フラジュトフ戦士団が野営を始めたその頃、センネンス伯を迎え撃つオストール公の陣営は、センネンス伯のそれよりも遥かに豪華で、そして楽観的な空気に包まれていた。
天幕の中には厚手の絨毯が敷かれ、南方から取り寄せた葡萄酒が振る舞われている。
「……ほう。あの豚、かの『セルウィ傭兵』を雇ったか」
オストール公は、報告に来た斥候を見下ろし、グラスを揺らした。
彼は四十代の野心家であり、近年、周辺の小領主を次々と併呑して勢力を拡大している実力者だ。
「して、数は?」
「はっ。およそ三百かと」
「三百?」
オストール公は、呆れたように鼻を鳴らした。
「ふん。所詮は貧乏人の悪あがきよ。三百ばかりの歩兵で、我が軍の重装騎兵五百と、二千の徴募兵を支えられると思ったか?」
***
「……閣下。侮ってはなりませんぞ」
嘲笑に沸く幕僚たちの中で、一人だけ顔をしかめている老騎士がいた。かつて北方の国境付近で戦った経験を持つ、古参のガラランド卿だ。
「私は若い頃、セルウィ兵と戦ったことがありますが……奴らは人間ではありません。『岩』です」
ガラランドは、古傷が疼くのか、腕をさすった。
「奴らのシールドウォールは、どれだけ叩いても崩れません。馬が恐怖して突っ込めないほどの殺気を放ち、矢の雨も弾き返す。……三百といえど、平地の歩兵三千に匹敵するとお考えください」
その真剣な口調に、場の空気が少しだけ冷える。
セルウィの盾列。それは平原の騎士たちにとって、悪夢のような伝承として語られることもあったからだ。
***
「ガラランド殿は、老いていささか臆病になったと見える!」
若い側近が、大げさに肩をすくめて嘲笑した。
「所詮は蛮族の丸盾でしょう? 木と革で作った古臭い代物だ。……我々には、これがある」
側近が示したのは、天幕の隅に置かれた、異様に厳つい射撃兵器だった。
南の都市国家から輸入された最新鋭の兵器、滑車式弩弓(クロスボウ)である。
ハンドルを回して弦を引き絞るその機構は、普通の弓とは比較にならない貫通力を生み出す。
「南の都市国家から、高額で雇い入れた
オストール公は満足げに頷いた。
「その通りだ。……時代は変わったのだよ、ガラランド卿」
オストール公の勝算は技術と富にあった。
蛮族がいかに屈強でも、金で買った最新兵器の前には無力だ。
遠距離から弩弓で盾を粉砕し、穴が開いたところへ重装騎兵を雪崩れ込ませて蹂躙する。
それは、極めて理にかなった、現代的な戦術だった。
「セルウィの盾が硬いというなら、割って見せよう。……あの北の野犬どもが、文明の利器の前にどう踊るか、見ものだな」
オストール公はワインを飲み干した。
彼らの計算に間違いはない。
ただ一つ、計算外だったのは、相手にする「野犬」たちが、文明の常識を超えた結束力を持つ怪物であるという一点だけであった。
***
#本文断片
決戦の朝。平原の冬空は、腐った魚のような鉛色に淀んでいた。
戦場となるのは、両領地の境界にある緩やかな丘陵地帯だ。
両軍が対峙する。その数の差は歴然としていた。
オストール公軍:約2,500
中央に、厚着と粗末な革鎧を身に着けた徴募兵の槍衾(やりぶすま)。両翼には、功名心に逸る重装騎兵が馬を苛立たせている。そして最前列には、高価な南方の
統制は緩いが、圧倒的な「量」と「富」の暴力だ。
センネンス伯軍:約1,300
その布陣を見た瞬間、シロヴァは鼻で笑い、そして唾を吐いた。
「……汚い陣形だ」
中央の最前線――敵の攻撃が最も集中する死地(キルゾーン)に、雇われたフラジュトフ戦士団三百名が配置されている。
そして雇い主であるセンネンス伯の手勢千名は、遥か後方の安全な丘の上や、両翼の森の陰に隠れているのだ。
「露骨ですね」
シロヴァの馬の横、見学位置についたルジェが呻く。
「傭兵たちを矢面に立たせて消耗させ、敵が疲弊したところを側面から叩くつもりだ」
「ああ。俺たちは鉄床だ。敵のハンマーを受け止めるだけのな」
シロヴァは兜の緒を締め直した。怒りはない。これはビジネスだからだ。
「さて、セルウィの鉄床の堅さを見せてやるとしよう。準備はいいな、者共!」
「オオオォ!!」
***
ブォォォォォ……!
