「きゃっ!」
ズザザッ!
屋敷裏の訓練場に、鈍い音が響く。
ロサが吹き飛ばされ、受け身を取って転がる。
「タアァッ!」
その隙を突いて背後から斬りかかったルジェの木剣の一撃は、振り返りざまにクラの振るう木の棒で、剣ごと地面に叩き落とされた。
「……遅ぇよ、大将」
クラはあくびを噛み殺しながら、尻餅をついたルジェを見下ろした。
ルジェがクラを従えて、一年が過ぎた。
ルジェは十三歳になり、背も伸びた。筋肉もついた。訓練場の同世代の少年相手なら相手にならないほど強くはなった。
だが、この規格外の巨人には、未だに一度も土をつけられていない。
「……もう一本だ」
ルジェは泥を吐き捨てて立ち上がる。
「元気だねぇ。ま、付き合ってやるよ。飯の時間まではな」
***
北の短い夏。草息けれと土の匂いが立ち込める緑の丘陵を、三つの影が疾走していた。
「ほっほっ、ほっほっ」
先頭を走るのはルジェ。その後ろにロサ。いずれも身体には、戦場を想定した武装をぶら下げている。
そして最後尾を、地響きを立てて追いかける巨影――クラだ。
クラの背中には、彼自身の体重ほどもある巨大な背負子がくくりつけられていた。中には、補修用の石材がぎっしりと詰め込まれている。
普通の人間なら歩くことさえままならない重量だ。
「おいっ、クラっ! 流石にっ、背負い過ぎじゃないかそれ!?」
「そうですっ、膝を傷めれば遠征どころじゃっ、ないですよっ!」
「ぐっ、フンッ! なにっ……、俺はこれくらいしないと身体がなまるんでねぇッ!」
ルジェもロサもクラも、自分なりに自身の肉体を追い込んでいるのだった。
***
そうして、ルジェの周りに奇妙な集団が出来上がっていた。
中心にルジェ。
その右腕に、影のように寄り添うロサ。
背後に、不機嫌な顔で腕組みをしている最強の用心棒クラ。
そしてその周りを、親を亡くした孤児たちや、家を継げない農民の若い子たちが取り囲んでいる。
ルジェは彼らに、クラが狩ってきた肉を分配して振る舞い、ガズから教わった戦術を教え、時には王都で習ったことを思い出して簡単な算術の手ほどきさえしていた。
「ルジェ兄ちゃん、俺も次の遠征には行けるかな?」
「きっと行けるさ。でも、そのためにはもっと頑張らないとだな!」
それは、フラジュトフ家の中に生まれた、小さな、しかし強固な「独立部隊」の萌芽だった。
シロヴァはそれを黙認していた。いや、面白がって見ていた。
「自分の子分を育てられない奴に、将の資格はねえ」と。
***
だが、フラジュトフ谷の短い春が素早く過ぎていき、咲き誇った花を羊が片端から貪り食う頃。ルジェと孤児たちの訓練の日々は唐突に終わりを告げる。
屋敷の裏手にある小さな訓練場――通称「裏庭」に、乾いた音が響いた。
「止めだ!」
教官である古参兵ガズが、杖で地面を叩いた。
息を切らせて木剣を構えるルジェとロサに対し、ガズはいつもの悪態をつくこともなく、しわがれた声で短く告げた。
「俺が教えることは、もう何もねえ」
「え……?」
ルジェが目を丸くする。
「卒業だ、ルジェ、ロサ。……シロヴァ様からもらった俺の仕事は、ガキたちに最低限の基礎と、個人の生き残り方を教えることだ。だが、お前らはもう、ただ生き延びるだけの段階じゃねえだろ?」
ガズは、顎で谷の底、川のほとりをしゃくった。
「明日からあっちへ行け。シロヴァ様や遠征の部隊長どのがやってる『本物』の場所へな」
そこは、ガズのような古傷を抱えた隠居兵や、まだ戦力にならない孤児たちが泥遊びをする場所ではない。冬遠征の主力となる働き盛りの男たちが、毎週の訓練で集う場所だ。
「いいか。あそこじゃ、俺の教えた技なんざ通用しねぇ。……叩きのめされてこい」
ガズはニヤリと笑い、杖で二人を追い立てた。
それは、厳しい鬼教官からの、不器用な送り出しの言葉だった。
***
フラジュトフ谷中央を流れる川の河川敷。
そこは、山がちなフラジュトフ谷において、唯一数百人の人間が展開できる平坦な場所だ。他に広がれる場所といえば畑と牧草地。当然、踏み荒らすわけにはいかない。
夏の間、ここは畑仕事の合間を縫った男たちの修練場となるのだ。
