間章 設定資料集 セルウィと平原の信仰
セルウィの神々は、尾根を一つ越えれば、その性格も姿もまるで別物になる。
ある谷の森の神は、立派な鹿の角を生やした老人の姿をしているが、隣の谷へ行けば、狼の耳を持つ狩人の姿で信仰されている。さらに王都ワストゥエステンの神殿に行けば、熊の毛皮を被り、全身に入れ墨をした大男の姿で描かれているのが「森の神」である。
川の神に至っては、さらに気まぐれだ。
急流渦巻く上流の村では「酒を嫌う厳格な乙女」として祀られているが、流れが淀む下流の町では「酒と惰眠を貪る太鼓腹の男」に変わっていたりする。川の性格が変われば、それを司る神の性格も変わる。彼らにとってそれは当然の理屈だった。
だが、セルウィ人はそれを統一しようともしなければ、「そっちの神は偽物だ」と教義論争をすることもない。
彼らにとって神とは、普遍的な真理ではなく、その土地に根ざした「主(ぬし)」だからだ。隣の家の頑固親父と、自分の家の頑固親父の性格が違うからといって、どちらが本物の親父かと議論するのが無意味なように、谷が違えば神の顔も違う。ただそれだけの話である。
このように、教義も聖典も系譜も持たず、曖昧に共有されるだけの素朴な多神教世界において、セルウィ人が唯一共有している強固なアイデンティティがあるとすれば、それは血統の神話ではない。
彼らの崇める神々は、ある意味で孤独な巨人であり、妻も子も持たない。ゆえに、平原の王侯貴族が好む「我らは神の血を引く子らである」という権威付けは、この地では成立しない。
代わりに、彼らはこう定義する。
「我らは、戦士である」
神の子ではない。神に愛された民でもない。
ただ、この貧しく過酷な盆地に産み落とされ、鉄を掘り、剣を鍛え、冬が来るたびに平原へ降りて生き血をすする、大陸で最も獰猛な「戦士の民族」である。
言葉の訛りが違っても、祀る神の角の形が違っても、盾を並べて死地に立つ時、彼らは等しく「セルウィの戦士」となる。
その職業的とも言える自負だけが、このパッチワークのような氏族社会を「一つの国」として辛うじて繋ぎ止めている、唯一の鎖だった。
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文化学的に見れば、セルウィ盆地は「巨大な壺」のような世界である。
三方を険しい山脈に囲まれ、外界から隔絶されているため、最後の民族移動時代以降、盆地内の文化は長い時間をかけて均質化されてきた。
だが、内部もまた無数の尾根と谷によって細かく区切られているため、それぞれの谷で独自の気質や訛りが育まれている。
この「分割」と「統合」を繋ぎ止めているのが、盆地の中央を北から南へ貫く大動脈、セルウィ川だ。
この川は国の背骨であり、物流と交流の道であり、舟が直接遡上できない滝を跨いだ上流でも、セルウィ川が削り取った渓谷の平野が、丘越えよりよほど便利な道となる。
ゆえに、セルウィ語は北のフラジュトフ谷から南の王都に至るまで、なだらかな「方言連続体」を形成している。隣の谷の言葉はわかる。その隣もなんとなくわかる。だが、北端と南端では、もはや外国語のように通じない。それでも、川を辿れば言葉は鎖のように繋がっているのだ。
例外は、川から遠く離れた高地に住む、山脈奥深くの「山の民」と呼ばれる少数部族たちだ。彼らの言葉は平地のセルウィ語とは断絶しており、文化の連続性からも、王権の及ぶ範囲からも外れた平原ともまた異なる「異人」として、畏怖と差別の対象となっている。
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一方、セルウィ盆地の南のレアネリア大陸唯一の大平原、「平原(The Plains)」は、文字通りの「パッチワーク」である。
古代から四方八方より異民族が流入し、定住と略奪を繰り返した結果、隣り合う村でさえルーツの違う言語を話すことが珍しくない。
そこには、セルウィのような緩やかなグラデーションはない。あるのは、モザイク画のような断絶だ。
だからこそ、彼らは「通商共通語(リングワ・フランカ)」を生み出した。
互いの言語を簡略化し、妥協し合い、商売のために作り上げられた人工的な便宜上の言葉。
平原の民にとって言葉とは、血の繋がりを示すものではなく、あくまで「契約を結ぶための道具」に過ぎないのだ。
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この「違いを無理やり繋げてシステム化する」という平原人の習性は、神話において最も顕著に、そしてお節介な形で表れる。
