帰還の道すがら、戦士たちの話題はもっぱら「懐具合」の話だった。
今回の攻城戦で支払われた追加報酬は、破格である。
「おい、聞いたか。破城槌の先頭で油を被った連中、特別手当が出たぞ」
「旗を立てた奴もだ。……だが、一番凄えのはやっぱりあの男だ」
視線の先には、片腕を吊ったまま黙々と歩くクラの姿があった。
彼が得た報酬は、群を抜いていた。
先の会戦での敵部隊長の首級。そして今回の砦での一番乗り。
その累計額は、彼に次ぐ高給取りの倍を超えていた。
「すげえな。……死んだ兄も、牛二頭分は稼いでたが、クラの袋はその倍はあるぞ」
「ありゃあ、家が建つどころか、倉まで建てて召使いを雇える額だ」
周囲の戦士たちは、羨望と嫉妬、そして畏怖の眼差しを向ける。
彼らにとって、銀貨は「夢」そのものだ。
独立するための畑、冬を越すための薪、愛する女を娶るための結納金。
厳しい選別をくぐり抜けてここにいる以上、力は皆が持っている。あとは金が、金さえあれば、部屋住みの惨めな生活から抜け出し、胸を張って民会に出席する権利、誇り高き自由民の家長になる権利を得られるのだ。
***
だが、当のクラは、腰に下げた革袋の重みを、ただの「石」のように感じていた。
(……だから、どうした)
クラには、他の戦士たちが目を輝かせて語るような「夢」が、欠片もなかった。
畑? 興味がない。
家畜? 面倒なだけだ。
家族? ……そんなものは、最初からいない。
彼はシロヴァの「過ち」から生まれた庶子だ。母親は平原の娼婦だったと言われるが、顔も覚えていない。シロヴァが正妻――大奥様と呼ばれる女傑――と結婚する際、追い出したのか、はたまた流行り病で死んだのか……。クラにはそれすら知らせてもらえなかった。
広げたい畑も、食わせなければならない老いた母もいなければ、借金を背負わせた父親もいない。帰るべき家もなければ、守るべき家族もない。
帰るべき家――、クラの住み家は、シロヴァのロングハウスから離れた谷の端にある。シロヴァの正妻が庶子である彼を疎むからだ。与えられた家に未練はない。翌日にでも荷物をまとめて引っ越せるだろう。
守るべき家族――、セルウィ王国有数の実力者、北方辺境の大領主シロヴァ・フラジュトフが、いったい誰に守ってくれと頼むのか?
彼にあるのは、強靭すぎる肉体と、胸の真ん中に開いた巨大な空白だけだ。
***
(痛ッ……)
クラは、痛む左腕をさすった。
骨が軋む音。筋肉が悲鳴を上げる熱さ。
それだけが、自分が生きているという実感を与えてくれる。
彼が戦場に立ったのは、銀貨のためではない。
心の空白を埋めるためだ。
圧倒的な暴力を振るい、敵をねじ伏せ、自分が「此処に在る」という事実を世界に叩きつける。
その瞬間の、脳が焼けるような
それだけが、この退屈で色のない世界で、唯一鮮やかな色彩を放つ瞬間なのだ。
(足りない……)
革袋の中の銀貨は、ただのスコアだ。
自分がどれだけ暴れたかを示す数字に過ぎない。
こんなもので家を買っても、虚しさが募るだけだ。
***
ルジェは、荷車の影からクラの横顔を見ていた。
周囲の戦士たちが「未来」を見て笑う中で、クラだけが、満たされない獣のような目で、何もない虚空を睨んでいる。
(彼は……飢えている)
ルジェは直感した。
この男は、また戦場に戻るだろう。
どれだけ金を稼いでも、どれだけ傷ついても。
血と鉄の味がしなければ、彼は呼吸ができない生き物なのだ。
冬遠征は終わった。
だが、クラの、そしてルジェの本当の戦いは、まだ始まってすらいないことを、冷たい春風が予感させていた。
