リオの大冒険 ~ 紋章の指輪と冥竜王ヴェルザー ~ 作:ギアっちょ
王都を出て半日。
丘をいくつか越えた先、森の縁にぽつんと残された石造りの建物が見えてきた。
――小さな廃聖堂。
かつては旅人が祈り、病人が癒やしを求め、村人が祝福を受けに来た場所だと聞く。
だが今は屋根の一部が崩れ、扉は半ば外れ、風が勝手に出入りしていた。
それでも、リンスは足を踏み入れた瞬間に息を呑んだ。
「……祈りの“残り香”が、あります」
そう言った声が、いつもより少しだけ硬い。
リオは彼女の横顔を見て、小さく頷いた。
「でも、嫌な感じもする。……だよね」
「はい。清らかさが……薄い膜みたいに、汚れに押し返されてるような」
タイガも、眉間に皺を寄せた。
「……空気が重いな。身体が鈍る」
言われてみると、確かにそうだった。
歩くたびに、足首が少しだけ遅れる。剣を握る指先が、わずかに痺れる。
微弱だ。致命的ではない。
だが「普通じゃない」と分かる程度には、確かに異常。
ニックスが肩をすくめた。
「瘴気だな。濃度は低い。けど……“場”が汚れてる」
そして目線だけで、リオに合図する。
(殿下、ここだ)
リオは頷き、皆に手を上げた。
「……警戒。中に、何かいる」
*
廃聖堂の内部は、思ったより広かった。
壁面には色褪せた壁画。祭壇の奥には、割れた紋章の彫刻。
――と、その前に。
道中、森の手前の草地。
隊を進めながら、リオは小さく息を吐いて剣を構えた。
「……もう一回だけ。タイガ、見てて」
「いいけど。焦るなよ、殿下。……いや、リオ」
タイガはそう言って、わざと少しだけ口調を柔らかくした。
リオは頬をふくらませる。
「いま、“殿下”って言いかけたでしょ」
「言いかけた」
「言いかけたんだ」
「……敵がいないときくらい、力抜け」
リオは、むぅ、と唸ったが――すぐ真面目な目になる。
「いまのボク、呪文も剣もどっちも中途半端だ。
だから……合わせたい。合わせたら、きっと強い」
ニックスが後ろから鼻で笑う。
「殿下、理屈は合ってる。問題は手順だ」
「分かってる。……でも難しい!」
「難しいなら簡単にしろ。詠唱を短くするんじゃない。完成のタイミングを合わせる」
タイガが口を挟む。
「踏み込みの瞬間、点火。剣の動きに呪文を“乗せろ”。押し付けるな」
リオは深く息を吸う。
大地斬の踏み込みを、ゆっくり確かめる。
(踏み込みの瞬間……点火)
「メラ……!」
炎が剣先に灯る。
だが、散った。火花が風にほどける。
「うぅ……!」
リオは悔しそうに剣を下ろし、じたばたと足踏みした。
「くやしい! あとちょっとなのに!」
リンスが思わず微笑む。
その笑顔を見て、リオは照れたように咳払いした。
「……い、いまのは“確認”だから! 本番はちゃんとやるから!」
タイガは苦笑しながら、剣を立てる。
「殿下は殿下だ。焦らなくても強い。
……でも、その“あとちょっと”を埋めるのが訓練だ」
リオは真剣に頷いた。
「うん。もう一回。……今度は、ちゃんと合わせる」
*
そして今。
廃聖堂の内部。
壁面には色褪せた壁画。祭壇の奥には、割れた紋章の彫刻。
――そして。
祭壇の前に、黒ずんだ石片が三つ、並べられていた。
石碑の欠片。
ただの石ではない。表面に細い溝が刻まれ、そこに黒い粉が擦り込まれている。
まるで、簡易の魔法陣の“核”みたいに。
その周囲には、鱗のある影。
「……リザードマン」
タイガが低く呟いた。
しかもただのリザードマンじゃない。
身体の周囲に、薄い霧のような黒い揺らぎ――瘴気を纏っている。
彼らは、石碑片を“設置している途中”だった。
一本の棒で溝に粉を押し込み、何かの符号をなぞるように刻んでいる。
リオは息を吸った。
(これが……教団の“下準備”)
静かな廃聖堂に、リザードマンの低い声が響いた。
「……ミツケタ」
「……ニンゲン」
「……ジャマ」
次の瞬間、瘴気がふわりと膨らみ、空気が一段重くなった。
リオの反射が、ほんの僅か遅れる。
タイガの踏み込みが、ワンテンポ遅れる。
――鈍い。
微弱でも、戦闘では致命傷になり得る。
「リンス!」
「はいっ!」
リンスが胸の前で手を組み、短く祈りの言葉を紡ぐ。
光、というほどの派手さはない。だが彼女の祈りが、薄い膜みたいに皆の周囲に広がった。
重さが、ほんの少し和らぐ。
「……完全に消せません。まだ、私の力が……」
「十分! 今は、それでいい!」
リオはそう言って前に出た。
――だが、タイガが先に踏み込んだ。
「俺が押さえる!」
剣が走る。
リザードマンの爪が迎え撃つ。
カンッ――と硬い音。
タイガの剣が弾かれるわけではない。
ただ、刃が“通りにくい”。瘴気が薄い膜のように抵抗する。
その抵抗が、さらに動きを鈍らせる。
(……くそ、厄介だ)
タイガが歯を食いしばる。
リオは後方から剣を構え、息を整えた。
(今だ。……訓練の通りに)
彼女は短く唱える。
「メラ!」
炎が剣の先に灯る。だが――散る。
踏み込みが遅い。炎が剣に“乗らない”。
「……っ」
焦りが、喉に引っかかる。
そのとき、ニックスの声が飛んだ。
「殿下! “当てる”な。同期しろ!」
「……同期」
「剣のタイミングと呪文の完成を合わせろ! 押し付けるな!」
リオは、息を吸い直す。
(踏み込みの瞬間で……点火)
その間にも、前線は崩れかけていた。
タイガが大地斬で距離を取ろうとする。
だが瘴気が絡み、踏み込みが遅れた。
――反撃。
リザードマンの尾が横薙ぎに飛ぶ。
「タイガ!」
リオが叫ぶ。
タイガは腕で受け――受けきれない。鈍りのせいで、ほんの僅か遅い。
その瞬間、リンスが一歩踏み出しそうになった。
(ダメだ、まだ解除呪文は……)
だが、そこでタイガが目を見開いた。
「……祓う」
それは、訓練で何度も繰り返した“言葉”だった。
タイガは剣を引き、身体の芯から息を吐く。
斬るのは鱗じゃない。爪じゃない。
纏わりつく“流れ”だ。
「海波斬!」
剣が薙がれた瞬間――空気が割れた。
瘴気が霧みたいに裂ける。
祭壇の前の黒い揺らぎが、真っ二つに割れ、奥の景色が一瞬だけ“澄む”。
そして同時に、リオは体感した。
(……軽い!)
