宴も終わり、満腹になったルジェは、静まり返った屋敷の裏手で夜空を見上げていた。
北の星空は、凍りつくように澄んでいる。
そこへ、有力者たちとの飲み比べから帰還したシロヴァが、雪を踏みしめて歩いてきた。
顔は赤らんでいるが、酒豪なのだろう、足取りは線で引いたように真っすぐだ。北の男は、酔うほどに目が据わる。
「おう、ルジェ。……ちょっと来い」
シロヴァは顎で森の方角をしゃくった。
ルジェはロサと顔を見合わせ、二人でその後ろに続いた。
人気の無い、風の吹き抜ける崖の上。シロヴァはそこで足を止めた。
彼はルジェの背中を見下ろしながら、腹の中で密かに舌を巻いていた。
(……この王子は、間違いなく、『剛腕』リッドヒンの若い頃そのままだ)
シロヴァは、三十五年前のセルウィ内戦を知る世代だ。
次々に王族が死に、氏族長が死に、残された戦士たちは別の有力者の下に付く。目まぐるしく変わる情勢の中でシロヴァは、リッドヒンと敵として斧を交えたこともあれば、同じ旗の下で背中を預け合ったこともある。
若き日のリッドヒンは、戦場における純粋な暴力の化身だった。その実力とカリスマで人を率い、内戦を終結に導いた。
だが、ルジェにはそれとは少し違う、人を惹きつける奇妙な「愛嬌」がある。泥を啜り、下層民と肩を組んで笑える柔軟さ。それは、鋼鉄の塊だったリッドヒンにはなかった資質だ。
(……だが、これほどの逸材が、こんな辺境くんだりに無期限で流されるということは、王家にとってこいつはよほどの『訳あり』だ)
シロヴァの酔った頭脳が、冷徹に計算する。
少年の線の細さ、やはり女か? それとも生まれついての虚弱か? いや、それにしてはよく動くし、今日の立ち回りを見る限り身体能力に欠陥はない。
あるいは、出生の秘密――私生児か、あるいは長老たちが眉をひそめるような事情か。
(どちらにせよ、リッドヒンやモルコドにとって、あまり騒がれたくない子なのだろう。……あるいは、この北の厳しい冬で、自然に死んでほしいと願っているのかもな)
シロヴァは夜空を見上げ、ニヤリと口角を上げた。
(惜しいなぁ。あまりにも惜しい)
王都が「捨てた」というのなら、拾うのに遠慮はいらない。
隠そうが腐らせようが、牙は牙だ。俺が拾って研いでやり、俺の懐刀にしてやっても文句はあるまい。
シロヴァはそう結論付けた。
「――なあァ、ルジェ」
***
「お前、俺の部屋住たちにクズ肉を振る舞ったそうだな」
シロヴァはルジェに向き直り、低く問うた。
「俺や他の長老たちと同じ、上等なロースを食う権利を捨ててまでな。……どうだ、気分は? 『旨かった』か?」
ルジェは一瞬きょとんとしたが、すぐにその問いの意味を理解した。
それは、スープの味がどうだったかという問いではない。
自分の獲物を群れに分け与え、感謝され、その熱狂の中心に立った時の「ボスの味」はどうだったか、という問いだ。
ルジェは、昼に食べた「名誉の一口」、鹿の上等なロース肉の一口と、いまも胃の奥に残る重厚な熱を反芻した、泥臭い大猪のスープ。安酒の匂い。そして、自分を見る少年たちの憧憬の眼差し。
「……はい。とても」
ルジェは正直に答えた。
「あの座で食べた鹿のロースより、ずっと身体が、暖まりました」
「ククッ、素直な奴だ」
シロヴァはニヤリと口角を吊り上げた。
「知っちまったなァ。それが、『群れの頭』が食う味だ。肉そのものの味じゃねえ。お前が食わせた連中の、感謝と忠誠の味だ」
シロヴァは太い指で、自身の胸板をドンと叩いた。
「自分の獲物を群れに分け与え、骨までしゃぶらせ、その熱狂の中心に立つ。……舌先で味わう脂なんぞより、よほど魂に沁みるだろう?」
ルジェは、ゆっくりと頷いた。
***
「さて…………、収穫祭、大狩猟会が終わったとなれば、じきに雪が道を閉ざす。長い冬だ」
シロヴァの顔が、松明の火に照らされて陰影を深める。
「今年の実入りは悪くなかった。だが、それでもいくつかの家は備蓄が足りん。このままじゃ冬を越せずに、何人か年寄りや子供が死ぬ」
北の冬は、情緒などではない。物理的な「死の壁」だ。
備蓄が尽きれば餓死する。薪が尽きれば凍死する。毎年、必ず誰かが間引かれる季節。
「雪に閉ざされた家のなかに、力仕事は少ない。家畜の世話や、木細工、撚り紐作り……そういうのは、女子供や老人でもできる」
シロヴァは、南の空――大平原の方角を指差した。
「だから、一番の食い扶持を『外』に出すんだよ」
ルジェが息を呑む。
ガズたち古参兵は「金のため」「一発逆転のため」と語っていた。だが、氏族長の視点はもっと冷徹で、切実だった。
「冬の間、食欲旺盛な男たちが谷に残れば、それだけ食料が減る。だが、そいつらを連れて平原へ降りれば、谷の食い扶持は減る。口減らしだ。そんでもってさらに向こうで稼げば、春には麦や銀貨を持って帰ってこれる」
口減らしと、外貨獲得。
それが、セルウィ王国が国家として遠征を行う、真の理由だった。
誇りなど二の次だ。これは、群れ全体を春まで生き延びさせるための、ギリギリの生存戦略なのだ。
「俺たちは略奪者だ。人殺しだ。平原の連中から見れば悪魔だろうよ。……だがな、そうしなきゃ俺の谷のやつらが死ぬ。だから俺は、喜んで手を血に染める」
シロヴァの目には、迷いのない覚悟があった。
自分の手を汚してでも、身内を食わせる。それが「
***
「ルジェ。お前は今日、戦士としての一歩を踏み出した。だが、本当の戦場はあんな猪遊びじゃねえ」
シロヴァは、ルジェの目を射抜くように見つめた。
「あんなのが、鉄の鎧を着て、列になって突っ込んでくるんだ。そして敵も味方も、汚く死んでいく」
シロヴァは手を差し伸べた。
「お前はただの部屋住みには収まらない。――俺に付いてこい。戦場の空気を教えてやる」
ルジェが目を見開く。ロサが息を呑み、思わず前に出ようとする。
初陣の風習は十五歳。十二歳のルジェにはまだ早いのではないか。王都から預かった大事な王子を、戦場に連れて行くなど。
だが、シロヴァはその懸念を笑い飛ばした。
「ああ、勘違いするな。指揮官としてじゃないぞ。まぁだまだ、お前に人の命は預けられん」
シロヴァはニヤリと笑った。
「戦利品はないがな。俺の『
それは、王都のどの学校でも得られない、実地演習への招待状だった。
ルジェの心臓が、早鐘を打った。
怖い。だが、それ以上に知りたい。
シロヴァが、父リッドヒンが、生き抜いてきた世界の色を。
「…………行きます」
ルジェは、シロヴァの手をしっかりと握り返した。
「ぜひ、連れて行ってください!」
短い夏、走り去る秋が終わり、まもなく冬を告げる風が吹き抜ける。
遠征の季節が、すぐそこまで迫っていた。