クラが失踪してから三日。
捜索隊を出したがいまだにクラの姿は見つからず、戦場ではあれほどは豪胆なシロヴァもさすがに顔色を変え始めていた。
「……隣の谷の領域に入ったらどうする。腹を空かせて家畜を盗みでもしたら……、クソ! あのバカ息子めッ」
シロヴァは地図を拳で叩いた。
前のリュデデンドール氏との揉め事は、向こうが西の氏族の若造だったから金で解決できた。だが、北の氏族は掟にうるさい。家畜泥棒は重罪だ。
いかにクラが強かろうと今のクラは丸腰だ。クラが殺されるか、はたまた氏族間戦争になるか。
「……探せ! 総出で連れ戻せ!」
***
シロヴァの号令のもと、屋敷住みの
だが、探索は難航した。一週間が過ぎても、クラの尻尾すら掴めない。
「……また逃げられました」
泥だらけで戻ってきた捜索隊長が、悔しげに報告する。
「焚き火の跡は見つけました。ウサギを食った骨もありました。猟犬に匂いを追わせましたが……あの野郎、川の中を歩いて匂いを消しやがった」
クラは、この山で生まれ育った「野生児」だ。
正規の戦士たちが隊列を組んでガシャガシャと歩いている間に、彼は音もなく移動し、高所から嘲笑っている。
大勢で追い込めば追い込むほど、彼は警戒し、より深く、より険しい場所へと逃げていく。
「だいたいの居場所は分かりました。西の尾根、昔使われていた『炭焼き小屋』のあたりです」
「なに、それがわかってるならとっとと囲め!」
「いえ、それが……」
隊長は首を振った。
「あそこは見晴らしが良すぎます。大勢で近づけば、簡単に気づかれるでしょう。囲もうと展開している間に、また別の山へ逃げられます」
力づくでの捕獲は不可能。かといって、放置すればいずれ問題になるのは目に見えている。
シロヴァは唸り声を上げ、そして、部屋の隅に控えていたルジェに視線を向けた。
***
「…………おい、ルジェ」
「はい」
シロヴァの声色が、命令調から、試すような低い響きに変わった。
「大勢で行くから逃げるんだ。……一人ならどうだ?」
ルジェの顔が緊張でこわばる。
「私に、行けと」
「お前はあいつの腕を治してたろ。それに、まだ身体が小さい。殺気もまだ薄い」
シロヴァはニヤリと笑った。
「お前なら、あいつの警戒網をすり抜けて、小屋まで辿り着けるかもしれん」
それは単なる使いっ走りではない。「あの狂犬を、お前が説き伏せて連れ戻してみろ」という、族長からの
もし失敗すれば、ルジェはクラに殺されるか、あるいは森で遭難して死ぬかもしれない。だが、シロヴァは止めるつもりはないようだった。
「……分かりました」
ルジェは立ち上がった。
自分でも不思議だった。恐怖よりも、「あの孤独な巨人と話してみたい」という好奇心の方が勝っていた。
自分と同じ、どこにも居場所のない半端者。彼が山の中で何を見ているのか、知りたかった。
「行ってきます。それと……、ロサ」
「はい」
「すまないが……、ロサはここに残っててくれ」
「ルジェさま!?」
「一人でなければ意味がない。……そう思うんだ。私だけで行かせてほしい」
ルジェは従者を制し、短剣一本と、わずかな布袋だけを持って部屋を出た。
目指すは西の尾根。
古い炭焼き小屋へ向けて、ルジェは一人、春の森へと踏み入るのだった。
***
ルジェが西の尾根。崩れかけた炭焼き小屋にたどり着いた時。クラは小屋の前で焚き火にあたりながら、捕まえた野兎を焼いていた。出奔時に持っていたはずの酒瓶の姿はない。既に飲み干して道中に放り投げたのだろう。
左腕の怪我はもう野外生活に支障がないほどに治っているようだった。
「クラ」
「……何の用だ、王都の坊主」
クラは、息を切らせて登ってきたルジェを一瞥し、告げた。
「迷子じゃねえよな。…………帰れ」
「戻ってくれないか、クラ。シロヴァ様が待っている」
「断る」
素っ気なく言うとクラは野兎にかぶりついた。その姿は、完全に野生に戻っているように見えた。
(力づくで連れ戻す? 不可能だ。言葉は……、弱い者の言葉は彼には通るまい)
本来なら、強力な武を持つ相手に、弱者は知恵と論理でこそあたるべきだ。あえて相手の土俵に立つ危険を冒す必要はない。だが、小賢しい言いくるめこそ彼が嫌悪するべきもの、ルジェにはそう思えた。
だから、ルジェは引かなかった。腰から、持参した燻製肉とワインの瓶を取り出し、放り投げた。
「クラ、賭けをしよう」
ルジェは短剣を抜いた。
「私が勝ったら谷に戻れ。君が勝ったら、この肉と酒を置いて私は消える」
クラは、ルジェが取り出した品を見て目を輝かせたが、すぐに蔑むようにルジェを見た。
「……お前が勝つ? どうやって?」
「殺し合いじゃない。……僕の短剣が、君の喉元に届いたら僕の勝ちだ。君は僕を殴り倒せばいい」
クラは呆れ、そして面倒くさそうに立ち上がった。
「いいだろう。……殺さない程度に手加減するのも一興だ」
***
クラは武器を使わない。素手だ。それだけで十分すぎる凶器だ。
「来いよ」
ルジェが踏み込む。
(ガキの癖になかなかに早い……、が)
クラは鈍く間抜けな神話の巨人ではない。生き馬の目を抜く戦士であるクラには止まって見えた。
「おぅ……ラァッ!」
クラはあくびを噛み殺しながら、右手の裏拳を適当に振るった。
ドガッ!
