リオの大冒険 ~ 紋章の指輪と冥竜王ヴェルザー ~ 作:ギアっちょ
その夜、パプニカ王城の空は澄んでいた。
雲ひとつない――月が、よく見える夜だ。
王家の保管庫は、普段よりもさらに厳重に閉ざされている。
扉の前に立つ衛兵の数も増え、通路に灯る明かりも減っていた。
必要以上の光は、要らない。
――何かが“光”を嫌うような気がして。
「……おい」
保管庫の扉の前で、ニックスが小さく舌打ちをした。
導雷のロッドを脇に抱え、隣のリンスを見下ろす。
「ほんとに“今夜だけ”だぞ。
王命だから付き合ってるが、俺は夜の見回りなんて趣味じゃない」
「承知しています。ニックス様」
リンスは目を伏せ、静かに頷く。
ニックスがここにいるのは、単純な好奇心ではない。
今日の報告の最中――王が最後に言ったあの一言が、ひっかかった。
「夜間の取り扱いは禁ずる」
禁ずる理由がある。
つまり――“夜に何か起こる”可能性を、王は想定している。
そしてニックスは参謀だ。
想定されるなら、把握したい。
把握できないなら、せめて“兆候”だけでも掴みたい。
「……開けるぞ」
保管庫を預かる老いた管理官が、鍵束を鳴らした。
重い錠が外れ、扉が、ゆっくりと開く。
冷たい空気が、ふっと二人の頬を撫でた。
保管庫の中には、封印箱が一つ。
黒い歯のような欠片は、そこに眠っている。
「近づくな」
管理官が言う。「箱には触れず、確認だけだ。王命だ」
「分かってる」
ニックスは答えた。
その声が、自分でも妙に固いと感じた。
――そして。
保管庫の高い小窓から、月光が差し込んだ。
細い光の帯が、床を横切り、封印箱の縁をかすめる。
その瞬間。
封印箱の内側――欠片の上に、淡い紋様が浮かび上がった。
「……っ」
ニックスが息を呑む。
リンスの指先が、無意識に胸元の祈りの形を作った。
浮かんだのは、文字に似た刻印。
だが、人間の言語ではない。
読めそうで読めない。意味がありそうで、意味が掴めない。
そして何より――
(……月光で、読む刻印?)
ニックスの脳裏に、嫌な一致が走る。
古い手記の断片。
大魔道士ポップが遺した、どこか冗談めいた注意書き。
「闇は、光を避ける。だが“月”だけは例外だ。
月は夜の味方であり、闇の合図にもなる」
冗談みたいな文体。
だが、今この目の前で起きている現象は、冗談の皮を被った“真実”だった。
ニックスは導雷のロッドを、そっと構えた。
光を増やすためじゃない。
自分の魔力の流れを、整えるためだ。
刻印を“読む”――そのための形を、頭の中で組み立てる。
(……行ける。解ける。ここで……)
その瞬間、背後で管理官が低く唸った。
「やめろ」
ニックスは動きを止めた。
「……なんでだ。
見てるだろ。今、ここで起きてる。
原因が分かれば、対策が――」
「対策の前に、最悪を避ける」
管理官は言った。「王命だ。読むな。触れるな。呼ぶな」
「呼ぶ……?」
リンスが小さく問い返す。
管理官は答えず、ただ、扉の外へ視線を向けた。
「……夜は、呼びやすい」
それだけ言うと、管理官は小窓の戸を閉め、月光を遮った。
刻印は、すっと消えた。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
静寂が戻る。
ニックスの胸の奥だけが、やけに騒がしい。
(……読めた。
多分、読めた。
でも“読む”ってのは、向こうにとって“聞こえる”ってことか)
導雷のロッドのコイルが、わずかに熱を持っている。
ニックスはそれを見て、奥歯を噛んだ。
(俺は、今。
勝ち筋を作るために、余計な穴を開けかけた)
参謀はクールでいなきゃいけない。
それは“格好つけ”じゃない。
――生き残るための、役割だ。
「……戻るぞ」
ニックスは短く言い、扉へ向かった。
リンスは、その背に一礼する。
その瞬間だけ、リンスの耳に幻のような音が聞こえた気がした。
――カチリ。
まるで鍵が、どこかで“ひとつ”動いたような。
*
翌朝。
王城の中庭に、冷たい風が吹いていた。
リオは呼び出された。
父王の声は、いつも通り厳しく、しかし短い。
「来い。――保管庫へ」
「……はい、父上」
リオは、背筋を伸ばして歩いた。
王族としての歩き方。
隊長としての歩き方。
隣を歩くタイガは、いつもより無言だった。
