秋が深まり、山頂が白く染まり始めた頃。
王都ワストゥエステンの王宮に、北方の大氏族長シロヴァからの書簡が届いた。
それは、儀礼的な挨拶の皮を被った、巧みな「提案書」だった。
『……
シュレーゼンロート王家の家宰、モルコドが読み上げる文面に、リッドヒン王は執務の手を止めた。
十五歳。
セルウィの慣習では、戦士として一人前とみなされる年齢だ。
『つきましては、古きセルウィの貴人の習いとして、戦士の長の長たるものの務めとして、次回の冬遠征にて「初陣」を経験させるべきかと存じます』
シロヴァの筆致は続く。
『無論、殿下はまだ若く、危険は承知の上。ついては、我がフラジュトフ家の戦士を護衛につけ、決して前線には出さず、安全な後方での指揮に留める所存。万一、殿下が失策を犯された場合も、その責任は全て当家が負いますゆえ……』
シロヴァが王に送った手紙を要約すればこうだ。
「あの隠してる王子、まだ返さなくていいんだよね? ならもう成人するし、格好だけでも初陣はさせとこうぜ。兵隊はウチが出すし、安全にさせるし、何かあったら全部俺が泥を被るからさ」
……といった具合だ。
***
リッドヒンは、窓の外の曇天を見上げた。
(……ルジェ)
五年前に北へ送った、あの「混ざりもの」の子。
この五年間、シロヴァから届く報告書は、常に短く、事務的なものだけだった。
『殿下は息災です』
『風邪を召されましたが、治りました』
『乗馬を覚えました』
それゆえ、リッドヒンとモルコドの中で、ルジェに対する懸念は風化しつつあった。
彼らは知らなかったのだ。
その「息災」な王子が、泥にまみれて古参兵と殴り合い、大猪を仕留め、北の荒くれ者たちを熱狂させるほどのカリスマを身につけているという不都合な真実を。
ルジェの逸材ぶりに目をつけた大氏族長シロヴァが、意図的に情報を遮断し、爪を研がせていたことを。
「……初陣、か。断る理由もないな」
リッドヒンは呟いた。成人した王族が戦場を知らぬとあっては、国内の諸侯に示しがつかない。
「ですが陛下」
モルコドが懸念を挟んだ。
「王族の初陣となれば、慣例として我が氏族の『シュレーゼンロート戦士団』か、あるいは陛下の私兵『
王の血を引く者が、他家の兵を率いるのは体裁が悪い。通常なら、王が自らの手足である近衛兵を貸し与え、王家の威光を示すものだ。
だが、リッドヒンは首を振った。
(近衛戦士団なら、儂の制御が完全に利く。……だが、近衛をルジェに率いさせれば、それは「王が認めた王子」として、周りに目立ちすぎてしまう)
王家にとって、ルジェは隠しておきたい存在だ。
英雄になられては困る。ただ、そこそこの武人として、辺境で埋もれていてくれればいい。
おそらくシロヴァも、それを踏まえたうえで「俺がやる」と言い出したのだろう。そうでなければ、王子の初陣を他家の戦士でさせるというのは論外極まる。
「……シロヴァに任せろ」
リッドヒンは、許可証に王印を押し、無造作に放った。
「フラジュトフの兵を使わせろ。近衛も、シュレーゼンロート戦士団も動かさん。……あくまで『地方領主の客分』としての初陣だ。王家の旗も持たせるな」
それは冷遇の極みだった。王族としての支援を与えず、他家の兵の借り物大将として送り出す。
だが、リッドヒンは気づいていなかった。
その冷遇こそが、ルジェを「王の威光に頼らぬ、現場叩き上げの指揮官」として完成させ、北の戦士たちとの絆を、王権が及ばぬほど強固にしてしまうことを。
***
数日後。フラジュトフ谷。
王都からの早馬が到着し、シロヴァは開封した書状を見て、満足げに口髭を歪めた。
「……許可が下りたぞ、ルジェ」
シロヴァは、訓練場で汗を流していたルジェ、ロサ、クラの主従を密かに裏山へ呼び出し、羊皮紙を見せた。
そこには、王印と共に、簡素な許可の文言があった。
近衛の派遣はなし。王家の旗もなし。ただ「行ってよし」というだけの、突き放した命令書だった。
***
「……やはり、父は私を見てはくれないのですね」
ルジェは、その冷徹な決定に、わかっていても深く凹んだ。
この数年、自分なりに努力し、どれほど成長したとしても、父にとって自分は「辺境に隠しておくべき厄介者」でしかないのだ。
「なーーにを落ち込んでいる、ルジェ」
シロヴァが、大きな手をルジェの頭にドンと置いた。
「バカなことを考えるな。それはむしろ、好都合だ」
シロヴァは声を潜めた。
「近衛戦士団で初陣してみろ。形式的な初陣だけで、まともに指揮なんか取らせてもらえないぞ。近衛の隊長どもが、お前の後ろに立って、いちいち口出しをするのが関の山だ」
王家の兵を率いるということは、ルジェを活躍させたくないリッドヒン王の監視下に置かれるということだ。
こっちのほうが得だろう? とシロヴァは笑って言った。
***
その時。
隅で腕組みをしていたクラが、巨大な身体をこちらに向け、訝しげに口を開いた。
「……おい、ちょっと待てよ」
クラはルジェを上から下まで見つめ直した。
「あんた、今『王家の旗』だの『近衛兵』だの言ったよな。……お前、単なるお偉いさんじゃなくて、王族だったのか?」
空気が一瞬で凍り付いた。
ルジェは身分を隠してクラと決闘し、従わせた。クラはルジェを「王都の裕福な客分」程度にしか思っていなかったのだ。
「お前なあ……、クラ。気づかなかったのか」
シロヴァは額を押さえ、心底呆れたように言った。
「ん、いや……、そうか。ルジェ、王族であることを伏せてクラを従えたのか!?」
シロヴァの目つきが変わった。驚き、そして深い洞察の色を帯びる。
――ルジェは、王族の権威を使わず、己の覚悟と命を懸けた「魂の正直さ」だけで、あの狂犬を従わせた。これはえらいことだ。
「そうです!」
隣にいたロサが、我慢できずに鼻息荒く、誇らしげに胸を張った。
「ルジェさまは、この国の王子なのです! あなたのような無礼者にも、優しくしてくださったのですよ!」
クラは、しばし呆然としていたが、やがて腹の底から笑い出した。
「ハッハッハッハッ! なんだそりゃあ!」
クラはルジェに近づき、その細い肩をドカッと叩いた。
「いいぜ、大将。最高の裏切りだ」
王族であることを隠していたことなど、どうでもよかった。
王族であるにもかかわらず、自分の命を賭けて山に登り、泥だらけの自分と一対一で命を張った。その「不釣り合いな誠実さ」こそが、クラの魂を震わせたのだ。
「王族だろうが、庶子だろうが、俺には関係ねえ。だが、命を張って俺の居場所を買い取ったのは、あんただ」
クラの目がギラリと光る。
「行くぞ、ルジェ殿下。……あんたの初陣、血で塗ってやるぜ」
「……ああ!」
ルジェは、顔の血の気を取り戻し、力強く頷いた。
父の冷遇は痛む。だが、その痛みは、得たものの大きさの前で、すでに忘れ去られようとしていた。