バキリ、と乾いた音が響いた。
本陣の中央に掲げられていたザガン伯爵家の軍旗――誇らしげな獅子の旗が、シロヴァの剣によって根元から叩き折られ、泥の中に落下したのだ。
その途端、ルジェら突入部隊を討とうと、あるいはシロヴァ隊を阻止しようとうごめいていたザガン軍本隊の中に、明らかなざわめきが伝染していく。
「ほっ、本陣の旗が倒れた……!」
「なんだって!?」
「もうだめだ! 撤退ーーっ!」
本陣にひるがえる旗は、混乱する中世の戦場においてけして揺るがない自軍の象徴だ。
その象徴が倒され、蛮族の戦士はやたらめったら強く、更に先程からザガン伯の命令がまともに届いてこない以上――、もうこれ以上命を懸けて戦ったところで、ザガン伯が約束した報酬は払われない可能性が高い。
前線の兵士たちはさっさと「負け」を認識したのだった。
***
「ヨォ、お前が総大将、ザガン伯だな?」
「ひぃッ……!」
全身を返り血で染めたシロヴァが凄む。ザガン伯とその取り巻き、逃げ遅れた同盟者たちは、膝をついて身を寄せ合っていた。
彼らの喉元には、血に飢えたセルウィの戦士たちの斧や剣が、寸止めの距離で突きつけられている。
完全な制圧。チェックメイトだ。
***
その時、大地を揺らす轟音が近づいてきた。
ドドドドド……!
川の浅瀬を探しに行っていた、ザガン軍最強の戦力――百騎の重装騎兵たちが、本陣の異変に気づいて戻ってきたのだ。
「…………お、おお! 騎士団だ! 戻ってきたぞ!」
ザガン伯は顔を上げ、救世主を見る目で叫んだ。
彼らは無傷で、蛮族の戦士たちは朝からの激戦で疲弊している。百の鉄塊が突撃すればひとたまりもない。まだ逆転できる――!
「こっちだ!! 騎士たち、やれ! 殺せ! 私を助けろ、汚い蛮族どもを蹂躙しろっ!」
ザガン伯は狂ったように喚いた。
だが。
近くの丘の上まで戻ってきた騎士団は、惨状と化した本陣を見下ろし――そして、ピタリと足を止めた。
「おい……」
「ん……、ああ……」
ザガン恩顧の騎士である騎兵部隊長は、兜の奥の冷ややかな目で戦場を査定していた。
歩兵は逃げ散り、本陣は壊滅。ザガン伯の旗は倒れて泥にまみれ、主君であるザガン伯の首には剣が突きつけられている。
一方の敵は態勢を整え、こちらを迎え撃つ密集陣形を組んでいる。
今から突っ込めば、主君を救えるかもしれない。だが、リスクもある。
そして何より――。
(……負け犬のために死ぬ義理はない)
昨日まで、彼らは「兵力差を活かせずに負けた無能なユーンズ男爵」を嘲笑っていた。
だが今、目の前にいるザガン伯こそが、その「無能」そのものになっていた。
圧倒的な大軍を擁しながら、慢心し、指揮を誤り、蛮族ごときに本陣を抜かれた愚か者。そんな男のために、命を賭ける価値などない。
***
騎兵部隊長は無言のまま、ゆっくりと馬首を返した。
それに倣い、副官たちも、他の騎士たちも、一斉に背を向ける。
「あ……………………?」
ザガン伯の口が、パクパクと開閉した。
意味がわからなかった。なぜ助けに来ない。なぜ背を向ける。
「まっ、まて! 逃げるなぁ!!」
ザガン伯の悲痛な絶叫が響く。
「金なら払う! 三倍だ! 五倍だ! 戻ってこい! 命令だぞ!」
だが、騎士たちは一度も振り返らなかった。
「わかった、ユーンズ領は分割して全てお前らの封地にする! これまでの倍だぞ!? おいっ、おーーーーい!!」
彼らは決死の覚悟で奪還を挑むはずもなく、そのまま踵を返して、それぞれの領地へと去っていった。
新しい主君を探すか、あるいは自分に与えられた土地を守るために。
「あ、ああ……」
ザガン伯は泥の中に崩れ落ちた。
彼が信じていた「金と力による支配」が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「……賢明な判断だ」
シロヴァは、去りゆく騎兵の後ろ姿を見送り、剣を納めた。
ルジェもまた、その背中を見つめていた。
勝った。
だが、この勝利の後味は、どこまでも苦く、そして冷たい「平原の現実」の味がした。
「終わりだ。……縛り上げろ」
敗者には鎖を。勝者には富を。
こうして、ユーンズ領を巡る冬の戦いは、セルウィ側の完勝で幕を閉じた。