セルウィ盆地南の隘路をつつがなく抜け、平原北部に至る。
そうして数日の行軍を経てフラジュトフ戦士団が到着した「ユーンズ領」は、北の山育ちの皆にとっては、目の毒になるほど豊かな土地だった。
平原北部の気候は、湿っぽく、霧が多い。
なだらかな丘陵地帯には、刈り入れを終えたばかりの麦畑が黄金色の切り株を晒し、まだ青々としている牧草地では、丸々と太った羊たちが草を食んでいる。
平原北部の全てがこんなに豊かなわけではない。とりわけこの領地は、水はけが良く、土地が柔らかく、日当たりも良い。北の果てからすれば、飢えとは無縁の場所に見えた。
「……信じられん。土が黒いぞ」
初めて平原に足を踏み入れる若い戦士が、足元の土を掬って呟く。
石ころだらけのセルウィの痩せた土地とは大違いだ。棒を挿せば、その棒が勝手に大樹に育ちそうなほど肥沃な大地。
「ここはまた……、平原のなかでも格別に良い土地だな。よく家畜がいて、
「だが……、民がいません。武装した軍勢がこんな近くに来てるのに、誰何に騎士が来ることもない」
「ああ。こりゃあ訳ありだな」
豊かな土地だが、その豊かさの中に、人の生きる気配がなかった。
農夫たちは家に閉じこもり、窓を閉ざしている。あるいは、村にいれば略奪を受けると、森に逃げ散っているのだろうか。
豊かな土地特有の、のんびりとした空気は消え失せ、代わりに「略奪されるのを待つ獲物」のような、張り詰めた沈黙が支配していた。
***
領主の館は、やや小高い丘の上にあるとはいえ、防衛拠点というよりは邸宅といった趣きをしていた。
その門前で、一人の男が戦士団の到着を待ちわびていた。
「おお、おお! セルウィ傭兵だ! ようやくやってきてくれたか……、ありがたい!」
依頼主、ユーンズ男爵。
上質な絹の服を着た中年の男だが、その顔色は土気色で、目には濃い隈ができている。
領主としての威厳はない。あるのは、守ってくれる親を探す迷子のような怯えだけだ。
「シロヴァ殿! もう駄目かと思ったぞ! 家臣どもが……あいつらが、私を置いて逃げ出したのだ!」
ユーンズは泣きつかんばかりに訴えた。
隣の領主がユーンズ領に攻めてくるという噂が立った途端、長年恩恵を与えてきたはずの騎士や家臣たちが、財産と手勢を連れて出奔してしまったというのだ。
あるいは、敵方に寝返ったか、召集に応じず与えられた自領に閉じ籠もっているか。
いずれにせよ、この豊かな領土は今、皮を剥かれた果実のように無防備だった。
(……豊かさは、人を臆病にするのか)
ルジェは、震えるユーンズを見て思った。
守るべき財産が多すぎる者は、それを失うことを恐れて逃げ出す。セルウィ族のように、貧しい土地で鍛えられた強さとは対極にある、富める者の脆さだ。
***
「か、家宰……。門を開けよ」
ユーンズ男爵の声は震えていた。
「だ、旦那様! 正気ですか!?」
家宰が青ざめて主人に詰め寄った。通常ならこのまま、彼らを城外で駐屯させるところだ。
「あのような薄汚い蛮族どもを、このお屋敷の中に……、あろうことか大広間に駐屯させるなど!」
窓の外を見れば、到着したばかりのフラジュトフ戦士団が、整然と、しかし威圧的に中庭を占拠し始めている。彼らの装備は泥に汚れ、その目は飢えた狼のように鋭い。絹と香水に包まれたこの館には、あまりにも不釣り合いな暴力の塊だった。
いかに契約で縛れど、傭兵は傭兵。城壁の外で野営させるか、あるいは下町の宿舎に泊めるものだ。領主の居城、それも生活空間である館に入れるなど、強盗を招き入れるに等しい。
