「「すげえーーーーーーーーっ!!」」
屋敷の裏手、不具の古参兵、下働きの男たちや孤児たちがたむろする一角に、少年たちの驚愕の叫びが響き渡った。
ルジェとロサが押してきた荷車には、血の滴る肉の山――内臓、固いスネ、腱、骨付きの端肉――が積まれている。
上品な脂身や赤身ではない。だが、それは圧倒的な「質量」だった。
「すっ、すげえよすげえよルジェ兄! これ全部食えるの!?」
「ああ。全部、私たちの分だ」
日頃から空腹を抱え、薄い豆のスープで飢えを凌いでいる成長期の少年たちが、目を輝かせて荷車に群がる。
その騒ぎを聞きつけ、昼間からケチ臭い顔で賭け事をしていた古参兵たちが振り向いた。
「おいおい、あの狩猟会に参加したってだけで驚きだあ、その山はどうした?」
「シロヴァ様から頂いたんだ。……大猪の、分け前だ」
ルジェが答えると、古参兵の一人が目を丸くした。
「あの王都の坊ちゃんが、こいつを狩るのに一枚噛んだってのか?」
「はえーー、案外すごいやつだったのかお前」
その目は、ルジェの額の黒ずんだ一文字に向けられていた。シロヴァが指で引いた血の一文字だ。
「おう、バカども! あんま詮索するんじゃねえ。シロヴァ大殿に叱られるぞ」
すかさずガズが割って入り、ニヤリと笑ってルジェの肩を叩いた。
「ここではな、肉を持って帰ってくるやつが偉い! それだけだろ?」
「違いねえ違いねえ!」
孤児たちが肉の山に手を伸ばしかけた、その瞬間。
「待て、待て。まずは準備だ。こういうのは煮るのがいい」
ガズが声を張り、荷車の前に立って制した。
「煮るって……どうすんだよ?」
「鍋だ。鍋が要る。……ルジェ、行けるか」
ルジェは一瞬だけ躊躇した。
鍋を借りる相手の顔が、脳裏に浮かぶ。
この家の中で、熊みたいなシロヴァと同じくらい――いや、それ以上に怖い女。
「……行こう、ロサ。大奥様のところへ」
***
厨房の扉を開けると、熱気と湯気と、太い声が飛んできた。
「誰だい、こんな時間に! ……おや、王都のちびじゃないか」
振り向いたのは、熊のような体躯のシロヴァと対をなす、これまた恰幅の良いシロヴァの正妻だ。彼女こそ、フラジュトフ家の小間使いや使用人、倉庫の中身に至るまで、家のすべてを取り仕切る女主人である。
袖をまくり、まな板の上で骨を叩き割っている。使用人たちを支配する台所の空気は、彼女の采配そのものだった。
ルジェは、意を決して口を開く。
「ええと、大鍋を……貸していただけませんか」
ルジェが頭を下げると、フラジュトフ夫人は目を細めた。
「こいつは我が家の郎党に飯を食わすための鍋だ。遊びで使うもんじゃないよ!」
「遊びじゃありません。……端肉を、皆で食べます」
「ふうん……。もし焦がしたら承知しないよ」
「焦がしません」
少しの沈黙。
女傑は鼻を鳴らし、顎で奥をしゃくった。
「いいだろう。だが――底を焦がしたら絶対に許さない。分かったね」
「……はい」
大鍋は運び出された。
黒鉄の腹は重く、触れるだけで「家の道具」の威圧があった。
***
「お、借りてこれたか! おっかない正妻さま相手にいい度胸だ」
珍しく愉快そうなガズの声。
「よおし、どけガキども! 俺様が直々に『戦場料理』を教えてやる!」
場のまとめ役である古参兵が腕まくりをして立ち上がった。
鍋が据えられ、火が組まれる。
その手際だけは、酔っていても崩れない――長い冬を生きた男の手だ。
「まず水だ。汲んできた水をなみなみとな」
次に、鍋の底には、平たい石が数枚沈められた。
「焦げ付いたら大奥様に殺されるからな。石の上で踊らせりゃ、少しはマシだ」
古参兵が悪びれもせず言い、周囲から同情とも恐怖ともつかぬ笑いが漏れる。
誰も、怒り狂う女傑の顔を思い出したくはなかった。
セルウィ社会は家父長制だ。家の外での彼女は、法的な権利を持たない一人の女性である。だが、ことフラジュトフ家の内側の彼女は、家長シロヴァですら手出しができない強大な権力を握っていた。
「おっと、腸は放り込む前に、ひと仕事がある」
戦場料理は雑な料理だが、雑にしていいところと、いけないところがある。
「腸と胃袋は洗え。砂と草を残すと、腹がやられるからな」
***
ロサが袖をまくった。
孤児たちを二、三人連れ、沢に降りて腸を洗う。
「ほら、裏返して。指でしごいて……そう、そう」
腸は温く、ぬめり、獣の臭いが手に染みつく。
「うえぇ……」と顔をしかめる子もいるが、ロサは容赦しない。
「生きるための仕事です。泣かない」
ロサが戻ると、古参兵が皮の端切れを焚き火で炙っていた。
ジュッ、と脂がにじみ、剛毛が焼け焦げる匂いが上がる。
「毛は焼き切れ。口に入ってから抜くのは面倒だからな」
火から下ろした皮をナイフの背でこそげると、黒い毛がぽろぽろ落ちた。
刻まれた脂皮は、鍋に入れればそれだけで腹が温まる。
「骨は手ごろな大きさに割れ。髄が出る。……ガキども、石を持ってこい!」
残る孤児たちの目が光った。
仕事が、彼らにも回ってくる。
石の上に並べられた細い骨を、槌で叩き割る。
