リオの大冒険 ~ 紋章の指輪と冥竜王ヴェルザー ~ 作:ギアっちょ
その夜、王都の宿舎は静かだった。
窓の外では、雲の切れ間から月が覗き、薄い銀色の光が廊下の床に一本の線を落としている。
――ニックスは眠れなかった。
というより、“眠る気”が起きなかった。
ベッドに腰かけ、ポケットの底から、あの薄い金属片を取り出す。
昼間はただの傷みたいな擦れ跡にしか見えなかったはずの面が、月光に触れた瞬間だけ、妙な“影”を落とした。
文字が、浮き上がるのではない。
逆だ。光に照らされているのに、文字の部分だけが沈むように暗くなる。
――AMATERASU。
ニックスは、息を呑んだ。
(……太陽の名が、月でしか読めないってのは、どういう冗談だ)
指でなぞると、彫ったというより“溶けた”みたいに滑らかだ。
剣で刻んだ傷でも、錬金の刻印でもない。魔法でも説明がつかない。
いや――説明はつく。
ついてしまう。
ポップの手記にあった“符丁”。
意味不明で、けれど妙に引っかかる一語。
(“外側の観測者”……)
ニックスは、金属片を握りしめて、深く息を吐いた。
(掘るしかねぇな。……嫌な予感しかしねぇけど)
枕元の小さな鞄から、使い込まれた薄いノートを引きずり出す。
家――“出来そこない”と呼んだ実家から持ち出した、唯一の戦利品。
大魔道士ポップの末裔として残された、断片の断片。
彼は、ページをめくる。
破れた紙片を貼り合わせた箇所。インクが薄い箇所。
そして――何度読んでも意味が繋がらない“符丁”の欄。
そこに、書いてあった。
「太陽の名は、口にするな」
「名を落とせば、影が寄る」
「読むなら、月の下だ」
ニックスの目が細くなる。
(……まんまじゃねぇか)
鳥肌が立つ。
金属片が、まるで“答え合わせ”のようにそこにあるのが、いちばん気味が悪い。
彼は立ち上がった。
部屋の灯りを落とし、足音を殺して扉を開ける。
――王立魔道学院の旧記録室。
そこに、何かある。
*
夜の王都は、昼間と違って“音が少ない”。
だからこそ、些細な物音が目立つ。
石畳を踏む靴音を極力抑えながら、ニックスは魔道学院の外壁沿いを歩いた。
月が雲に隠れると、街路灯の明かりだけが頼りになる。
(教団が月夜に動くってのも……吸血鬼みたいで嫌だな)
笑い飛ばしたいのに、笑えない。
“太陽の加護”を受ける側と、“影”を好む側。
対比としては綺麗すぎる。
学院裏手の古い扉。
昼間は封印札が貼られ、立入禁止の札がぶら下がっている場所だ。
ニックスは軽く舌打ちした。
「……そう来るかよ」
だが、ここで諦める気はない。
彼は指先に魔力を集め、最低限の呪文を囁く。
「レミーラ」
光そのものではなく、“隠されたもの”を見えやすくする術。
古い封印札の端に、誰かが一度剥がして貼り直したような“ズレ”が見える。
最近だ。ごく最近。
(……俺の他にも掘ってるやつがいる)
嫌な確信が、背骨を冷やした。
ニックスは慎重に札を剥がし、扉を押し開けた。
中は埃臭い。紙と古木と、インクの匂い。
薄暗い廊下の先に、旧記録室がある。
室内には、背の高い棚が並び、古い書簡や写本が眠っている。
ニックスは迷わず、一角の“事件記録”の棚に向かった。
黒の核晶。
異界神。
世界の危機。
――そして、あの時“何が残ったか”。
彼は、書類を引き抜いては目を走らせる。
王家の記録は、当然ながら丁寧で、そして……肝心なところほど曖昧だ。
(そりゃそうだ。王家が“神”なんて単語を残すわけねぇ)
そのとき。
――紙をめくる音。
ニックスの指が止まった。
自分の音じゃない。
室内のどこか、棚の向こう。
(……いる)
心臓が、嫌な打ち方をする。
ニックスは、わざと雑な動きで書類を戻し、別の棚へ移動した。
“音”に反応する相手がいるなら、こちらも反応を見たい。
そして、次の棚で――彼は“空白”を見つけた。
あるはずの写本が、抜かれている。
周囲だけ埃が薄い。最近持ち出された証拠だ。
(……盗られてる)
舌の奥が苦くなる。