鈍い音。ルジェの身体が木の葉のように吹き飛び、残雪の地面を転がった。
「がっ、はッ……!」
口の中が切れ、鉄の味が広がる。脳が揺れ、視界が二重になる。
普通の子供なら、ここで泣いて終わりだ。
だが、ルジェは立ち上がった。
泥を吐き捨て、構え直す。その目に、怯えはない。
「……まだだ」
「ほう?」
クラの目が、少しだけ細められた。
「死ぬぞ、テメェ」
***
二度目の激突。
今度はクラも少し本気を出した。突っ込んでくるルジェの右腕を掴み、そのままへし折って終わらせようと手を伸ばす。
(ここだ――)
その瞬間。
ルジェは「恐怖」を捨てた。
捕まれば腕が折れる。殴られれば死ぬ。その生存本能を、――「どうせ僕は壊れている」という諦念で塗りつぶす。
ルジェは避けない。あろうことか、伸びてきたクラの懐へと、自ら飛び込んだのだ。
「なにッ!?」
クラが驚いて掴み損ねた、一瞬の隙。
ルジェは全体重を乗せてタックルし、二人共もつれ合って地面に倒れ込んだ。
もちろん、膂力では勝てない。
すぐに天地がひっくり返り、ルジェはクラにマウントを取られた。
太い指がルジェの首に食い込む。
「……終わりだ、ガキ――――、あァ?」
クラが力を込めようとした、その時。
彼は気づいた。首筋に触れる、冷たい金属の感触に。
ルジェの短剣の切っ先が、クラの頚動脈の皮一枚手前で、ピタリと止まっていた。
「…………」
ルジェは、自分が組み敷かれ、首を折られるリスクを無視して、ただ一点、喉元に刃を届けることだけに全てを賭けたのだ。
相打ち。いや、実戦ならクラの握力の方が早かったかもしれない。
だが、「このガキは自分の命を勘定に入れていない」という異常性が、野性のクラを一瞬だけ怯ませたのだ。
***
「……刺せたな」
クラが低い声で言った。
「ケホッ、……折れたね」
ルジェが、首を絞められたまま掠れ声で返す。
クラは手を離し、仰向けに転がって大声で笑った。
「ククッ、ハハハハ! イカれてやがる!」
クラは、ルジェの「イカれ具合」を認めたのだった。
***
クラは起き上がると、ルジェが持ってきたワインを開け、ラッパ飲みした。
「なあ、ルジェ。……なんでここまでする? たかが俺一人のために」
クラは口元のワインをぬぐいながら問うた。
「よく知らんが、お前は王都の、高貴な客分なんだろう? こんな泥の中で、命を張る必要がどこにある」
ルジェは、泥だらけの身体を起こし、クラを真っ直ぐに見た。
(ここで嘘をつけば、この獣は二度と振り向かない。けれど……)
王族であることを話せば軽蔑されるかもしれない。「真実」を伝えれば、友にはなれないかもしれない。
だからルジェは、「魂の真実」だけを話した。
「……私は、客分なんかじゃないよ」
ルジェは自嘲気味に笑った。
「僕は、父に捨てられたんだ。……『要らないもの』として、この北の果てに放り出された」
クラの目が動く。
それは、彼自身が背負ってきた烙印と同じ響きを持っていたからだ。
「君は
ルジェは胸甲の上から、自分の胸を強く握りしめた。
この下にある秘密。それを言外に匂わせながら、魂の乾きだけを叫ぶ。
「私は、冬のあいだ君を見ていた。……君は飢えている。私もそうだ。満たされない。どれだけ血を浴びても、どれだけ誰かに囲まれても、自分が独りだと知っている」
ルジェは手を差し出した。
「だから、私が君を飼う。……いや、私が君の『場所』になる」
それは求婚にも似た、共犯関係の提案だった。
「クラ、私に従ってくれ……、いや、従え。そうすれば、君が暴れられる最高の戦場と、君が決して孤独を感じない居場所を、私が作ってやる」
***
長い沈黙。
風の音だけが、二人の間を吹き抜ける。
やがて、クラはニヤリと笑い、ルジェの手をバチンと叩いた。
「……大きく出たな、欠陥品」
***
クラはルジェが持参したワインの瓶を開け、ラッパ飲みしていた。
喉を鳴らして飲むその姿は、渇いた荒野が雨を吸い込むようだ。
ルジェは、そばにあった燻製肉の塊を拾い上げる。「お前が私に勝ったらこれを置いていく」とクラと賭けた肉だ。
そして、それをクラに渡す……のではなく、まず自分の口へ運んだ。
ガブリ。
ルジェは前歯で硬い肉を食いちぎり、租借し、飲み込んだ。
「おん……?」
その様子を、クラがワインを飲む手を止めてじっと見ている。
