北の短い夏が終わり、山々が色づき始めた頃。フラジュトフ谷には、早くも初雪の気配が漂っていた。
ルジェがこの地に来てから、一年と数ヶ月が過ぎていた。
早朝。薄暗い空の下、ルジェは納屋の影で、日課となった「儀式」を行っていた。
上半身を晒し、ロサに背を向ける。
「……頼む。きつく」
「はい」
ロサが慣れた手つきで
ギュゥッ、と肋骨がきしむ。
ルジェはこの一年で背が伸び、肩幅も広くなった。泥にまみれた訓練のおかげで、薄くはあるが鋼のような筋肉もついた。だが、それ以上に主張を強めている胸の柔らかい膨らみを、ルジェは憎悪していた。
布で押し潰し、平らにし、その上から鋼鉄の
冷たい金属が肌に触れて初めて、ルジェは安堵の息をつくことができる。これで自分は「男」に見える、と。
「……ルジェさま。少し、顔色が優れませんが」
ロサが心配そうに覗き込む。
「昨夜はよく眠れなかったのですか?」
「いや……平気だ。少し考え事をしていただけだ」
ルジェは目を逸らした。
昨夜、高ぶる性欲と身体の疼きに翻弄され、罪悪感にまみれた自慰でシーツを汚したことなど、口が裂けても言えない。
ルジェは逃げるように、訓練用の泥だらけのチュニックを頭から被った。
その時だ。
「おい、ルジェ! ロサ! お頭がお呼びだ!」
ガズのしわがれた声が響いた。
ルジェとロサは顔を見合わせ、泥のついた手で急いで母屋へと向かった。
***
フラジュトフ家の広間には、いつになく華やいだ空気が流れていた。
当主シロヴァは上機嫌で、愛用の大弓の手入れをしている。
「おう、来たか。……泥を落としてこい。着替えを用意してある」
シロヴァは無精髭を撫でながら、ニヤリと笑った。
「今日はお前らを泥漬けにはせん。フラジュトフ家の客分として振る舞ってもらう」
「何かあるのですか?」
「『大狩猟会』だ」
それは、フラジュトフ氏族が主催し、近隣の谷の有力者や氏族長たちを招いて行われる、年に一度の大行事だった。 表向きは冬支度前の食料確保だが、その実態は「北の社交界」である。 有力者は自慢の息子たちを連れてくる。そこで弓の腕を競わせ、獲物を解体させ、度胸試しをさせる。そうやって次代の有力者たちの顔合わせを行い、同盟の絆を確認し合うのだ。
当然、北方一の大氏族、フラジュトフ氏の頭首シロヴァは、その主催者である。
「お前は王都の政治からは遠ざけられた身だが、それでも腐っても王家の血だ。……こっちでの『付き合い』ってやつも教えねばなるまい」
シロヴァは、用意されていた衣服を顎でしゃくった。
「着替えろ。今日は人足じゃねえ。フラジュトフ家の客分として振る舞え」
別室で渡された衣服は、一年ぶりに袖を通す上質なリネンと、刺繍入りのチュニックだった。
肌触りが良い。泥と汗の臭いがしない。
だが、鏡に映る自分の姿を見て、ルジェは奇妙な違和感を覚えた。
綺麗な服を着た、線の細い美少年。
それは「王都の第二王子」の姿そのものだったが、今のルジェには、それが酷く薄っぺらい仮装のように思えた。
(中身は、こんなにも歪んでいるのに)
胸甲の上から与えられた高級な服を纏い、ルジェは仮面を被り直して外へ出た。
***
集合場所の森の入り口は、着飾った男たちと馬のいななきで溢れていた。
「おお、シロヴァ殿! 今年も精が出ますな!」
氏族長たちが豪快に笑い合う。その横には、少し緊張した面持ちの十代半ばの少年たちが、真新しい弓や槍を持って控えている。
「さて、若き獅子たちよ! 今日の主役はお前たちだ!」
シロヴァの号令で、角笛が吹き鳴らされた。
***
狩りはお膳立てされたものだった。
すでに森には、雇われた
血に慣れさせ、殺す感触を教え、そして「私が仕留めました」という手柄を親たちが褒め称える。
それが、この大狩猟会の本質だった。
「やった! 父上、見ましたか!」
「うむ、見事だぞ!」
安全な殺戮。予定調和の称賛。
ルジェは馬上でその光景を眺めながら、冷めた感情を抱いていた。
これは戦いではない。遊びだ。
日々、ガズに泥の中に叩きつけられ、生きるか死ぬかの重荷を背負って走っている自分たちとは、住む世界が違う。
(僕は、ここにも馴染めないのか)
泥の訓練場では「王族」として浮き、貴族の社交場では「野良犬」として浮く。
ルジェが孤独を噛み締めていた、その時だった。
***
その報告がもたらされたのは、子弟たちが放たれたウサギを数匹仕留め、場の緊張が緩みかけた頃だった。 先行していた勢子(せこ)頭の古参狩人が、青ざめた顔で戻ってきたのだ。
