戦況が動いたのは、太陽が中天に差し掛かった頃だった。
「突撃ぃーーーーっ!!」
「おおおっ!」
センネンス軍の右翼から、センネンス伯の切り札である騎士団が飛び出したのだ。
彼らは「ハンマー」として、セルウィ戦士団という鉄床に釘付けにされている敵の側面を粉砕する手筈だった。
だが、その動きはあまりに遅く、そして華美すぎた。
冬のぬかるみに足を取られた重装騎兵の突撃は、さほど加速が乗らないまま、待ち構えていた槍衾に迎撃されてしまったのだ。
「敵の足が止まったぞ。迎え撃て!」
そしてセンネンスの騎士たちに、わざわざ立て直して再突撃させるわけもなく、手が空いていたオストール軍の騎兵がその側面に突っ込んでいく。
「ギャアアッ!」
悲鳴が風に乗って聞こえる。
高価な板金鎧を着込んだ騎士たちが、次々に落馬し、泥の中でタコ殴りにされている。
ハンマーは敵陣を叩き割る前に、柄から折れてしまった。
「……チッ、下手くそめ」
シロヴァは吐き捨てた。
怒りではない。呆れだ。
タイミングが悪い上に、地形を見ていない。あれではただの的だ。
「おい、右翼が崩れるぞ。側面をカバーしろ!」
シロヴァが指示を飛ばす。
ハンマーが砕けた今、中央に置かれた鉄床である自分たちが包囲される危険が出てきた。
***
その時、センネンス伯の本陣から、一騎の伝令が泡を食って駆けてきた。
馬から転げ落ちるようにして、シロヴァの前に跪く。
「シロヴァ殿! 伯爵からの命令だ!」
伝令の男は、顔面蒼白で叫んだ。
「中央突破だ! 今すぐ前に出ろ!」
「はぁ?」
シロヴァは馬上で片眉を上げた。
「見えてないのか? 敵の主力はまだピンピンしてるぞ。俺たちは防衛の契約だ。ここから打って出れば、クロスボウの餌食になる」
「違う! 敵の主力が右翼の我が騎士団へ向かった今こそが好機なのだ!」
伝令は、伯爵の妄言を必死に伝えた。
「中央は手薄だ! 貴殿らがここを突き破れば、敵は総崩れになる! ……伯爵はそう仰せだ!」
それは軍事的な判断ではない。
自らの騎士団を救うために、傭兵を死地に突っ込ませて敵の注意を引こうという、見苦しい「生贄」の要求だった。
「……ふざけるな」
近くにいた戦士のひとりが唸る。
「そんな契約じゃねえ。俺たちに死ねってのか!」
***
だが、シロヴァは静かに伝令を見下ろしたまま、動じなかった。
彼は戦況を冷徹に計算していた。
確かにリスクは高い。だが、敵が右翼に気を取られている一瞬、中央の圧力が減っているのは事実だ。
一点突破なら、あるいは抜けるかもしれない。
シロヴァは、ゆっくりと口を開いた。
「……いくらだ?」
伝令がポカンとする。
「は?」
「いくら追加で出せる、と聞いている」
シロヴァの声は、市場で家畜を値踏みする商人のそれだった。
「契約外の突撃だ。しかも弩弓の射程内へ踏み込む危険手当だ。……盾の一枚、命の一つに至るまで、タダじゃ動かんぞ」
「そ、そんなことを言っている場合か! 戦況は……」
「ならん。俺たちは傭兵だ」
シロヴァは短剣を抜き、爪の垢をほじりながら言った。
「金がなけりゃ、俺たちはここで『契約通り』日没まで盾を構え続けるだけだ。……その間に、あんたの主人の大事な騎士様たちが全滅してもな」
伝令は唇を噛み、そして叫んだ。
「くっ…………、ば、倍だ! 成功報酬を倍にする! 略奪品の権利も、オストール公の天幕にあるものはすべて貴殿らに譲る! ……これでどうだ!」
シロヴァの手が止まる。
倍額。そして敵将の財産。
シロヴァはニヤリと笑い、ルジェの方を振り返った。
「聞いたか、ルジェ。……これが『商談成立』ってやつだ」
***
シロヴァは兜の緒を締め直し、雷のような大音声で号令した。
「野郎ども! 話はついた! 給金は倍! オストールの宝は全部俺たちのモンだ!」
「「オオオオオッ!!」」
先ほどまで疲弊していた戦士たちの目に、強欲な光が宿る。
金だ。金のためなら、地獄の釜の蓋でも開けてやる。
「陣形変更! 『
ザッ、ザッ、ザッ!