「……食え」
ルジェは、自分が口をつけ、歯型の残った肉の塊を、無造作にクラへ放った。
肉とは、大きさではない。誰が
それが、獣の世界における序列のすべてだ。先に食う者がボスであり、与えられる者が従属者だ。
クラは投げられた肉を片手で掴み取ると、ニヤリと笑った。
怒ってはいない。むしろ、その生意気な流儀を気に入った顔だ。
「……いただきまさァ、大将」
クラは肉にかぶりついた。
共犯の宴。
二人は並んで、塩辛い肉と酸っぱいワインを回し飲みした。
言葉はいらなかった。胃袋に落ちた同じ熱が、契約書の代わりだった。
***
二人が山を降り、フラジュトフ家の屋敷に戻ったのは翌日の昼過ぎだった。
中庭には、へし折られた倉庫の扉が、無惨な姿を晒している。
その前に、腕組みをしたシロヴァが仁王立ちしていた。
「……戻ったか」
シロヴァの雷のような声が響く。
「勝手に謹慎から逃げ出した罪。破壊した扉の弁償。……そして、捜索にかかったとんでもない手間。クラ、お前をどう処分してやろうか」
「……フン」
シロヴァが凄むと、クラはふてぶてしく鼻を鳴らしただけだったが、ルジェがすっと前に出た。
「シロヴァ様。彼を連れ戻しました。……約束通りです」
シロヴァはルジェを見下ろし、その泥だらけの顔と、しかし以前より太くなった芯のある瞳を見て、微かに口角を上げた。
合格だ。
大勢の大人が束になっても捕まえられなかった野生児を、たった一人で懐柔して連れ帰った。その手腕は、もはや「客分」の枠を超えている。
「ああ、見事だ。褒美をやろう! おい、持って来い!」
シロヴァが合図すると、従者が布に包まれたものを運んできた。
布が取られる。
そこにあったのは、真新しい鋼鉄の長剣と、フラジュトフ家の紋章が描かれた立派な円盾、そして鎖帷子だった。
「お前を下働きの身分から引き上げる! 今日からお前は、俺の直属の
「剣と、盾……!」
それは、ルジェが喉から手が出るほど欲しかった戦士の証であり、一人前の男として認められた証明だった。
周囲の孤児たちが、羨望のため息を漏らす。私的供回りに民会参加権はないが、シロヴァほどの人物の私的供回りともなれば、ある意味で一個の自由民の家長よりも得難い席である。将来得られる戦利品も段違いだ。
***
だが、ルジェはその輝く武具を見つめた後、視線をシロヴァに戻し、そして隣の薄汚れた巨人を指差した。
「……シロヴァ様。お願いがあります」
「なんだ?」
「その報酬と引き換えに、クラの罪を赦してやってください」
場がざわめく。
シロヴァは目を細めた。
「……本気か? これは、お前が一人前になるための切符だぞ。それを、こんな手負いの狂犬のためにドブに捨てる気か?」
「はい。剣や盾なら、また稼げば手に入ります」
ルジェは断言した。
「ですが、彼は違います。……私は、彼が欲しいんです」
ルジェは、自分の栄達よりも、一人の「はぐれ者」の命を選んだ。
それは計算ではない。
自分と同じ欠落を抱えたこの男を、見捨てることができなかったからだ。
シロヴァは、じっとルジェの目を見ていたが、やがて天井を仰いで大笑いした。
「ハッ、ハハハハ! 欲張りな奴め!」
シロヴァは剣と盾を鞘に戻し、従者に下げさせた。
彼は、ルジェが「物」ではなく「人」を選んだことに、王たる器の片鱗を見たのだ。
「そうだな。お前は前からそういうやつだった。……いいだろう! 商談成立だ。報酬は没収。クラの罪は不問とする」
「な…………ッ」
シロヴァは、呆気にとられているクラの背中を、思い切りひっぱたいた。
「おい、クラ。……お前はもう俺の預かりじゃねえ。その薄汚い首輪は、ルジェにやる」
シロヴァはルジェに向き直るとニヤリと笑った。
「ルジェよ、こいつを煮るなり焼くなり、好きにしろ! ……ただし、飼い犬に手を噛まれても泣くんじゃないぞ!」
ルジェは深く頭を下げた。
手元には、新品の剣も盾もない。
だが、その背後には、最強の暴力装置である巨人が、不満げに、しかし満更でもない顔で立っていた。
「……行くぞ、クラ」
「へいよ。人使いの荒い飼い主だぜ」
こうして、ルジェは最初の、そして最強の「剣」を手に入れた。
金や名誉ではなく、魂の共鳴と獣の論理によって結ばれた主従。
――彼らの快進撃は、ここから始まるのだった。