「シロヴァ様! こちらの足跡を見てください」
案内されたのは、森の奥深く、雪が深く積もった沢のほとりだった。 そこに刻まれた蹄(ひづめ)の跡を見た瞬間、シロヴァの目が大きく見開かれた。
「……でかい」
それは通常の猪の倍はある。大人の男の掌を広げても収まらないほどの巨大な跡が、雪を深々と踏み抜いていた。周囲には、太い松の木の樹皮が、高い位置で無残に剥ぎ取られた跡がある。
「こいつはすごい。……『森の主』クラスだぞ」
シロヴァの口元が、自然と吊り上がった。
狩猟好きの血が騒ぐ。これほどの獲物は、十年に一度お目にかかれるかどうかだ。
「いかがしますか、お頭」
熟練の狩人が小声で尋ねる。
「子供たちの手に負える相手じゃありません。ここはいったん引いて、日を改めて……」
「馬鹿を言え。みすみす逃がすか」
シロヴァは即答した。
「場には俺と、お前たちベテランが揃っている。それに弓を持った氏族長たちもいるんだ。……予定変更だ。子供たちのための接待は終わり。ここからは、俺たちによる『本気の狩り』の時間だ」
「おお! 腕がなりますな」
シロヴァと氏族長たちは、共犯者のようにニヤリと笑った。
***
シロヴァは馬首を返し、集まった氏族長と子供たちに告げた。
「特大の獲物が出た。ここからは危険だ。子供たちは後ろへ下がって見学していろ。……おい、お前ら! 父親の背中をよく見ておくんだぞ!」
「おお! 腕がなりますな!」
氏族長たちがどよめき、次いで好戦的な笑みを浮かべる。
彼らもまた、退屈な接待に飽きていたのだ。 ルジェやロサ、他の子弟たちは、護衛の戦士たちに促されて隊列の後方へと下がった。
シロヴァは鞍の横から、飾り気のない実戦用の
***
追跡は慎重に行われた。風下から回り込み、足跡を追うこと半刻。猟犬と勢子でゆっくりと追い立て、逃げられないように開けた方へ誘導する。
やがて、雪の積もる巨大な岩陰から、低い、地響きのような唸り声が聞こえた。
「……いたぞ」
ぬっと現れたのは、黒い岩塊だった。
松脂と泥で固められた剛毛の鎧。歪曲した巨大な牙。吐く息が白煙となって立ち昇る。
距離は五十歩。シロヴァたちが無言で弓を引き絞る。
だが、その張り詰めた沈黙が、あだとなった。
――ヒュンッ。
意図しないタイミングで、乾いた弦音が響いた。 後方で見学していた有力者の一人が、怪物のあまりの威圧感に恐怖し、震える指を滑らせてしまったのだ。
「あ……」
力なく放たれた矢は、吸い込まれるように大猪の尻――分厚い脂肪と筋肉に覆われた臀部――に突き立った。
致命傷には程遠い。
硬い脂肪に阻まれ、痛みだけを与える最悪の一撃。
「ブモオオオオオオオッ!!」
咆哮と共に、黒い岩塊が爆発的な加速で突っ込んできた。
「ひいぃっ!?」
「撃てッ! 止めろッ!」
慌てて放たれた矢が数本、大猪の肩や頭に当たるが、松脂で固まった剛毛に弾かれるか、興奮状態で痛みを感じない怪物には通用しない。
シロヴァも矢を放つが、肩の「鎧」に弾かれる。
軍馬ですら本能的な恐怖に支配された。シロヴァの愛馬が悲鳴を上げて立ち上がり、シロヴァは無防備なまま雪面へ振り落とされた。
「シロヴァ様!?」
「猟犬を放て! 止めろ!」
唯一反応した猟犬が飛びかかるが、大猪は首を一振りしただけで、犬を雑巾のように弾き飛ばした。キャンッ、という短い悲鳴が途絶える。
制止するものがなくなった怪物は、包囲の一角を食い破り、その進行方向――逃げ遅れた子供たちの集団へと殺到した。
「逃げろガキどもッ!」
「わああああぁっ!?」
パニックに陥る少年たち。
大猪の赤い瞳が、転倒した一人の背中を捉える。
「ルジェさまッ! 下がってください!」
ロサがルジェの腕を引く。
その瞬間、ルジェの思考は奇妙なほどクリアになった。
怖い。足が震えている。
だが、ここで背中を見せれば、僕は一生「逃げた女子供」だ。
父に見捨てられ、身体は女へと変化し、男としての自信など欠片もない。
だからこそ。
(男として死ぬか。それとも、化け物として生き恥を晒すか)
――死んでも、いい。
それは勇気ではない。絶望が生んだ、暗い破滅願望だった。
ルジェはロサの手を振りほどき、前へ出た。
「ルジェさま!?」
ルジェは、大猪と少年の間に割って入った。
手にした狩猟用の長槍。その
膝を落とし、重心を低くし、切っ先を斜めに構える。ガズに教わった、対騎兵の構え。
腕力で止めるのではない。地面と槍で「壁」を作るのだ。
獣臭。熱気。死の気配。
ルジェは目を閉じなかった。
ドオォッ!!
