リオはぼそりと呟いた。
「ボク、ただの人間でいたいって、さっきあんなに思ってたのに。
こうやって勝手に“特別”アピールされると、複雑なんだけど」
窓の外には、満天の星。
遠くの海に、月明かりが揺れている。
扉が、こんこん、と控えめに叩かれた。
「殿下、失礼いたします」
「リンス?」
入ってきたのは、白い寝間着に羽織を重ねたリンスだった。
「こんな時間にごめんなさい。
眠れなくて……。それに、殿下のお顔も、見ておきたくなったので」
「ボクの顔なんて、いつも通りだよ?」
「“いつも通り”なら安心できます」
リンスはくすりと笑い、リオの向かいの椅子に腰掛ける。
「さっきの指輪のこと、気になっておられるのでしょう?」
「……見えてたんだね、やっぱり」
「ええ。はっきりと。
青と赤。ほんの一瞬でしたが、間違いなく光っていました」
リンスは少しだけ真剣な顔つきになる。
「殿下。
神官としての勘で言うなら、“あれ”はただの気のせいではありません」
「だよねぇ……」
リオは窓の外を見上げる。
「リンス。ボク、今日の式の前に思ったんだ。
“この世界、ほんとに何の問題もなく平和ならいいな”って」
「……」
「でも、あの光を見ちゃうとさ。
――“何かが動き出した”って、そういう感じがするんだよね」
リンスはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「実は、私も……少し、いやな夢を見ました」
「夢?」
「はい。
石になった巨大な竜が、
暗い闇の中で、ゆっくりと、目を開こうとしている夢です」
リオの背筋に、冷たいものが走った。
「……どんな、竜だった?」
「闇よりも黒い鱗。
睨まれただけで、魂まで凍りつきそうな――そんな眼でした」
リンスの声が、少しだけ震える。
「目の前に立っているのに、祈りの言葉が出てこなかった。
“これは神ではない。祈る相手ではない”と、本能が叫んでいました」
「……」
リオは、右手の指輪をぎゅっと握りしめる。
「リンス。
もし本当に“何か”が動き出してるなら、
ボクは――」
その言葉の続きを、彼女はまだ言えなかった。
代わりに、窓の外で遠く光る星を見上げる。
そのずっと、ずっと下。
海の底よりも深く、世界のどこか。
誰も知らない場所で、
石に閉ざされた巨大な竜の像に、
細い細い亀裂(ひび)が一筋、走る。
閉じられていたはずの瞼の裏で、
燃えるような紅い光が、かすかに揺れた。
(――竜の騎士の血が、まだ息づいておるか)
(よい。ならば、再び喰らうだけのこと)
冥竜王ヴェルザーの、誰にも届かない嗤いが、
静かに、闇の底に落ちていった。