戦闘から二日後。
ユーンズ男爵の館にて、報酬の支払いが行われていた。
金庫は空に近いだろうに、ユーンズは渋る素振りも見せず、契約通りの銀貨をシロヴァに手渡した。
シロヴァは数分ほど銀貨を改めていたが、やがてにっこりと微笑みユーンズの手を握った。
「ええ、確かに受領しましたぞ」
「……重ね重ね、感謝する、シロヴァ殿。貴殿らセルウィ傭兵がいなければ、私は今頃、ザガンの捕虜として辱めを受けていただろう」
ユーンズは深々と頭を下げた。
その態度は、以前のセンネンス伯のような尊大な態度とは大違いで、どこまでも腰が低い。
シロヴァは革袋を軽く掲げて答える。
「いい取引でした、男爵。……さて、長居は無用だ。我々は次の地へ向かいます」
シロヴァが踵を返そうとした時、ユーンズが呼び止めた。
「まっ、待たれよ! ……その、持っていってくださらぬか」
ユーンズが合図すると、従者たちが、鉄皿に乗った羊の丸焼きを次々と運んできた。
***
その表面は、長時間じっくりと直火で炙られ、
鼻をくすぐるのはその香りだ。同じ羊でも、北の羊――たとえば何度も羊毛を刈り取った後の、老いた羊のツンとした獣臭さではない。
ローズマリーやタイムに似た平原の香草を腹に詰め込み、さらに肉そのものが持つミルクと若草の香りが混じり合った、芳醇で優しい香りだ。
「すげぇ! ご馳走だ!」
「シロヴァ様、食べていきましょう!」
途端によだれを垂らした戦士たちが、口々に叫んだ。
「……ほう」
シロヴァは足を止め、そして警戒の色を目に宿した。
平原の領主は強欲だ。以前のセンネンス伯のように、高い報酬を払った後で、高い酒や食料を売りつけ、少しでも金を取り返そうとするのが常だからだ。
「美味そうな羊だ。……で、いくらだ? 一頭につき銀貨一枚か? それとも二枚か?」
シロヴァが皮肉っぽく尋ねると、ユーンズはきょとんとして、それから慌てて手を振った。
「め、滅相もない! 金など取らん! これは私の……私的な礼だ!」
「礼、だと?」
「うむ。……自慢にならぬが、戦はからっきしの私だが、牧畜にかけては少々自信があってな」
ユーンズは、丸焼きにされた羊を、我が子を見るような愛おしげな目で見つめた。
「この羊は、私が品種改良を手掛け、牧草の配合まで指示して育てた『ユーンズ種』だ。よく太り、臭みがなく、脂は甘い。……この領地の名物でしてな」
気弱な領主の顔に、初めて「職人」としての矜持が浮かんだ。
彼は戦争の指揮官としては三流だが、国土を富ませる統治者としては一流なのだ。
その羊は、彼が守りたかった「豊かさ」の象徴だった。
「貴殿らは命を賭けて、私の領民、私の畑、そして私の羊たちを守ってくれた。……せめて一番美味い肉で、腹を満たして帰っていただきたいのだ」
***
シロヴァは毒気を抜かれた顔になり、やがて相好を崩した。
「……へっ。あんた、戦場じゃ頼りないが、いい領主だな」
シロヴァはナイフを取り出し、焼けたもも肉を削ぎ取って口に放り込んだ。
噛んだ瞬間、肉汁が溢れ出す。
「……!!」
シロヴァの目が丸くなる。
「ほう、こりゃあ美味い。……俺が今まで食った平原の羊の中で、間違いなく一番だ」
その言葉を聞いて、ユーンズは心底嬉しそうに破顔した。
「そうであろう! さあ、皆の衆も遠慮なく食べてくれ!」
ルジェやクラ、ロサたちも、切り分けられた肉にかぶりつく。
「お……っ、おいしい!!」
「こりゃあ……、うめぇ」
「本当……、とっても柔らかいです!」
脂が、溶けるのだ。
野生の猪の脂は、冷めるとロウのように固まり、口の中にねっとりと残る。だが、この羊の脂は違う。体温よりも低い温度でサラサラと溶け出し、まるで極上のスープのように舌の上を滑り落ちていく。
それに甘い。蜂蜜の甘さではなく、穀物と良質な牧草が凝縮された、濃厚な旨味の甘さがある。
「これが羊か……」
ルジェが知る
噛むたびに、青々とした牧草の風景が脳裏に浮かぶようだ。これは単なる肉ではない。ユーンズ領という土地が持つ「豊かさ」そのものを凝縮した塊なのだ。
「……いい肉だ」
ルジェは夢中で骨までしゃぶり尽くした。疲弊した筋肉の隅々にまで、熱い活力が染み渡る感覚がした。
***
「おい! エールだ! この脂を流すにはエールが要る!」
「バカ野郎、もったいない! パンだ! 皿の脂をパンで拭って食うんだ!」