***
フラジュトフ戦士団が数ヶ月ぶりに故国へ帰り、セルウィ王国南の要衝――王都ワストゥエステンに帰還した夜。
街の酒場は、他にも懐を温かくした遠征部隊の戦士たちで溢れかえっていた。
無事に帰れた安堵と、大金を手にした高揚感。酒が入り、声が大きくなり、やがてそれは些細な諍いへと発展する。
事件が起きたのは、とあるひとつの大衆酒場だった。
「……おい、テメェ。それが一番乗りの稼ぎかよ」
「…………」
絡んだのは、セルウィ盆地の西の氏族、リュデデンドール谷の若手戦士たちだった。
彼らは今回の遠征であまり稼げず、さらに被害も大きかったため、みごと大金を稼いだフラジュトフの、それも「庶子」であるクラのことが面白くなかったのだ。
男たちは、もともと大して事を荒立てるつもりもなかった。だが、クラの寡黙さが仇となる。無視――、それは荒れる彼らの心に、嘲弄のように映っていた。
「あァ……、無視? 無視したなテメェ」
「お高くとまってんじゃねえぞ、氏族長の子ったって正妻じゃねえんだろ。――――売女のガキがよ!」
男の一人が、クラの肩を掴んだ。
その瞬間、酒場の空気が凍りついた。
***
「…………るな」
「アァ?」
クラは、骨折して布で吊った左腕を庇うこともなく、ゆっくりと振り返った。
その目には、怒りというよりは、羽虫を見るような無機質な殺意が宿っていた。
「……触るなと言ったはず、だッ」
ドゴォッ!!
「げぼぉっ!?」
次の瞬間、男の顔面がテーブルにめり込んでいた。
クラが残った右手一本で、男の後頭部を鷲掴みにし、そのまま木の厚板へと叩きつけたのだ。
鼻骨が砕ける音。悲鳴。
「なっ、やりやがった! やっちまえ!」
仲間の四人が短剣を抜いて飛びかかる。
だが、クラは立ち上がりもせず、座ったまま右手だけで応戦した。
突き出された腕を掴んでへし折り、蹴りで膝を砕き、酒瓶で頭を勝ち割る。
それは喧嘩ではなかった。一方的な「解体作業」だった。
「誰かっ、誰か止めろーーーーっ!! 止めてくれ! 店の中がグチャグチャになる!」
店主の悲鳴。
左腕が使えないハンデなど関係ない。片手だけで、大人の男をゴミのように振り回す膂力。クラの力は理屈を超えていた。
***
翌朝。
宿屋の一室で、シロヴァは頭を抱えていた。二日酔いのせいではない。
「……で? リュデデンドールの若造の容態は?」
「顎の骨が粉砕され、歯が全部折れていますが……命に別状はありません。一生、固い肉は食えんでしょうが」
部下の報告に、シロヴァは深く、重く息を吐いた。
「生きてたか。……不幸中の幸いだな」
セルウィの掟――法ではない――は単純だ。
殺せば、殺される。
もし相手が死んでいれば、「復讐の権利」が発生する。リュデデンドール氏はフラジュトフ氏に対し、犯人であるクラの引き渡し、処刑か、莫大な賠償金、人命金を要求する「
氏族間の全面戦争を避けるためには、シロヴァは泣く泣く、実の息子を縛り上げて突き出すか、自分の手で首を刎ねねばならなかっただろう。
一方で、氏族間の全面紛争に出る、という選択肢もある。フラジュトフとその同盟者である中小氏族たちはセルウィ国内きっての武闘派だ。まあ負けはしないだろう。
だが、今どきそんなことをすれば、両者ともただでは済まない。
およそ三十年前にセルウィ内戦を終結させたルジェの父、リッドヒン王は、「王家の許可なき氏族同士の私戦」を明確に
だが、数百年続く慣習的な掟と比べて、その法は定められたばかりだ。古い掟は、特に王都から遠い辺境において、人々の行動規範の深くに根付いている。仮に法を守れても、掟を満たせない者は周りから見限られ、失望され、長たる資格を失うだろう。