横一列だった盾の壁が、中央を頂点とした鋭角な三角形――くさび形へと変形していく。
防御を捨て、貫通力に特化した特攻陣形。
ルジェは身震いした。
人が死ぬ。さっきよりも大勢、確実に死ぬ。
だが、その死は「無駄死に」ではなく、「高値で売れた命」なのだ。
(命に、値段がついた……)
シロヴァが剣を振り上げる。
「ぶちかますぞ、突撃ィィッ!!」
「ウオォォォォォォッ!!」
北の狼たちが、黄金の臭いを嗅ぎつけて走り出した。
その背中を見送りながら、ルジェは戦争の正体が「暴力」ではなく「経済」であることを、骨の髄まで理解させられていた。
***
「突撃ィィッ!」
シロヴァの剣が振り下ろされると同時に、北の狼たちが一斉に駆け出した。
ウォー! という蛮声が、平原の空気をビリビリと震わせる。
対するオストール軍の中央、徴募兵たちは、迫りくる死の三角形を見て足がすくんだ。
彼らは農民だ。金で雇われたわけでもなく、無理やり連れてこられた人々だ。
命知らずの蛮族が、目の色を変えて突っ込んでくる恐怖に耐えられるはずがない。
「弩兵! う、撃て撃てぇ! 撃ちまくれ!」
ヒュンヒュンッ、ドスッ!
敵の弩弓隊が最後の一斉射撃を行う。
先頭にいた数人が、太い矢を受けて倒れる。
だが、止まらない。
後ろの者が即座に倒れた者を踏み越え、あるいは死体を盾にして、加速を緩めずに突っ込む。
ドガァァァァッ!!
衝突。
部隊の先端が、脆い徴募兵の槍衾をへし折り、肉の壁を切り裂いた。
「オラァッ!」
前線でひときわ大暴れする戦士が戦斧を振るう。盾ごと敵兵の肩を叩き割り、道を開く。
彼らは止まらない。足を止めたら囲まれて死ぬことを知っているからだ。
叫び、叩き、突き、殺す。
その暴力的な前進運動エネルギーが、オストール軍の中央を物理的に断ち割っていく。
安全な後方から、ルジェはその光景を焼き付けていた。
人が死ぬ。
さっきよりも大勢、確実に死ぬ。
味方のセルウィ兵も、何人も倒れている。彼らはもう、故郷の家には帰れない。彼らの遺族には、今日の契約金から弔慰金が支払われるだろう。
(命に、値段がついた……)
ルジェは身震いした。
これは「戦い」ではない。「精算」だ。
自分の命という資本を投じて、敵の命と財産を奪う。その収支決算が、目の前で行われている殺戮なのだ。
やがて、敵の中央が完全に崩壊し、敗走が始まる。
オストール公の本陣が露わになった。
***
数分後、セルウィの斧が深々と食い込んだ敵陣の奥で、歓喜の絶叫が上がった。
「ウォーッ! やりやがった!」
「フラジュトフの若殿、クラがやったぞ! 敵部隊長をとったぞーッ!」
見れば、乱戦の中心で、返り血で赤く染まった巨漢が、装飾された兜の首を高く掲げていた。
その瞬間、オストール軍の中央を支えていた徴募兵たちの戦意が、雪崩を打って崩壊した。
彼らは農民だ。後ろにいる部隊長に「逃げれば斬る」と脅されていたからこそ踏み止まっていたに過ぎない。その監視役が死ねば、目の前の蛮族への恐怖だけが残る。
「ひぃっ、逃げろ!」
「殺されるッ!」
武器を捨て、我先にと背を向ける徴募兵たち。
こうなれば、もはや軍隊ではない。ただの獲物の群れだ。
南から来た傭兵団も、「契約終了だ」と言わんばかりの整然とした退却を始める。
オストール公や騎士たちは、崩れゆく歩兵を見捨て、舌打ちしながら馬首を返して戦場を離脱していった。
***
騎兵の足に重装歩兵は追いつけない。
「深追いするな! 馬は追えん!」
部隊長たちが怒鳴り、興奮する若者たちを制止する。
逃げる敵を追うよりも、もっと確実に、もっと美味い汁を吸える場所があるからだ。
「本陣だ! オストールの天幕を洗え!」