身体が戻る。
指先が戻る。
視界が、澄む。
裂け目の向こうに、リザードマンの“核”のような赤黒い部分が見えた。
石碑片に擦り込まれた黒粉が、空気に漂い、そこへ吸い寄せられている。
ニックスが叫ぶ。
「今だ! 核を叩け!」
リオは頷いた。
(今!)
彼女は踏み込む。
――大地斬の踏み込み。
その瞬間、呪文を“完成”させる。
「メラ!」
炎が剣に灯る。散らない。
踏み込みの勢いと一緒に、刃へ吸い付くように走る。
リオはそのまま、地面を斬る。
「大地斬!」
衝撃波が走った。
地面に、細い割れ目が一直線に伸びる。
そして、その割れ目に沿って――炎が流れ込んだ。
燃え広がるのではない。
制御された、一本の火線。
リオの声が、廃聖堂に響く。
「メラ大地斬!!」
火線が、裂けた瘴気の隙間を貫き、露出した核へ突き刺さる。
リザードマンが、呻いた。
瘴気が、剥がれる。
抵抗の膜が、消える。
そして次の瞬間、タイガが踏み込んだ。
「――っ!」
剣が一閃。
瘴気が晴れた身体に、今度は刃が通る。
リザードマンは崩れ落ち、祭壇の石片に爪を立てたまま動かなくなった。
残りの個体は、撤退を選んだ。
――いや、“撤退できた”。
リザードマンは、倒れた仲間を見て歯噛みしながらも、
石碑片を捨てることに迷いがない。
まるで、ここが“本命”ではないと言わんばかりに。
「……ココ、ステゴマ」
「……ホカニモ、アル」
「……オソイ、タイヨウノコ、オソイ……」
不気味な言葉を残し、瘴気を散らしながら壁の崩れた穴へ消えていく。
廃聖堂に残ったのは、荒い呼吸と、焦げた石の匂いだけだった。
*
リンスは、祭壇の前に膝をつき、そっと祈りを捧げた。
「……ごめんなさい。私の力が、足りなくて」
彼女の肩が小さく震える。
リオは首を振った。
「違うよ。リンスが“抑えてくれた”から、ボクたちは動けた」
「でも……解除までは……」
「今は、そこまで求めない。求めるのは――一緒に強くなること」
リンスは、少しだけ顔を上げた。
タイガは剣を拭きながら、祭壇の石碑片を睨む。
「……ここが祈りの場だったっていうのに。こんなものを置くなんて」
ニックスが近づき、石碑片の溝を覗き込んだ。
「回収は危険だな。けど壊すだけじゃ足りないかもしれねぇ」
彼は袋を取り出し、手際よく黒粉を掬い取る。
そして溝に刻まれた符号を、目で追った。
(……これ、手記の符丁と似てる)
だが今は、言わない。
言うべきは、別のこと。
ニックスは立ち上がり、リオを見る。
「殿下。石碑片は破壊する。粉は俺が封じる。材料は集めた」
「うん。……決めた」
リオは短く言って、剣を握り直した。
まだ刃先が、ほんのり温かい。
「次は、もっと早く決める。もっと上手く合わせる。……メラ大地斬、完成じゃない。まだ“入口”だ」
タイガが鼻で笑う。
「主役っぽいこと言うな」
「主役だよ?」
リオは、にやっと笑った。
だが、タイガはその笑い返しのあと、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
(俺は……祓っただけだ)
今日、瘴気の流れを断ったのは自分だ。
だが、“決めた”のは殿下。
剣に火を乗せ、道を貫いたのは殿下。
(……俺は、殿下が迷わず踏み込めるように、道を作る)
胸の奥で、静かに誓う。
(呪文が使えない? 関係ない。
俺は“祓う剣”で、殿下の剣を通す)
リオは、そのタイガの沈黙の意味に気づいたのか、気づいていないのか。
けれど、いつも通り言った。
「レオナハイト隊、帰還。報告して、次の手を打とう」
その声には、迷いがなかった。
廃聖堂の外では、月が雲の向こうから顔を出し、石畳を淡く照らしていた。
――太陽の名を嗅ぎつける影は、確かに動き始めている。
そして。
その影に対抗する“剣”も、確かに今、育ち始めていた。