ゆえに、「復讐」が避けられたことは不幸中の幸いだった。
「半殺しで済んだなら、金で解決できる。……クラの稼ぎを没収して、治療費と慰謝料に充てろ」
シロヴァは窓の外、衛兵に囲まれてふてぶてしく座り込んでいるクラを睨んだ。
あの馬鹿息子は、自分が何をしたか分かっていない。
戦場なら英雄でも、ここではただの犯罪者だ。
(せめて『決闘』の形でやってくれればいいものを……)
シロヴァは内心で毒づいた。
気に入らないなら、「表へ出ろ」と言って公衆の面前で決闘を申し込めばよかったのだ。
合意の上での決闘なら、殺しても罪には問われない。それが戦士の作法だ。
だがクラは、作法も手順も無視して、ただ衝動のままに暴力を振るった。
「……強すぎる牙は、飼い主の手も噛むか」
シロヴァは、賠償金の計算をしながら、この「狂犬」をどう御すべきか、あるいはいつ処分すべきかという、冷たい計算を始めていた。
***
(……いや、そもそも『決闘』になど、なるはずもなかったか)
ややあって、シロヴァは、自分の思考を打ち消した。
セルウィの戦士にとって、五体満足な者が、負傷して腕を吊っている人間と決闘をすること自体が、最大の不名誉だ。
あからさまに弱っている相手に対する決闘は、「戦い」ではない。「弱い者いじめ」と見なされ、仮に相手が応じて勝ったとしても勝者には汚名しか残らない。
リュデデンドールの若造たちも、最初から正式な決闘など挑むつもりも、受けるつもりもなかったはずだ。
ただ、生意気で、しかも手負いの
「怪我人相手に本気は出さねぇよ」という優越感と共に。
だが、その舐めた優越感が、彼らの顎の骨ごと砕かれる結果を招いたのだ。
***
「……シロヴァ様。リュデデンドール氏族の使者が参りましたが」
その日の午後。部下が、妙に歯切れの悪い顔で報告に来た。
「向こうも、事を荒立てたくないようです。賠償金は治療費の実費だけでいい、と」
「ほう?」
シロヴァは眉を上げた。通常なら、「一族への侮辱だ」と騒ぎ立て、法外な慰謝料をふっかけてくるところだ。
「……どうやら、『ウチの若いのが五人がかりで、しかも片腕の男にボコボコにされた』なんて噂が広まれば、リュデデンドール氏族の武名は地に落ちる……と判断したようで」
部下は笑いを堪えるように言った。
セルウィの慣習的な掟、伝統社会において「弱さ」は罪だ。
喧嘩を売っておいて、片手しか使えない相手に返り討ちに遭ったなど、恥ずかしくて公表できるわけがない。彼らは被害者面をする権利すら、自らの弱さによって失ったのだ。
シロヴァは鼻を鳴らし、そして堪えきれずにクックッと喉の奥で笑った。
「なるほどな。……被害者が、恥ずかしすぎて被害を訴えられない、か」
クラの圧倒的な暴力が、皮肉にも政治的な決着を容易にしていた。
金や法律ではない。「恥」という感情が、図らずとも事態を鎮火させたのだった。
***
「………さて、と」
シロヴァは、ふてぶてしくあぐらをかいているクラを見下ろし、説教の言葉を飲み込んだ。
(この顔だ。何を言っても無駄だ)
それに、これ以上王都にこの爆弾を置いておけば、次は誰と喧嘩し、誰を殺すか分からない。
「クラ、……行くぞ。賠償金は払った」
シロヴァは短く告げると、戦利品の換金と必需品の購入を早回しで済ませ、逃げるように王都を後にし、一路フラジュトフ谷を目指した。
それは、英雄の凱旋というよりは、厄介者の護送に近い帰路だった。