その夜、フラジュトフ家の大屋敷の一角、ルジェたちに与えられた小部屋には、氷のような冷たい空気が流れていた。
発生源は、ロサである。
彼女は、部屋の隅にドカと座り込み、持ち込んだ酒をあおっている巨大な新入り――クラを、親の仇のような目で見つめていた。
(……信じられない。信じられない。信じられない!)
ロサは猛烈に、そして自分でも驚くほど子供っぽく嫉妬していた。
今まで、ルジェの孤独を理解し、その背中を守れるのは自分だけだと思っていた。
秘密を共有し、痛みを共有し、影のように寄り添う唯一の従者。それが私の誇りだったのに。
(なのに、ルジェさまは、あろうことか正規の戦士としての栄達を捨ててまで、こんなやつを!?)
ルジェが、ルジェ自身が、こんな薄汚い、礼儀知らずの、獣臭い男を選んだのだ。まさか主君に向けるわけにもいかないわだかまりを、ロサはいつぶつけるかと思いながら心のうちに高速回転させつつしまい込んでいた。
***
「……おい、女」
クラが、空になった酒瓶を振ってロサを見た。
「酒が切れた。汲んでこい」
――ブチリ。ロサのこめかみで何かが切れた。
「……お断りです!」
ロサは眉を逆立てて立ち上がった。
「私は! 私はルジェさまの従者であり、あなたの小間使いではありません! それに、ここはルジェさまの寝所です。酒臭い息を吐かないでください!」
「あぁん?」
クラは面倒くさそうに耳をほじった。
「小せぇことキャンキャンと……。さえずるな、小鳥」
「こ、小鳥ですって!?」
一触即発。
だが、二人が取っ組み合いを始める前に、部屋の奥のベッドから、安らかな寝息が聞こえてきた。
すーっ、すーっ。
ルジェだ。
山狩りの疲労と、クラを懐柔した緊張の糸が切れたのか、泥のように眠っている。あどけない寝顔は、大氏族長シロヴァと堂々「商談」を繰り広げた若い英雄とは、まるで別人のように無防備だ。
二人の視線が、同時にルジェに向く。そして、気まずい沈黙が落ちた。
「……チッ」
クラは舌打ちし、声を潜めた。
「……無防備すぎるだろ、あの大将は。喉笛を喰ってくださいと言わんばかりだ」
「ルジェさまは、あなたを信じたのです」
ロサも声を潜め、不承不承ながらクラに向き直った。
「あなたが『噛みつかない』と信じたから、お休みになられているのです。……その信頼を裏切ったら、私が刺しますからね」
ロサは短剣の柄に手をかけた。本気だ。
勝てるはずがない相手に、一歩も引かない殺気を向けている。
クラは、その殺気を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「……悪くねえ」
「え?」
「大将は脆い。見ててハラハラするくらいにな。……俺みたいな大斧は、守りには向かねえ。俺が暴れてる間、背中を守るやつが必要だ」
クラは、持っていた干し肉の欠片を、放り投げるようにロサに渡した。
「俺は、前の敵をぶっ殺す。……お前は、後ろから近づくハエを叩き落とせ。それが役割分担だ」
ロサは、手の中の干し肉を見た。
それは、クラなりの「休戦協定」の申し出だった。
この男は粗野で乱暴だが、ルジェの「脆さ」と「危うさ」を正確に見抜いている。そして、それを守ろうという意思がある。
それだけは、認めざるを得ない。
「……分かりました」
ロサは干し肉をかじった。塩辛い。
「ですが、条件があります。……ルジェさまの前で、ゲップをしないでください。それと、週に一度は身体を洗ってください。獣臭いとルジェさまが迷惑します」
「あぁ? 注文の多い小鳥だな」
クラは呆れたように肩をすくめたが、拒絶はしなかった。
ルジェの寝息をBGMに、凸凹な二人の従者は、気まずそうに、しかし確かに同じ方向を向いて座り直した。
一人は巨大な戦斧を磨き、一人は主君の服を畳む。
ルジェの「盾」と「剣」。
後々まで活躍する布陣が―まだちょっとギスギスしているが――ここに完成した。
***
「んんっ……、よーっく、寝たぁ」
翌朝。
隙間風と共に差し込む淡い朝日で、ルジェは目を覚ました。
身体を起こそうとして、ふと動きを止める。
部屋の中が、奇妙なほど静かだったからだ。
昨夜の、火花が散るような言い争いはどこへやら。
ルジェの視界には、二つの寝息があった。
***
ルジェのすぐ脇、床に毛布を敷いて丸まっているのは、ロサだ。
膝を抱え、ルジェの寝顔を守るように小さくなっている。その寝顔は、昼間の刺々しい「従者」の顔ではなく、年相応の少女のあどけなさを晒していた。
主君のそばを片時も離れない、愛らしい牧羊犬のように。
そして、部屋の入り口。ドアを塞ぐようにして大の字になっているのは、クラだ。
巨大な戦斧を抱き枕のように抱え、豪快ないびきをかいている。
その姿は、侵入者を絶対に許さない、獰猛な番犬か、あるいは冬眠中の熊のようだ。
(……仲良く喧嘩して、寝落ちしたのか)
ルジェは、思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
あんなに睨み合っていた二人が、今は無防備に腹を見せて眠っている。
種類も、大きさも、性格もまるで違う。
けれど、二人とも「ルジェを守る」という一点においてのみ、同じ方向を向いて倒れているのだ。
***
(僕には、もったいないな)
ルジェは、毛布を引き上げ、二人の従者を愛おしげに見つめた。
父に捨てられ、身体の秘密に怯える孤独な夜。
けれど今、この狭く薄汚い部屋は、世界のどこよりも安全で、暖かな巣穴になっていた。
二匹の忠犬に見守られながら、
彼らが本格的に牙を剥き、世界を噛み砕き始めるのは、もう少し先の話である。