世界が爆発したような衝撃。
バキィッ!
硬い樫の柄が、飴細工のようにへし折れる。ルジェの身体は、木の葉のように弾き飛ばされた。 宙を舞い、雪原を転がり、背中から古木に叩きつけられる。
「ガハッ……!」
肺の中の空気がすべて強制的に吐き出され、視界が明滅する。
だが、ルジェの鼓膜は、怪物の断末魔に近い絶叫を捉えていた。
「ギィイイイイイッ!!」
大猪が、狂ったように首を振ってのたうち回っている。 その左目には、折れた槍の穂先が深々と突き刺さり、眼球を抉り取っていた。 ルジェの特攻は、怪物の突進力を利用して、その急所を貫いたのだ。
***
「今だッ! 畳み掛けろ!」
シロヴァの号令と共に、氏族長たちの放つ矢が雨のように降り注ぐ。今度は弾かれない。喉元、脇腹、柔らかな腹部。次々に矢が突き立つ。大猪は血飛沫を撒き散らしながら、よろめく足取りで森の奥へと逃げ込んでいった。雪の上に、どす黒い血の道を残して。
「……はぁ、はぁ……」
ルジェは木の根元で、痙攣する身体を起こそうとしてもがいていた。まるで全身の骨がバラバラになったようだ。胸甲の下のあばらが、何本か逝っているかもしれない。
そこへ、巨大な影が落ちた。馬上のシロヴァだ。彼は馬上から、泥と雪にまみれてうずくまるルジェを見下ろした。その目はもはや、密かに預けられた王子を値踏みする目ではない。一匹の、有望な若狼を見る目だった。
「……無茶をしやがる」
シロヴァは馬から降りると、痛みに呻くルジェの襟首を掴み、乱暴に引き上げた。 「ぐっ……!」
「立てるか。いや、立てなくてもいい」
シロヴァはルジェを軽々と抱え上げると、自らの鞍の前――最も名誉ある位置――に放り乗せた。そして、呆然とする周囲の氏族長や子供たちに向かって、ニヤリと笑ってみせた。
「見たか、お前ら! これが『一番槍』だ!」
シロヴァは手綱を取り、ルジェの耳元で低く囁いた。
「……お前が傷つけた獲物だ。最後まで見届けろ。ついてこい」
馬が動き出す。
ルジェの背中に、シロヴァの分厚い胸板の熱が伝わる。
痛みで意識が飛びそうだった。だが、ルジェは鞍にしがみつきながら、確かに感じていた。 自分が今、初めて「男たち」の列に加えられたことを。
***
追跡は長くはかからなかった。雪に残るどす黒い血の道が、森の奥の澱んだ湿地へと続いていたからだ。
そこに、森の王はいた。
巨体は泥に沈み、荒い息を吐くたびに赤い泡が口から溢れている。全身に突き立った矢は二十本以上。そして何より、左目を穿たれた傷が致命的だった。それでも、近づく気配を感じると、大猪は残った右目でギロリと人間たちを睨みつけ、低く唸った。腐っても森の主。不用意に近づけば、最後のひと噛みで手足を食いちぎられるだろう。
「気をつけてください、シロヴァ様。さっきも暴れて猟犬を潰しました」
「おう」
シロヴァは馬を止め、鞍の上のルジェを抱き下ろした。ルジェは雪の上に足をついたが、膝が笑って力が入らない。あばらが軋み、呼吸をするだけで焼けるような痛みが走る。
「……行け」
シロヴァは、自らの腰に帯びていた、鹿角の柄がついた重厚な
「本来なら俺の森の獣だ。俺がトドメをもらうんだがな。……見事な蛮勇を見せてくれた礼だ、お前に譲ってやる」
それは北の戦士にとって最大級の栄誉だった。 ルジェは震える手で、ずしりと重い短刀を両手で握りしめた。
だが、ルジェの手が震える。
それは恐怖からではない。
ルジェはまだ、殺したことがないのだ。的ではなく、温かい生き物を。