パキン、パキン、と白い骨が割れるたび、内側から柔らかな髄が覗く。
「おおっ、これが骨の中身か!」
「指まで潰すなよ! その指もスープに入っちまうぞ!」
笑い声と怒鳴り声。
生きるための作業が、祭りの一部に変わっていく。
準備が整うと、古参兵は満足げに頷いた。
「よし。放り込め!」
厨房から分けてもらった野菜の残り、玉ねぎの皮や根菜の切れ端、ちぎった香草とともに、ぶつ切りにした端肉、洗った腸、刻んだ脂皮、叩き割った骨を、手当たり次第に放り込む。
もはやここから工夫はない。ただ、煮込む。
グツグツと湯が沸き立つと、灰汁も、血合いも、脂も、取り残した剛毛まで、めちゃくちゃに浮んでくる。
「うわ、汚ねぇ!」
「気にするな! よほどのゴミがあったらお玉で掬い取るだけだ!」
長生きした野生の猪肉だ。去勢された家畜の豚と違い、強烈なオス臭さがある。
獣臭い、錆鉄のように血なまぐさい匂いが立ち込める。
ハーブと根菜で中和を試みるが、それでも野生の匂いは消えない。
「おお、臭い臭い! だがなァ、これが美味いんだよ!」
ゲラゲラ笑う元戦士たちにとって、この臭気すら戦場での野営の記憶を呼び覚ますスパイスだった。
***
「塩は……、うん。こんなもんだな」
料理の心得のある仕切り屋の古参兵が、何度目かの味見をして言った。
一時間も煮込むと、叩き割った骨から骨髄が、厚い皮からは脂が溶け出し、スープは黄金色に濁っていった。
カロリー、すなわち生きるためのエネルギーの塊だ。
「よーーーーし、食え! 早い者勝ちだ!」
「「わーーーーっ!」」
号令と共に、椀を抱えた孤児たちがわっと集まった。
「おいおい、待て待て」
昼間から酒臭い息を吐いていた退役兵が、よろりと立ち上がる。
「こういうときは俺ら『大人』を優先するもんだろ? ガキは後だ、後」
瞬間、場の空気がひやりと固まった。
腹を空かせた子どもたちの手が止まる。
「……バカども!」
ガズが前に出て、ぎょろりと退役兵を睨みつけた。
「大人ぶるなら、まず思い出せ。肉を持って帰ってきたのは誰だ?」
ざわり、と視線が動く。
鍋の湯気の向こう、ルジェが椀を抱えて立っていた。
着替えこそしたが、泥と血の匂いはまだ落ちていない。
退役兵の口が一度開きかけ、閉じる。
誰も、あの血の線の意味を知らないわけじゃない。
ルジェは視線を落とし、少しだけ息を整えた。
それから、場に聞こえるくらいの声で言った。
「……皆で食べましょう!」
押し合いはほどけた。
椀が回り、列ができる。
退役兵も舌打ち一つして、列の後ろへ下がった。
ルジェもロサも、孤児たちも、椀を受け取ってスープをすする。
強烈な獣の味。脂の甘み。そして香草の香り。
固いスネ肉や、噛み切れないゴムみたいな腸に、子供たちは真剣な顔で挑み、顎が疲れるまで噛み締め、飲み込む。
「くぅ〜ッ! 沁みる!」
「肉だ! 肉が入ってるぞ!」
焼き切った毛皮の脂も、叩き割った骨の髄も、苦心して掃除した内臓も、みんなこの鍋に溶けている。
見た目は泥水じみた黄金色だが、ルジェには、あの暴れていた大猪そのものが、丸ごと腹に入ってくるように思えた。
***
その熱気に当てられたのか、顔に火傷の痕がある古参兵、「油被り」のベックが立ち上がった。
「……俺はいま、最高に気分がいい! これは俺の奢りだぁ!」
ベックは懐をまさぐり、黒ずんだ小袋を取り出した。
中には、彼がもう戦場に出られない身体になった戦いの、その代償として握りしめてきた銀貨がある。
「この銀貨、こんな日に使わねぇで、いつ使うんだよ」
銀貨を若い走りの少年に放り投げた。
「谷の醸造小屋へ走れ! 一番濃いエールの樽を一本だ! 今日は祭りだ!」
「よっ! 太っ腹!」
「さぁすがベックさま!」
「ベック! ベック! ベック!」
歓声と手拍子が起きる。
ただの煮込み料理が、王の宴以上の熱狂を生んでいた。
***
改めてルジェは、椀に盛られたごった煮を啜った。
王都の宮廷料理人が見れば卒倒するような代物だ。見た目は食事より残飯に近い。
さっきの狩猟会で、シロヴァや氏族長たちが食べていた上品な鹿のローストとは比べ物にならないほど野卑で、臭くて、雑だ。
だが、不思議と美味かった。
名誉ある最初の一口として口にした鹿肉の甘さよりも――この鍋の熱が、深く腹に落ちてくる。
有力者たちが腹を探り合い、体面を気にして食べる上等な肉よりも。
この泥と汗の匂いがする連中と肩をぶつけ合い、「美味い美味い」と笑いながら囲むこのスープの方が、はるかに身体の奥まで染み渡る。
「…………暖まるな」
ルジェが息を吐くと、隣で同じものを啜っていたロサが、柔らかく微笑んだ。
「ええ。本当においしいスープです、ルジェさま」
ルジェの胸の奥にあった孤独な穴が、熱い脂と肉によって埋められていく。
自分は「あちら側」にはなれなかった。
けれど、この「こちら側」の輪の中にいる時だけは、自分が何者であるかを問われず、ただ命を燃やす一人の人間でいられる。そんな気がしたのだ。