彼の背中を冷たい汗が伝った。
その瞬間、背後で空気が動いた。
ニックスは反射で身を低くし、棚の影に滑り込む。
何かが、通った。人の気配。
だが足音がない。息遣いもない。
(……影、ってやつかよ)
そして、微かな匂い。
あの封印庫の床に落ちていた、黒い粉の匂い。
ニックスは歯を食いしばった。
(冥竜教団……)
戦うのは得策じゃない。
ここで騒げば、相手は逃げる。だが逃げるだけじゃない――“持ち帰る”。
情報を。写しを。符丁を。
ニックスは、ゆっくりと息を吐き、机の上にあった書簡束を一つ取り上げた。
そして――わざと落とす。
バサッ!と派手な音が鳴る。
同時に、彼は呟いた。
「……今だ」
棚の向こうで、何かが一瞬だけ動揺した気配。
ニックスはその隙に、抜かれていた写本の“代わり”に残された紙片を見つける。
薄い紙。
端だけ切り取られ、そこに意味不明の綴り。
USARETAMA――ではない。
途中が欠けている。だが、確かに“それ”に近い。
(神殿の綴りと、手記の符丁が……繋がってる)
繋がった瞬間、ニックスの中で“言えない”が増える。
確信が増えるほど、口に出したくなくなる。
――太陽の名は口にするな。影が寄る。
手記の一文が、急に現実味を帯びた。
彼は紙片を懐にしまい、すぐに踵を返す。
そのとき、廊下の奥から声がした。
「……ニックス?」
聞き慣れた、軽い声。
けれど今は、妙に落ち着いている。
「殿下……?」
振り返ると、そこにいたのはリオ・レオナハイト・パプニカ。
夜なのに、堂々と。
でも声量は抑えている。足取りも静かだ。
「やっぱり。抜け出したと思った」
「いや、これは……」
「言い訳はいいよ。ボク、怒ってない」
リオはニックスの目を見て、軽く肩をすくめた。
「ただね。隊の主として言う」
「……主役みたいなこと言うじゃねぇか」
「主役だよ?」
リオは、笑った。
その笑いが、今のニックスにはやけに眩しい。
「隠し事で死なれるの、困るんだよね」
「……」
「言いたいときに言えばいい。でも、“一人で抱えて潰れる”のはダメ」
ニックスは一瞬、言葉を失った。
(王女が、こういうときに強いの反則だろ)
彼は視線を逸らし、低く言った。
「……AMATERASUって符丁がある」
「うん」
「ご先祖……ポップの手記に書いてある。意味は不明。だが――」
ニックスは懐から金属片を出しかけて、やめた。
ここで見せるべきじゃない。見せたら、影が寄る。
代わりに、紙片だけを取り出す。欠けた綴り。
「神殿の扉にあった綴りに似てる。USARETAMA……あれの“写し”か、断片だ」
「……写した人がいる?」
「いる。今も」
リオの表情が引き締まった。
「冥竜教団?」
「十中八九」
リオは短く息を吸って、言った。
「じゃあ、戻ろう。タイガとリンスにも知らせる」
「全部は言えない」
「分かってる。言えないなら、言わなくていい」
その言葉に、ニックスの胸が少しだけ軽くなる。
「でもね」
リオが続ける。
「ボクは“決める”役だ。決めるための情報は……少しずつでいいから、くれ」
ニックスは、苦笑した。
「……殿下、ズルいな」
「そういうの得意なんだよ。王女だからね」
その瞬間――廊下の奥で、また空気が動いた。
リオが即座に気づく。
ニックスも、気づく。
だが、追わない。
ここは戦う場所じゃない。
影は、もう逃げた。
目的を果たして。
ニックスは唇を噛んだ。
(……次は、場所だ)
手記の断片には続きがある。
月の下で読め。
そして――“名を落とすな”。
ニックスは、リオと並んで歩き出す。
帰路の月明かりが、二人の影を長く引いた。
(切り札っていうのは、最後まで見せないジョーカーのことを言う)
心の中で呟き、ニックスは自分を冷静に保った。
今は、まだ。
まだ“その時”じゃない。
懐の紙片を指で押さえながら、ニックスは静かに決める。
(……殿下が決める。そのための“材料”は、俺が集める)
ニックスは何も言わずに、リオの歩幅に合わせた。