王都ワストゥエステン。
セルウィ王国唯一の大都市にして、国内外の物流と欲望が交差するハブ。
冬の到来と共に、この街は異様な熱気に包まれていた。
「誰ぞ! 誰ぞ勇気ある者はいないか! あの恥知らずなリットン伯に復讐してやるのだ!」
「砦に駐屯! 報酬は銀貨五百枚! 前金で百枚出すぞ!」
王都の大広場では、南の平原からやってきた諸侯の使者たちが、喉を枯らして叫んでいた。
彼らは焦っている。冬の間、手薄になる国境を守るため、あるいは雪解けと共に隣国を出し抜くため、喉から手が出るほど「武力」を欲しているのだ。
「うちは金がないが、飯は保証するぞ! 冬の間、砦に陣取って『セルウィ傭兵ここにあり』という看板を掲げていてくれればいい!」
都市化の遅いセルウィにおいて、複雑な傭兵契約書を作成できる書記官や、契約を保証する証人が揃っている場所は、ここ王都しかない。
ゆえに、この時期の王都は、巨大な「戦争の人材市場」と化す。
***
「……やれやれ。どいつもこいつも、血の気の多いことだ」
シロヴァは馬上で肩をすくめた。
彼が向かうのは、こうした広場の客引きではない。王都の傭兵ギルドの奥深く、大口の契約を仲介する古参のフィクサーたちが待つ部屋だ。
どの領主が払いがいいか。どの戦場が泥沼化しそうか。それを見極め、五百人の部下を売り込むのは、長年の経験を持つシロヴァにしかできない仕事だ。
「ルジェ。俺は契約に向かう。面倒な手続きは年寄りの仕事だ」
シロヴァは革袋を一つ、ルジェに放った。軍資金だ。
「お前は部下を連れて買い出しだ。市場の乾パンと干し肉を買い占めろ。……それと、今のうちに『マシな飯』を腹に詰め込んでおけよ。明日からは保存食の味しかしない日々だぞ」
「はい。承知しました」
ルジェは革袋を受け取り、深く頷いた。
***
シロヴァと別れたルジェたちは、その足で市場と酒場へ向かった。
ルジェの背後には、ロサとクラ、そして彼を慕う五十人の小隊が付いてくる。
「買え! チーズは硬いものを! 肉は塩漬けだ! 生の果物なんぞ見るな、腐るぞ!」
ルジェは指示を飛ばし、荷車に物資を積み上げさせる。
必要なのは、冬の間腐らず、腹を満たすだけのカロリーを持つ燃料だ。味など二の次だ。
***
だが、買い出しを終えて入った大衆酒場では違った。
「おやじ! 羊のローストを! 一番脂の乗ったところだ!」
「エールもだ! 温かいスープも頼む!」
ルジェが注文すると、戦士たちが歓声を上げた。
運ばれてきたのは、焼きたての熱い肉、湯気を立てる根菜のスープ、そして柔らかい白パン。
明日から数ヶ月、彼らが道中口にするのは、石のように硬い黒パンと、塩辛い干し肉になるだろう。
だからこそ、今この瞬間、文明的な食事を胃袋に記憶させておかねばならない。
「食え、クラ。……私の奢りだ」
ルジェが自分の皿の肉を切り分けると、クラは遠慮なくそれに齧り付いた。
「へっ。……悪くねえな、大将」
ルジェもまた、温かいスープを口に運んだ。
美味しい。
だが、その味を楽しみながらも、ルジェの視線は窓の外、王城の方角へと向いていた。
(父上……。私は今、あなたの膝元にいます)
この街のどこかに父がいる。自分を捨てた家がある。
だが、私はもう、ただ泣いている子供ではない。五百の兵の命運の一端を握る、一人の指揮官だ。
「……ルジェさま?」
ロサが心配そうに覗き込む。
「いえ、なんでもない。……さあ、食べよう。冷めてしまう」
ルジェは雑念を振り払い、肉を咀嚼した。
腹を満たせ。力を蓄えろ。