それは、かつてレアネリア大陸南岸を支配し、平原の南半分を覆った古代帝国の支配のためのソフトウェアであり、古代帝国の文化的な遺産だ。
平原には、あらゆる民族の神々が混在している。放置すれば宗教戦争になる火種を、彼らは奇妙な知恵で解決してきた。
すなわち、「すべての神々を、一つの巨大な家系図に押し込む」という力技(シンクレティズム)である。
彼らは、セルウィ人が崇める孤独な「戦の神」でさえ、自分たちの神話体系に取り込もうとする。
「ああ、知っているとも。北の蛮族が祀る『戦の神』というのは、我々の神話に登場する戦争と狂気の神、バールバーロの甥っ子のことだ」
「あの『森の神』というのは、楽神ペリオーネが、モミの木の精霊を孕ませたときの子であったな」
平原の神官や詩人たちは、まことしやかに解説する。
「彼(セルウィの戦の神)はかつて、南の都市国家の守護女神フェリシテと恋に落ちて結婚したのだ。だが、女神の父である厳格な法律と槍の神レガリアと揉めることになり、北の山へ出奔したのだよ。だから北の神は妻を持たず、荒々しいのだ」
「かつて平原には松の木のみならずモミの木も生えていた。だが、モミの木の精霊の娘(セルウィの森の神)が父ペリオーネを恨み、母を連れて北の地に逃げ込んだという。そこで平原にモミの木は少なくなり、北の山脈や盆地にだけあの針葉樹は生えているのだ」
これを聞いたセルウィ人は、「俺たちの神様はそんな親戚付き合いなどしていない」と困惑し、あるいは激怒する。
だが、平原人は悪気なく、むしろ「これで我々は同じ神を信仰する友だ」と微笑んでくるのだ。
異質なものを排除せず、勝手な解釈で「身内」にして飲み込んでしまう。
この貪欲で厚かましい抱擁力こそが、平原という文明が持つ最大の武器であり、一方で、平原社会がいつまでも一つにまとまれない、神話的な足枷となっているのだ。
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かつてレアネリア大陸南岸から興り、全盛期には平原の西部から南部一帯を支配した「古代帝国」。
彼らが石造りの道路や水道橋以上に後世へ残した最大の発明は、軍事技術ではなく神話の編集技術であった。
帝国は、征服した地域の神を殺さない。
代わりに、現地の神官や長老、祭祀を招き、こう囁くのだ。
「貴公らの守護神は素晴らしい。……調査の結果、その神は我らが主神グランドンと極めて縁深い神であることが判明した」
あるいは「グランドンの失われた孫だ」「グランドンが旅先で愛した精霊だ」と。
これにより、被征服民は自らの信仰を捨てぬまま、自動的に「帝国の友」となり、帝国の宗教的ヒエラルキーの下層へと組み込まれる。
この政治的シンクレティズム(習合)こそが、少数の帝国市民が、広大な多民族領域を支配できた秘訣であった。
帝国が滅び、数百年が経った今も、平原中央や北部の部族たちはこの「思考の癖」を受け継いでいる。彼らは四方八方から異民族に征服される側になっても、逆に相手を「神話の家系図」に取り込むことで文化的に同化し、生き延びてきたのである。
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この「神学的併合」を推し進めるために、帝国の詩人たちは主神グランドンに加え、二柱の息子たちを「多淫な征服者」として体系化した。
彼らはそれぞれ、帝国の拡張手段の隠喩(メタファー)である。
1. 主神グランドン(政治的支配の象徴)
天空の種馬。嵐と王権の神。
彼は現地の「女神」や「地母神」と交わることで、その土地の主権が天上の王(帝国)に移譲されたことを神話的に正当化する。
「お前たちの土地の母は、我らの父の妻(または愛人)となった。ゆえに我らは家族である」という論理だ。
2. 軍神アリュートー(軍事的征服の隠喩)
グランドンの長男。輝く鎧を纏った、息を呑むほど美しい青年の神。
彼は現地の「戦神」や「荒ぶる男神」の姉妹や妻を奪う、あるいは女神を力ずくでねじ伏せるエピソードを多く持つ。
彼の多淫さは、帝国の軍団が現地へ侵攻し、略奪と暴行によって血を混ぜ、抵抗する男たちを屈服させた歴史の美化された姿である。
美形に描かれるのは、軍事的勝利こそが至上の栄光とされた帝国の価値観ゆえだ。
3. 楽神ペリオーネ(文化侵略の隠喩)
グランドンの次男。竪琴と葡萄酒、そして歌を司る優男の神。
彼はアリュートーのように剣は振るわない。代わりに、甘い歌声と美酒で現地の「乙女の精霊」や「厳格な女神」を酩酊させ、夜這いをかける。