それは戦闘の終わりであり、仕事(ビジネス)の報酬受取時間の始まりだった。
戦士たちは、もぬけの殻となったオストール公の本陣へ雪崩れ込んだ。
そこには、昨晩の宴会で使われた銀食器、上質な毛皮、予備の武器や鎖帷子、そして貴族が持ち込んだ金目の物が手付かずで残されている。
「おら、こいつは俺が見つけたんだ!」
「その絨毯は俺が貰う!」
最低限の序列――部隊長が先に選び、残りを兵が奪う――はあるものの、そこにあるのは欲望の解放だ。
ルジェはロサと共に、その光景を呆然と眺めていた。
人が死に、血が流れ、その果てにあるのがこの略奪。
だが、彼らの顔は輝いている。この瞬間のために、彼らは命を賭けたのだ。
***
略奪が一段落した頃、脂汗を流したセンネンス伯が、護衛を引き連れてシロヴァの元へやってきた。
「シ、シロヴァ殿……。見事な働きであったが……」
伯爵は引きつった笑みを浮かべ、手巾で額を拭った。
「あの、伝令が言った『倍額』というのは、その……言葉の綾というか、士気を高めるための……」
シロヴァは、血のついた剣を布で拭いながら、伯爵を冷たく見下ろした。
「言葉の綾ァ?」
シロヴァの背後には、略奪を終え、血と脂にまみれた数百の戦士たちが控えている。彼らの目は、まだ殺気を帯びたまま、じっと伯爵を見つめている。
「伯爵。我々は契約通り、中央を突破し、勝利をもたらした。……北の戦士は、約束を破られることを何よりも嫌う」
それは静かな、しかし強烈な脅迫だった。
もし今ここで出し渋れば、この血に飢えた狼の群れが、次は誰を獲物にするか分からないぞ、という。
「……わ、分かった! 払おう! 倍額だ! 約束しよう!」
センネンス伯は悲鳴に近い声を上げ、腰砕けになって同意した。
シロヴァはニヤリと笑い、剣を鞘に納めた。
「感謝する、太っ腹な雇い主殿」
***
交渉成立を見届けたルジェが、ふと視線を転じると、略奪品の山の傍らに座り込む男と目が合った。
クラだ。
身の丈ほどもある戦斧を膝に置き、兜を脱いで荒い息を吐いている。
その顔は若いが、すでに数人を殺した者特有の、昏く澱んだ目をしていた。
足元には、彼が戦利品として確保した敵将の剣と、分厚い財布が転がっている。
(この男が……戦況を変えた)
ルジェは吸い寄せられるように近づいた。
クラが顔を上げ、ルジェを見る。
泥一つついていない綺麗な服を着た「客分」の少年。戦場の真ん中にいながら、血の匂いがしない異質な存在。
「……なんだ、坊主」
クラの声は低く、地響きのように腹に響いた。
「肉ならやらねぇぞ。これは俺の取り分だ」
「……いや」
ルジェは首を振った。
怖い。圧倒的な「雄」の暴力性を前にして、本能が警鐘を鳴らしている。
だが、それ以上に魅せられていた。
一撃で戦局を覆す個の武勇。自分がどんなに望んでも、この身体では決して手に入らない、純粋な力。
「見事だった。……あんたの名前は?」
クラは怪訝そうに眉をひそめたが、鼻を鳴らして答えた。
「クラだ。……親父の名前はシロヴァだがな」
ルジェは目を見開いた。
シロヴァの息子。だが、彼は「若様」としてではなく、一兵卒として最前線で泥を啜っていたのだ。
特別扱いされない、実力だけがすべての世界。
「僕は、ルジェだ」
ルジェが名乗ると、クラは興味なさそうに視線を外し、再び自分の斧を磨き始めた。
だが、その一瞬の交錯。
互いにまだ何者でもない、未完成な若者同士の視線がぶつかり合った瞬間。
それが、後に大陸全土を揺るがすことになる王とその腹心の、最初の出会いだった。
ルジェは、その背中を目に焼き付け、ロサの待つ場所へと戻っていった。
学ぶべきことは多すぎる。
この冬の遠征は、まだ始まったばかりだ。