(……あれほどの蛮勇を見せて、「
シロヴァはその手元を見て、小さく息を吐いた。
(いや、……無理もないか。元は王都の秘蔵っ子だ)
ルジェの震えに気づいたシロヴァが、ルジェの肩に手を置き、耳元で囁いた。
「刃を横にしろ。……そのまま突き立てれば肋骨に阻まれる。刃を寝かせて、骨と骨の間……心臓への道を滑り込ませろ」
ルジェは頷き、泥の中へ足を踏み入れた。
大猪が首をもたげる。
ルジェは恐怖をねじ伏せた。これは「作業」ではない。命の奪い合いだ。相手の命を奪って、自分の命(存在)を証明する儀式だ。
「はぁ……ッ!」
ルジェは、大猪の左の脇下をめがけて倒れ込むように短刀を突き立てた。
ズブり、という生々しい感触。熱い血が噴水のように噴き出し、ルジェの顔と、借り物の綺麗なチュニックを真っ赤に染め上げる。
大猪が激しく痙攣し、ルジェを振りほどこうと暴れる。だがルジェは離さなかった。短刀の柄にしがみつき、体重をかけ続け、その鼓動が止まるまで泥の中で獣と抱き合った。
やがて、長い、長い吐息と共に、巨体の力が抜ける。
森の王が死んだ。
***
「……はぁ、はぁ……」
ルジェは血まみれのまま、大猪の死骸の横で大の字になった。
空が白い。雪が舞っている。生きているのか死んでいるのか、感覚が曖昧だ。
シロヴァが片膝をつき、事切れた大猪の額に掌を当てた。
「よく戦った」
それだけ言い、掌を離す。
余計な言葉を足さないのが、北の弔いだった。
そしてシロヴァは、大猪のまだ湯気の立つ傷口に指先を伸ばす。
指に絡んだ温い赤を、ルジェの額へ――、一本、まっすぐに引く。
「よい。臭くても一晩、決して洗うな。大物を狩ったときの古い作法だ」
***
そこへ、追いついてきた氏族長たちや狩人たちが、馬を降りて集まってきた。
彼らは一様に、沈黙してその光景を見つめた。 泥と血にまみれ、美しい顔を朱に染めた少年と、絶命した怪物。
そして、額にくっきりと引かれた血の一文字。それは、もはや「王都のひ弱な客人」の姿ではなかった。
「立て、ルジェ」
シロヴァが歩み寄り、ルジェの腕を引いて立たせた。
「獲物を仕留めたら、高らかに名乗るのが北の作法だ。『俺が殺した』とな」
「…………あ、あぅ」
ルジェは口を開こうとしたが、極度の緊張からの解放で声が出ない。
すると、シロヴァはニヤリと笑い、ルジェの血濡れた手を高く掲げた。
「見よ!」
そして、森の木の葉がざわめき、降りかけた雪が落ちるほどの大音声で叫んだ。
「ここにいる英雄は、我がフラジュトフ家の客分、ルジェ! この若きルジェが大猪を討ったぞ!」
その声は、宣言だった。こいつは俺の身内だ。俺が認めた男だ。文句のある奴は前に出ろ――という、北方の大領主にして大氏族長、シロヴァ・フラジュトフの威信をかけた保証。
「おおおおおッ!」
「見事だ小僧!」
「ルジェ! ルジェ!」
氏族長たちが、狩人たちが、剣や弓を掲げて歓声を上げる。
「――ルジェさま!」
遅れて到着したロサが、駆け寄ってくるのが見えた。彼女の目には心配と歓喜の涙が浮かんでいた。
ルジェは、ぼんやりと周囲の熱狂を見ていた。身体中が痛い。全身に浴びた血が気持ち悪い。だが、胸の奥底にあった冷たい穴が、少しだけ埋まった気がした。
(そうか…………、私は、生きていいんだ)
男ではない、半端者の身体。だが、この血塗れの場所でなら、私は「戦士」でいられる。
ルジェはロサに支え起こされながら、弱々しく、しかし確かに笑った。
それは、英雄ルジェの最初の伝説が、北の雪原に刻まれた瞬間だった。