平原のギルド傭兵でさえそうなのだ。あまつさえ彼らはセルウィ族。
凶暴にして強力な戦士、平原とは異なる神を祀り、獣脂の臭いをさせ、貧しい土地で飢え、毎年のように戦場を求めて平原を徘徊する野蛮人――それが一般的な平原人の認識だった。
そんな連中を、屋根の下、それも領主の居住空間に入れるなど、狼を寝室に放つも同然。娘や女中が襲われ、金庫が破られる未来しか見えない。
この場においては家宰の反応こそが常識であり、ユーンズこそが常識外れである。
「もし彼らが富に目が眩んだとき、誰が止めるのです! 我々の手勢は、もう逃げ遅れた老人と、震えている小姓しかいないのですよ!」
「分かっておる! そんなことは分かっておるわ!」
ユーンズ男爵は叫び、そして崩れ落ちるように椅子に手をついた。
そして彼は、死人のような顔で家宰を見た。
「彼らを庭先に野宿させる? 倉庫に入れておく? ……彼らは『客』ではないぞ。我々の命綱だ」
男爵は、自分の手が震えているのを隠すように、強く拳を握りしめた。
「彼らは誇り高いと聞く。そんな彼らがへそを曲げたらどうする! 我々には……、ザガン伯に『降るための戦力』すらないのだぞ!?」
ユーンズ男爵とて、バカではない。 隣のザガン伯爵が攻めてくるとわかった時、最初に考えたのは「降伏」だった。 土地の一部を割譲し、賠償金を払い、ザガン伯の臣下となる。屈辱的だが、命と家名は残る。それが貴族の処世術だ。
だが、降伏の使者を送ろうとした矢先、家臣たちが逃げ出したことで、その選択肢すら消滅した。
「戦う力」を持たない者は、「降伏」すらできないのだ。
もし今、丸腰でザガン伯に頭を下げればどうなるか?
相手は「ああ、そうですか」と受け入れるだろう。そして、無抵抗のまま館に押し入り、財産を全て没収し、男爵一族を路頭に迷わせるか、統治の邪魔として処刑することだろう。ユーンズを生かしておく価値がないからだ。ユーンズ領はユーンズ一党をきっちり排除した後、伯爵に従った誰かに豪華な封土として与えられるに違いない。
「ザガン伯はハイエナだ。今の我らに『戦力』がないと知れば、交渉など応じん。ただ踏み潰し、私を殺し、お前たちを奴隷にして終わりだ。私の育ててきた羊も、豊かにした畑も、彼らに従う徴募兵たちのボーナスに成り果てる……」
「それは…………」
戦力がなければ、「名誉ある降伏」すらできない。敵の領主は捕虜にして身代金を要求するのが通例だが、敵の居城までノンストップで通れるならそれすらいらない。
屈辱の恭順さえ、「死に物狂いで抵抗するところを全滅させるより、隷属させたほうが得だな」と思わせるだけの最低限の抵抗能力を持った者だけに許された特権なのだ。
「……だが、あのセルウィ族は違う」
ユーンズは、すがるように自身の記憶の中の評判を反芻した。
「彼らは『契約』を守るという。……金さえ払えば、依頼主を裏切らないと。その一点の評判だけに、彼らは命を懸けていると」
それは、平原の常識からすればあまりに頼りない、蜘蛛の糸のような希望だった。だが、今のユーンズには、その糸に全体重をかけるしか道はなかった。
「……入れるのだ。彼らを『賓客』として、館の広間へ」
男爵は、死刑台へ向かう囚人のような顔で命じた。
「酒蔵を開けろ。食料庫もだ。彼らを満足させろ。……決して、機嫌を損ねるなよ」
***
ギィィィ……。 重厚な館の門が開かれる。シロヴァを先頭に、泥だらけのブーツを履いた戦士たちが、大理石の床を踏みしめて入ってくる。
ガチャリ、ガチャリ。
静謐だった館に、場違いな金属音が響き渡る。使用人たちは恐怖に震え、壁際にへばりついている。