鎧の魔剣の重さは、今日も彼の背にある。
それは誇りであり、課題であり――覚悟の重みだ。
そして二人の少し後ろに、サー・アルバンがつく。
剣士の型が、そのまま歩行になったような男。
保管庫の前で、王が立ち止まった。
「リオ」
名を呼ばれた瞬間、胸がきゅっと締まる。
王が娘を呼ぶ声ではない。
“国が”呼ぶ声だ。
「剣を握ってみろ」
管理官が扉を開ける。
中は昨日よりも静かだった。
月光がないからか、欠片も何も、ただ眠っているように見える。
そして、壁際の台座に安置されたものが、目に入った。
――ダイの剣。
パプニカ王家の秘宝。
英雄の剣。
伝説の名工ロン・ベルクが鍛えた、勇者の刃。
鞘は美しく、しかし簡素だ。
必要以上の装飾がない。
代わりに、鞘の口元に――鍵がある。
リオは、ほんの一瞬だけ息を忘れた。
(……これが)
物語の中の“道具”ではない。
国の歴史そのものが、目の前にある。
「手を」
王が言う。
リオは一歩進み、両手で柄に触れた。
――冷たい。
鉄の冷たさではない。
山の湧水みたいな、透き通った冷たさだ。
リオは、ゆっくりと握りを強めた。
鞘にある鍵へ指が触れる。
開くべきか、開かざるべきか。
「抜け」
王は命じない。
ただ、見ている。
リオは、剣を抜こうとした。
……動かない。
鍵が固いわけではない。
鞘が引っかかっているわけでもない。
剣そのものが――動く気配を、まったく見せない。
リオは少し力を込めた。
それでも、抜けない。
肩に力が入る。呼吸が浅くなる。
悔しさが、喉にひっかかる。
(抜けない……?)
その瞬間、リオの口から、思わず“素”が漏れた。
「……ボク、まだ……?」
言ってから気づいて、リオは頬を赤くした。
後ろでタイガが小さく瞬きをする。
アルバンは何も言わない。ただ、見ている。
王は、ようやく口を開いた。
「剣が拒んだのではない」
リオが顔を上げる。
「剣が……待てと言ったのだ」
「待て……」
「ダイの剣は、戦うべき時ではない場所で、抜かれることを好まぬ」
王の声は静かだ。だが重い。
「使わずとも切り抜けられる状況なら、剣は封じられる。
然るべき状況になった時のみ、剣は鍵を許す」
リオは、柄を握ったまま、胸が熱くなるのを感じた。
拒絶じゃない。
選別だ。
――今の自分は、まだ「ここで抜く理由」を持っていない。
その事実が悔しい。
でも同時に、希望でもある。
(いつか、必要な時が来る。
その時、剣はボクを……“私”を、選ぶ)
アルバンが、そこで初めて短く言った。
「剣は、今のお前を測っただけだ」
リオは口を開きかけて、やめた。
言い訳をする場ではない。
そして、言い訳をしたいわけでもない。
代わりに、背筋を伸ばし、剣を丁寧に鞘へ戻した。
そして王へ、深く礼を取った。
「……私は、強くなります」
王は頷く。
「剣が抜けぬことを嘆くな。
剣が抜けぬ間に、己で守れるようになれ」
その言葉は、まるで遠い昔に誰かが誰かへ告げた檄のようだった。
――ログナー司令の声が、リオの胸の奥で重なる。
(紋章に頼らずとも、守れるほどになれ)
リオは、剣から手を離した。
指先に、冷たい余韻が残っている。
タイガが、そっと口を開く。
「殿下……」
「うん」
リオは小さく頷いた。
「次は、海波斬。
それから空裂斬。――アバンストラッシュだ」
タイガは、悔しそうに笑った。
「……俺もだ。
鎧に引っ張られてる場合じゃない。
殿下が進むなら、俺も並ぶ」
ニックスは保管庫の入口にいた。
昨夜の“刻印”のことは言わない。
言えば、皆の背に不必要な恐怖が乗る。
だが、言わない代わりに――ニックスは決めた。
(次は夜だ。
向こうが夜を合図にするなら、俺は夜に勝ち筋を作る)
導雷のロッドのコイルが、まだ微かに温かい。
昨夜、確かに“何か”が通った痕だ。
王は最後に、リオを見て言った。
「剣が抜けぬ今だからこそ、お前たちは成長できる。
剣に頼らぬ勇者であれ。
――剣が必要になった時、迷いなく抜け」
リオは、強く頷いた。
「はい、父上」
その瞬間、保管庫の奥で、封印箱がほんのわずかに――きしんだ気がした。
誰も振り返らない。
聞こえたのは、気のせいだと信じたい音だった。
だが、確かなことが一つある。
夜は、近い。
月は、今日も昇る。
そして“火種”は、もう眠りのふりをしているだけだ。