なにしろ巨大な猪だ。
平原の貴族なら、従者にやらせて自分はワインを飲むところだろう。だが、ここセルウィでは違う。ウサギや鹿なら狩った当人がナイフを入れ、皮を剥ぎ、内臓を抜く。その温かさと臭気を含めてが「戦利品(トロフィー)」であり、狩猟の醍醐味なのだと、自他ともに認める狩猟好きの北方大領主シロヴァは確信していた。
この日も、兎や若い鹿を仕留めた少年たちは、自分の獲物にぎこちなく刃を入れていた。手を血で汚し、温い肉を裂き、まだ動いているように見える内臓を引きずり出す。
その顔色を、父親たちは黙って見ている。逃げたくなる者は、この谷では戦士になれない。
だが、あの大猪の解体は、流石に十二歳のルジェの手には余る。
毛は針金、皮は鎧のように硬く、脂は分厚い。
結局、シロヴァの合図でベテラン狩人たちが数人がかりで解体にかかった。
ズブリ、と刃が入るたび、冷たい大気に猛烈な湯気が立ち昇る。内臓の強烈な臭気が森に満ちるが、北の男たちにとってそれは「晩餐の約束」であり、芳香ですらあった。
「頭と肝はあとだ。……先に腹を空かせた口を満たしてから、きちんと分配する」
シロヴァはそう言って、大地と山の神々に短く視線をやった。
広場の隅には、獲物の頭や毛皮も並べられていた。角の立派な牡鹿は頭を落とされ、角が布で巻かれて脇へ寄せられる。兎や狐の耳は小さく切り取られ、紐に通せばそのまま小さな勲章になった。誰が何を獲ったか――後になって揉めぬための、冷たい「証文」であると同時に、誇りそのものでもある。
***
昼過ぎ。森の開けた場所で、野外の宴会が始まった。
巨大な焚き火が組まれ、仕留められた鹿やウサギが次々と焼かれていく。
ジュウウ……
脂が炭に落ちて爆ぜる音が、空腹の胃袋を刺激する。
兎は串に刺され、次々に火へ回された。
こういう小物は、分け前の争いが起きにくい。だからこそ、主催は気前よく下へ流せる。
***
肉が焼き上がると、シロヴァは上座に座り、短剣を手に取った。
「それでは食うぞ! ……と言いたいところだが、まだだ。いっぱしの男どもには言うまでもないことだが、今日は若造も多い。教えてやる」
そして、堂々たる主催(ホスト)の振る舞いで、焼けた肉の塊に刃を入れる。
その手元を、ルジェのみならず、集まった有力者の子弟たちが固唾を呑んで見つめている。
「よく見ろ、若造ども。――これが『力』だ」
シロヴァは厳かに告げ、切り分けた肉を皿に放った。
最も脂の乗った極上のロース肉は、主賓である隣の谷の長老へ。
角ごと落とされた鹿の頭は、谷同士の結び目として、その長老の家に渡される。
次に良いモモ肉の塊は、今日一番の大物(鹿)を仕留めた若者へ。彼には、その鹿の耳も一片渡された。小さな証として、腰紐に吊るせるように。
よく獲物を追い出した勢子には兎や狐の耳束が、犬をうまく使った猟師には毛皮の一部が分けられていく。 また、命を懸けた猟犬にも褒美を忘れない。
筋の多い部位や、硬い肩肉は、護衛の戦士たちへ。
だが、今回の大狩猟会のイレギュラー、森の主である大猪の肉だけは、まだ脇に控えたままだった。
「こいつは……、どう回すかは、あとで俺が決める。今日の狩りは順調だった。他の肉だけで腹いっぱいになるからな」
シロヴァはそう言ってから、子弟たちにわざと聞かせた。
リソースを得て、自らの裁量で分配すること。
誰を生かし、誰を優遇し、誰を後回しにするか。その決定権を握ることこそが、暴力よりも純粋な「権力」の姿なのだ、と。
***
配分が終わると、シロヴァは杯を掲げた。
「戦の神に。山の神に。森の神に。そして我らを見守る祖霊に――、感謝を!」
「「感謝を!」」
迷信深い辺境において、この儀礼は欠かせない。神と人、人と人との結びつきを、肉と酒で固めるのだ。
祈りが済むと、シロヴァは再びルジェを手招きした。
「さて、来い、ルジェ! 一番槍の小さな英雄!」
「は、はいっ!」
豪快な笑い声と共に、鹿のローストの皿を引き寄せる。
「お前には、名誉ある『最初の一口』を食わせてやろう。若造どもの中で、『最初に』だ」
子弟たちの羨望と嫉妬の視線が一斉に集まる中、ルジェは差し出された極上の一切れを受け取り、恐る恐るかじった。
「お、おいしい……!!」
ルジェの目が輝く。
甘い脂と香草の香りが口いっぱいに広がる。
それは確かに、王都でも滅多に味わえないほどのご馳走だった。