オストール軍の陣から、開戦の角笛が鳴り響く。
「構えッ!!」
五十人ごとに配置された部隊長の怒号と共に、三百のセルウィ戦士が盾を掲げ、密着する。
その直後。
ヒュン、ヒュン、ヒュンッ!
風を切る鋭い音が空気を裂いた。
弓なりの弾道を描く矢とは違い、それは地面と平行に、不可視の礫となって襲いかかった。
ガガッ! ドスッ!
「ぐぁっ……!」
盾を貫通した
普通の弓なら弾ける角度でも、滑車の力で蓄えられた運動エネルギーは、樫の木の 盾と革鎧を強引に食い破った。
「怯むな! 隙間を埋めろ!」
倒れた者の場所へ、即座に後ろの者が入る。
ルジェは息を呑んだ。
人が倒れる。血が出る。だが、誰も助け起こさない。ただ「壁の穴」を修復することだけが優先される。
「……これが」
「そうだ。これが戦争ってやつだ」
シロヴァは冷徹に戦況を見つめていた。
「よーく見とけ。……っと、危ねぇ!」
カァン!
シロヴァが剣で何かを弾いた。
ルジェの顔のすぐ横を、流れ矢が通り過ぎていった。頬に風圧を感じるほどの距離。
「ボサッとするな客分! 流れ矢くらいは自分で受けろ!」
「っ……はい!」
ルジェは慌てて自身の盾を構えた。
見学席などない。ここはもう、死の圏内なのだ。
***
弩弓による牽制もそこそこに、オストール軍の両翼が動いた。
功名心に駆られた騎士たちが、歩兵の到着を待たずに突撃(チャージ)を開始したのだ。
「我こそは一番槍!」
「蛮族どもを蹴散らせ!」
地響き。数百頭の馬の蹄が、大地を揺らす。
それは先日の大猪一頭とは比較にならない、波のような質量攻撃だ。
「来るぞ! 構えッ!」
セルウィの盾壁から、無数の長槍、はたまた戦斧が突き出される。まるで巨大なハリネズミだ。
そこへ、鉄の騎兵が激突した。
ドオォォォォォォンッ!!
金属音、破砕音、そして生物の悲鳴が混ざり合った、この世のものとは思えない轟音が響く。
「ギャアアアアッ!」
先頭の馬が槍に串刺しになり、いななきながら転倒する。
その巨体に押しつぶされ、セルウィの戦士もまた、盾ごとひしゃげて血を吐く。
後ろから来た騎兵が、前の馬につまずいて落馬する。そこへ、隙を見逃さない戦士たちが近接戦用の剣や斧を叩き込む。
人間が、馬が、ゴミのように宙を舞い、泥のように潰れていく。
個人の武勇など関係ない。
ただ、「突っ込む力」と「耐える力」がぶつかり合い、その摩擦熱で命が蒸発していく物理現象。
***
「う……、ぐ……」
ルジェは、胃からせり上がる酸っぱいものを必死に飲み込んだ。
臭い。
血の匂いだけではない。切り裂かれた内臓から撒き散らされた糞尿の臭いが、戦場を覆っている。
つい数日前、一緒にスープを飲んで笑っていた男たちが、今は返り血を浴びて鬼の形相で殺し合いをしている。
(これが……父上が生きてきた場所)
美しい英雄譚など、どこにもない。
あるのは、殺意と殺意の衝突と、ただの「作業」としての屠殺だけだ。
「おいルジェ! 吐いてもいいが目を逸らすな!」
シロヴァの声に、ルジェはハッと顔を上げた。
「ルアアァァァ!」
そのとき、ひときわ大きな戦士が戦斧を振りかぶり、目の前の騎士に向けて振り下ろす。けたたましい音をたて、鎧ごと崩れ落ちる人馬。
「すごい…………」
ルジェは戦慄し、そして同時に、背筋が粟立つような興奮を覚えた。
怖い。気持ち悪い。
けれど、この圧倒的な死の嵐の中で、命を燃やして立っている彼らが、どうしようもなく「眩しい」。
ルジェは盾を握りしめ、泥と血の海を睨みつけた。
吐き気は消えていた。
その瞳には、恐怖を超えた先にある、冷たく澄んだ戦士の光が宿り始めていた。