決戦前夜。
川の対岸、ザガン伯爵の野営地は、すでに勝利を確信した祝勝会のような空気に包まれていた。
天幕の中では、ワインが振る舞われ、伯爵とその側近、そして兵力を提供した領主たちが地図を囲んで談笑している。
「はっはっは! 見たか、あのザマを!」
ザガン伯は、スカスカになったユーンズ軍の陣容を指差して嘲笑った。
「あれだけいたユーンズ恩顧の騎士たち、同盟領主たちが、皆逃げ散りおったぞ」
「ザガン伯の武威の光に怯えたのでしょう!」
「ははは、そうおだてるでない。……それにやはり、上に立つ者が『あれ』ではな」
***
配下のことごとくに裏切られたユーンズ男爵だが、彼はけして部下を虐げる質でも、暗愚でもない。むしろ、平時においては良き統治者の部類に入る男だった。
熱心に土地の治水を行い、土壌を改良し、羊の品種改良に領主自ら熱心に取り組む。彼が継いでから、領地の収穫量は倍になったとさえ言われている。
その人柄と社交力、記憶力と筆まめさで、かつてはここら一帯でも有数の有力者、諸侯同士の紛争における誠実な調停者として、その名を知られていた。
だが、こと「戦争」においては、彼は救いようがないほどの無能だった。
「去年の『カラス平野の戦い』を覚えているか?」
「そうそう、あれは傑作だ」
同盟領主の一人が、つまみを口に放り込みながら言った。周りの者たちが思い出し笑いを堪らえようともせず頷く。
「ああ、あれは酷かった。ユーンズ軍は四千、相手は二千五百だったか……。装備も質も互角。普通に指揮すれば負けるはずのない戦だったな」
だが、ユーンズは負けた。
数の多い味方を全く統御できず、功を焦った騎士たちが命令を無視してバラバラに突撃し、待ち構えていた敵に各個撃破されたのだ。
さらに最悪だったのは、その後のユーンズの行動だ。
「奴は、本陣の予備戦力を率いて戦線を立て直すどころか、真っ先に悲鳴を上げて逃げ出し、泥の中で落馬して捕虜になったのだ」
金で解決して身代金で釈放されたものの、一度ついた「臆病風に吹かれる主君」という烙印は消えない。
騎士にとって、命を預けるに足るカリスマがない主君ほど、恐ろしいものはないからだ。
ユーンズの悲哀は、彼が官僚制国家の能吏ではなかったこと、彼が封建領主の嫡男として生まれてしまったこと、これに尽きると言えるだろう。
***
「奴も必死だったのだろうな。下がった信用を取り戻そうと、平時には破格の報酬を出して家臣らを繋ぎ止めていたようだが……」
ザガン伯は、グラスのワインを透かして見た。
「金で買える忠誠なぞ、危機が来れば紙切れ同然よ」
先月、ザガン伯が軍を動かす構えを見せた瞬間、ユーンズの家臣たちは「またあの無様な敗戦に付き合わされるのか」と絶望し、雪崩を打って離散した。
それどころか、領境の守りを任されていた小領主たちは次々に寝返り、あろうことかザガン伯の軍勢を案内して、ここまで最短ルートで導いたのだ。
「おかげで、我々は靴を濡らすこともなく、この肥沃な領地の心臓部まで来られたというわけだ」
元々は、ここまでの戦力差はついていなかった。前線ももっと遠くにあったはずだ。
だが、ユーンズ自身の「弱さ」が、防壁を内側から溶かしてしまったのだ。
「残っているのは、金で雇った北の蛮族どもだけか。……哀れなものよ」
ザガン伯は立ち上がり、勝利宣言のように杯を掲げた。
「明日は、我々が新たな領主として、あの肥えた羊たちを管理してやろうではないか。……乾杯!」
「乾杯!」
高らかな笑い声が夜空に響く。
彼らは知らなかった。
追い詰められた羊が雇った「番犬」が、彼らの常識を覆すほど獰猛な獣であることを。