だが、シロヴァは怯える男爵の前に立つと、兜を脱ぎ、意外なほど礼儀正しく一礼した。
「お招き感謝する、男爵殿」
その顔に、略奪者のごとき獰猛さはなかった。あるのは、顧客に対する
「屋根のある寝床と、温かい食事。……これ以上の好条件はない。我らフラジュトフ戦士団、契約に基づき、この館を死守することを誓約しよう」
「お、おお……。頼む、頼むぞ……!」
ユーンズ男爵は、シロヴァの手を両手で握りしめ、涙目で頷いた。
それが「悪魔との契約」なのか、それとも「守護神との契約」なのか。答えが出るのは、敵軍が丘の下に姿を現した時である。
***
その一部始終を、ルジェは隊列の中から静かに見つめていた。
(力なき富は、これほどまでに惨めなのか)
この光景は、ルジェの心に深く刻まれた。自らの剣を持たず、他人の剣に依存する権力者の末路。それは、ルジェが目指すべき「王」の姿に対する、強烈な反面教師となった。
***
応接間の
シロヴァが地図を広げ、単刀直入に尋ねる。
「敵は?」
「隣領の『ザガン伯爵』だ」
ユーンズが憎々しげに、そして恐ろしげに名を挙げた。
「あのハイエナめ……。秋の収穫と冬小麦の準備が終わるのを待っていたのだ。農作業が一段落し、暇になった農民たちを徴募兵としてかき集め、雪が降る前に我が領土を切り取りに来た」
秋の収穫直後のこの時期は、穀物庫が豊かになる時期だ。冬播き麦も既に忙しい時期は終わっている。もたもたと包囲戦をすると、冬が来て大軍が動かせなくなるが、それでも晩秋から初冬は攻める側にとって兵站の心配をせずに略奪ができる、いい稼ぎ時でもある。
「で、数は?」
シロヴァの問いに、ユーンズの家令が震える声で答えた。
「は、はいっ。こちらに……」
【敵軍:ザガン伯爵軍】
* 総数: およそ 3000
* 内訳:
* 徴募兵(農民):2000以上(収穫を終えたばかりで士気は高い)
* 傭兵・従士:800
* 重装騎士:100(ザガン伯の手勢)
【味方:ユーンズ防衛軍】
* 総数: およそ 700
* 内訳:
* ユーンズの直臣である手勢・逃げ遅れた徴募兵:200(戦意喪失状態)
* フラジュトフ戦士団(セルウィ傭兵):500
シロヴァとルジェは顔をしかめた。
(およそ四倍の兵力差か……)
しかも、味方の200は数に入らない。実質、セルウィの500だけで、3000の敵を支えなければならない。
「……ふむ」
シロヴァは髭をさすった。
絶望的な数字に見える。普通の傭兵なら、「契約外だ」と言って回れ右をして帰るところだ。
ジロリ。
熊のような体躯のシロヴァの鋭い目が、地図と銀貨袋、依頼主ユーンズを交互に見下ろす。
単なる蛮族であれば……、ここでユーンズを殴り倒し、金だけ持って逃げる手もあるだろう。ユーンズに領地を自衛する手立ても、裏切り者に報復する戦力も存在しない。「そのように」見られたから、彼のもとから恩顧の臣が去っていったのだ。
ユーンズ男爵もそれを察し、恐れるような、縋るような目でシロヴァを見ている。銀貨、金貨の入った袋を震える手で差し出しながら。
「か、勝てるか……?」
最後にシロヴァは、チラリとルジェを見た。ルジェは無言で頷く。――よし。
「相手は農民上がりの烏合の衆でしょう? ……数は多いが、芯は脆い」
そして、獰猛な笑みを浮かべる。
「受けましょう! 勇猛にして精強な北の戦士をご覧あれ」
「おおっ!!」
勝算を見出したのだ。
四倍の敵。守るべき弱気な主君。そして豊かな大地。
ルジェの「指揮官」としての真価が問われる舞台が、整いつつあった。