(感傷に浸る暇はない。冬の平原が、私たちを待っている)
***
食事を終え、店を出ようとした時だった。
入り口で、数人の男たちと鉢合わせた。
派手な刺繍の入ったマント。腰には高そうな剣。
見覚えがある。数年前、ここ王都の酒場でクラに半殺しにされた、リュデデンドール氏族の若者たちだ。
「あ痛っ……、どこ見て歩いてやがる!」
先頭の男が因縁をつけようとして、クラの巨体を見上げ、凍りついた。
顎には古傷。かつてクラに砕かれた跡だ。
「あっ、こいつ……、クラだ! あのときの野郎だ!」
「げぇっ、あのバケモノかよ!」
リュデデンドールの一党が色めき立つ。
恐怖と、数年越しの怨みが混ざり合い、一瞬にして空気が張り詰めた。彼らの手が剣の柄にかかる。
***
「……おォ?」
クラの眉がピクリと動いた。
全身の筋肉が収縮し、殺気が膨れ上がる。売られた喧嘩を買おうとする、条件反射的な獣の本能。
だが、それより早く、白く細い手がクラの太い腕に触れた。
「……ク〜ラ?」
ルジェだ。
ルジェは、殺気立つ男たちの前で、まるで駄々っ子をあやすような甘い、しかし絶対的な響きを持った声で囁いた。
「手出ししないの、わかるよね? ……皆の食事が不味くなる」
その言葉を聞いた瞬間、クラの身体からスッと力が抜けた。
彼はルジェを見下ろし、短く鼻を鳴らした。
「……ああ。分かってるよ、大将」
クラは腕組みをし、リュデデンドールの一党を空気のように無視して、道を空けた。
***
その態度が、逆に男たちの癇に障ったらしい。
恐怖を隠すように、リュデデンドールの戦士が嘲笑を投げつけた。
「へえ、こいつがあの『アバズレ生まれ』の庶子かよ。おとなしくなったもんだな!」
「ビビってんのか? やっぱり売女のガキは根性がねえな!」
下劣な挑発。
かつてのクラなら、この瞬間に相手の頭蓋骨を床に叩きつけていただろう。自分の出自を侮辱されることだけは、決して許さなかったからだ。
だが、クラはあくびを噛み殺し、彼らを見ようともしなかった。
今の彼には、真に仕えるべき主君がいる。
ルジェという「魂の居場所」を得た今、他人の言葉など、犬の遠吠えほどにも響かない。
自分の誇りは、もうこんなチンピラとの喧嘩の中にはないのだ。
「――おいバカっ、やめろッ!」
調子に乗る仲間を、顎に傷のある男が慌てて止めた。
「バカっ! 煽るなっ! こいつの実力は本物だぞ!? また殺される気か!」
男たちはクラの沈黙を不気味がり、捨て台詞を吐きながらそそくさと店に入っていった。
***
一部始終を見ていたフラジュトフ戦士団の仲間たちが、あんぐりと口を開けていた。
「……信じられねえ」
古参兵が、お化けを見るような目でクラとルジェを見た。
「あの『狂犬』クラが、あんな挑発をスルーしやがった」
「すげぇ……。すっかり飼い犬じゃねえか」
誰の命令も聞かず、気に入らなければ父であり戦士団長のシロヴァにさえ牙を剥いた暴れん坊。
それが、あんな華奢な少年の「わかるよね?」の一言で、借りてきた猫のようにおとなしく従ったのだ。
「……行くよ」
「ん」
ルジェが歩き出すと、クラは無言でその背後に付いた。
その姿は、首輪をつけられた犬ではない。
王の背中を自らの意志で守る、誇り高き「騎士」のそれになりつつあった。
ルジェは、背中の巨人の気配を感じながら、微かに口元を緩めた。
父のいる王都。敵だらけの平原。
だが、この最強の矛がいる限り、私はどこへでも行ける――、そんな気がした。
一行は、大平原へと続く関門、「南の隘路」を目指して進んだ。