これは、帝国の洗練された文化、娯楽、贅沢品が、質実剛健な蛮族の社会に浸透し、彼らの精神的支柱を骨抜きにして同化させていった「ソフトパワーによる侵略」の象徴である。
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軍神アリュートーが荒らし、楽神ペリオーネが酔わせ、最後に主神グランドンが「家族」として認知する。
この完璧な連携によって、平原の神々はすべて「グランドン一族」という巨大な家庭、神々のパンテオンの中に閉じ込められた。
だが、帝国なき今、残されたのは無秩序に膨れ上がった家系図だけだ。
「アリュートーに犯された女神」を祀る都市と、「アリュートーを祀る」都市が隣接すれば、そこには神話的な遺恨が生まれる。
「ペリオーネに寝取られた神」を祀る部族は、芸術を蔑むようになるかもしれない。
平原の人々は、自分たちが捏造した(あるいは押し付けられた)親戚関係の網の目の中で、「あいつの神は俺の神の義理の弟だが、仲が悪い」という終わらない愛憎劇を再生産し続けている。
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大平原において、数多ある都市国家や領主たちが唯一共有している信仰の背骨がある。
それが、天空と嵐、そして王権を司る最高神グランドンを中心とした多神教体系(パンテオン)である。
グランドンは、全知全能の賢者としては描かれない。
彼は逞しい髭を蓄え、常に漲る活力を放つ、荒々しくも精力絶倫な天空の種馬である。
神話における彼の功績の大半は、何かを創造したことではなく、誰かを愛し、誰かを孕ませ、新たな神や英雄を産ませたことにある。
正妻である女神エーリーシャがいるにもかかわらず、グランドンは雲に化け、黄金の雨に化け、時には牡牛に化けて、地上の乙女や精霊、他種族の女神と交わる。
この「神のふしだらさ」こそが、雑多な民族が入り乱れる平原社会を統合するための、最強の政治装置として機能しているのだ。
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異民族が独自の神を連れて平原へ流入してくると、都市の神殿に控える神官(あるいは神話学者)たちは、決してそれを邪教として排斥しない。
彼らは羊皮紙の家系図を広げ、こう解釈を行うのだ。
「ああ、ようこそ。お前たちが信じているその『嵐の神』は、かつて主神グランドンが、東方の『嵐の精霊』に産ませた隠し子だね。……名前は違えど、特徴が一致している」
これにより、どんなに異質で野蛮な神も、即座に「グランドンの広すぎる家系図の末席」に組み込まれてしまう。
あるいは、女性神であればこうだ。
「豊穣の女神? ふむ、その慈愛に満ちた性質……それはきっとグランドンの正妻、大女神エーリーシャが旅先で見せた『別の姿(アバター)』に違いない」
拒絶すれば角が立つ。だが「親戚」として認めてしまえば、それはグランドンを頂点とするヒエラルキーの一部となる。
これは侵略ではない。「家族の再会」という体裁をとった、極めて厚かましく、洗練された文化的な併合である。
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しかし、このシステムには副作用がある。
家系図に組み込まれた瞬間、その異民族の神は、平原ですでに確立されている「天上の宮廷劇」のキャストとして巻き込まれることになるのだ。
「君たちの神がグランドンの私生児だとするなら……、正妻である女神エーリーシャとは仲が悪いはずだね」
「この『川の神』はグランドンの弟だから、甥にあたる『戦の神』とは、昔の遺産相続で揉めていてね。だから君たちは、戦の神を祀る隣の領主とは相性が悪い運命にあるんだよ」
神官たちは、それまで異民族が考えもしなかった「神々の交友関係」や「確執」を、過去の膨大な神話データベースから引用して付与する。
それが「デファクトスタンダード(事実上の標準)」となり、地上の人間関係まで規定し始める。
異民族たちは困惑する。「俺たちの神様は、そんな浮気者の息子じゃない」と。
だが、平原の圧倒的な経済力と文化圧力の前に、数世代もすれば「どうやらウチの神様は、グランドン家の五男らしい」という認識が定着してしまう。
こうして平原の神々は増え続け、家系図は複雑怪奇に絡み合い、誰も全貌を把握できない巨大なパッチワークと化していく。
それはまさに、誰も信じられず、しかし誰もがどこかで繋がっている、平原の「低信用社会」そのものの写し鏡であった。