ルジェとロサ、そしてクラがそこへ足を踏み入れると、圧倒的な熱気が肌を打った。
「オッ、オッ、オッ!!」
腹の底から出る掛け声。
数百の盾が打ち鳴らされる轟音。
土煙の中でうごめいているのは、二十代から四十代の、最も脂の乗り切った正規戦士たちだ。
彼らの腕は畑仕事で培った筋肉で太く、肌は太陽に焼けて黒い。その目は、冬の遠征で生き残るために真剣そのものだ。
「……すごい!」
ルジェは圧倒された。
裏庭の訓練とは、密度が違う。殺気が違う。
これが、フラジュトフ氏族の武力を支える屋台骨。
ルジェたちが近づくと、休憩中の数人が視線を向けた。
「おう、若いの。ガズの爺さんのシゴキは終わったのか?」
声をかけてきたのは、三十代の壮健な部隊長だった。
その目には、以前のような「王都のひ弱な客人」を見る侮りはない。昨年の冬、大猪に一番槍を入れ、さらに攻城戦で負傷兵の手当てをして回ったルジェのことを、彼らは「見込みのある若造」として認知していた。
「はい! 今日から、こちらで学ばせていただきたく!」
ルジェが背筋を伸ばして答えると、男たちはニカッと笑った。
「いい返事だ。だが、ここは『お遊び』の場所じゃねえぞ。……おい、入れてやれ!」
***
訓練が再開される。
ルジェとロサが放り込まれたのは、最も基本的な、しかし最も過酷な
「構えッ!!」
号令と共に、一列に並んだ五十人が盾を構える。
ルジェも自分の円盾を掲げ、隣の男と盾の縁を重ね合わせる。
「押せぇッ!!」
対面したもう一列の集団が、盾を構えて激突してくる。
ドォォンッ!!
激しい衝撃。
「ぐっ……!?」
ルジェの細い身体が悲鳴を上げる。
個人の喧嘩ではない。数十人の体重と筋力が合成された「波」が、真正面から押し寄せてくるのだ。
足が浮きそうになる。腕がしびれる。
少しでも気を抜けば、弾き飛ばされて踏み潰される。
「下がるな小僧! 歯を食いしばれ!」
隣の男が怒鳴り、自分の盾でルジェの身体ごと支える。
「一人で受け止めるな! 隣に体重を預けろ! 俺たちが支えてやる!」
「は、はいッ!」
ルジェは必死に足を踏ん張った。
泥にブーツがめり込む。
左からはロサが、右からは顔なじみの農夫が、ガッチリと肩を押し付けてくる。
汗の臭い。土の臭い。そして男たちの熱気。
(これが……、本物の『壁』)
理屈は知っていたが、それは遠巻きに見て頭で知っていたにすぎない。
隊列のなかに大人として加わったことで、ルジェは肌でそれを理解した。
セルウィの盾列が強いのは、個々が強いからではない。
隣にいるのが「誰か」を知っているからだ。
右は隣家の長男。左は幼馴染の従者。後ろで槍を構えているのは、祭りで酒を酌み交わしたおじさんだ。
互いの家族を知り、生活を知り、この谷で共に生きているという絶対的な「根」の共有。それがあるからこそ、彼らは恐怖に耐え、隣の人間を信じて体重を預けられる。
ルジェは、その巨大な有機的な「壁」の一部となり、呼吸を合わせた。
個を殺し、群れになる。
それは、孤独だったルジェにとって、個人の武勲で英雄になることよりも遥かに温かく、そして力強い体験だった。
***
一方、大人の中でも頭ひとつ抜けた巨体を持つクラは、この「壁」の訓練からは早々に外されていた。
「お前は邪魔だ! 列が歪む!」
「あぁん? 狭苦しいんだよ!」
クラは盾列に混ざると、その怪力で味方ごと敵列を吹き飛ばしてしまうのだ。
呆れた部隊長たちは、クラに
盾列の横で、突出しようとする敵を叩き潰し、あるいは側面を突く役割だ。
それは、かつてシロヴァが危惧した「はぐれ熊」の扱い方を、現場の大人たちが試行錯誤しながら見つけ出した答えでもあった。
***
夕暮れ。
泥だらけになって河原に座り込むルジェに、戦士の一人が革袋を差し出した。
「飲め。水だ」
「あ、ありがとうございます……」
ルジェが受け取ると、戦士はニヤリと笑ってルジェの肩を叩いた。
「いい腰の入り方だったぞ。……来年の冬は、俺の隣で盾を構えな」
それは、大人たちがルジェを「守るべき子供」から、「背中を預けられる戦友」として認め始めた、最初の証だった。
十三歳の夏。
ルジェは、裏庭を卒業し、本物の男たちの世界へと足を踏み入れた。