略奪で奪ってそのまま調理した肉とも、故郷の古くて固くなった羊肉とも違う。作り手が誇りを持って育て、感謝と共に差し出した肉の味。
「ユーンズの旦那、あんた最高だ!」
「この羊のためなら、もう一戦やってもいいぜ!」
自らの命を切り売りして換金する彼らにとって、依頼主に与えられるなかで最大級の称賛である。
彼らのなかで、ユーンズ男爵がただの金蔓から、守るに値する義理堅い依頼主(クライアント)へと昇格したのだった。
(……この人は、弱い。けれど、決して『悪』ではない)
ルジェは極上の羊肉を味わいながら思った。
戦争に強いだけが君主の条件ではない。土地を愛し、実りを生み出す力もまた、尊い君主の資質なのだ。
***
宴が終わり、冬の夜空に星がまたたく頃。
シロヴァは爪楊枝で歯の間の羊肉をせせりながら、苦笑交じりにルジェを見た。
「……しかし、これが『初陣』とはな」
シロヴァは呆れたように首を振った。
本来の計画では、もっと安定した、教科書通りの戦場を経験させるはずだった。
それこそ、センネンス伯の時のような、比較的同数同士の歩兵が真正面からぶつかり、
「最初は、あの程度の依頼だと思ってここに来たんだがな。……まさか、
「ははは……」
苦笑するルジェ。戦場の高揚のなかで忘れていたが、改めて考えると死地に次ぐ死地。何度死にかけたかわかったものではない。
四倍の敵。崩壊した戦線。
それを、わずか五十人の別動隊による奇襲と、本隊の死守で覆す。それは初陣の少年が背負うにはあまりに重く、そして成功率の低い「賭け」だった。
「だが……」
シロヴァの目が、鋭くルジェを射抜いた。
「危機はなによりの試金石だ。……これで、お前の『品質』は保証された」
シロヴァは語る。
平原には、訓練場では完璧な采配を振るい、古代帝国の戦術書を空で暗唱できる「名将」がごまんといる。
だが、いざ本物の矢が飛び交い、泥と血の臭いに包まれ、想定外の事態が起きた瞬間、頭が真っ白になって棒立ちになる指揮官がいかに多いことか。
「脆い指揮官」は、平時にどれほど優秀でも、戦場ではただの肉塊だ。
「お前はそいつらとは違った。数に怯えず、泥にまみれ、自ら剣を振るって活路を開いた」
シロヴァは、ルジェの肩を強く叩いた。
「胸を張れ、ルジェ。お前はもう、王都の飾り物じゃない。……これで間違いなく、『
「実戦……、証明……!」
ルジェは、その言葉を噛み締めた。
それは、どんな勲章よりも重く、そして北の戦士たちが最も信頼する称号だ。
ふと見れば、クラも、ロサも、そして生き残った部下たちも、誇らしげにルジェを見ている。
(私は……やれたのか)
完璧ではなかった。怖かった。
だが、なんとか勝って帰ってきた。
その事実が、ルジェの背骨を熱く支えていた。
***
戦士たちが慌ただしく周りを片付け、帰還の準備が進む中、シロヴァはルジェを近くに座らせ、真剣な眼差しで語りかけた。
「さっきは戦士たちの手前、褒めることしかしてなかったがな。……いいか、ルジェ。勝ったからと言って、驕るんじゃないぞ」
「はい……!」
勝利の美酒に酔うのは戦士の特権だが、指揮官には許されない、ということだ。
シロヴァは、どこでもない空を見上げて言った。
「戦場は、僅かな隙が命取りだ。……流れ矢一本が、たまたま指揮官の目に当たることもある。突然の雨で、渡れるはずの川が増水し、にっちもさっちもいかなくなることもある」
(これは……、この人自身が幾度となく見てきた、理不尽な死の光景か)
ルジェは神妙な面持ちで頷く。
どんなに武勇に優れていても、どんなに緻密な作戦を立てても、天候一つ、体調一つで全てが覆る。
「あるいは、ただの腹痛で判断が鈍り、それが全滅に繋がることもある。……ただ『運』がなかったというだけで、万全の準備をした名将が、何も考えていない愚将に負けて死ぬ。それが戦争だ」
シロヴァは、空の向こうにいる見えざる存在を睨んだ。
「気まぐれな戦の神は、慢心をなにより嫌う。……勝ったときほど警戒せよ、とはよく言ったものだ」
***
ルジェは深く頷いた。
今回の勝利も、薄氷の上だった。もし敵の騎士が戻ってくるのがあと数分早ければ、もし雨が降って地面がぬかるんでいれば、ザガン伯の護衛兵がもう少しだけ強かったら、援護が遅ければ、死んでいたのは自分、そして自分たちだったかもしれない。
シロヴァは立ち上がり、両手を広げて力強く言い放った。
「まあなんだ、ルジェ。まずは自信を持て! いいか、戦士の長たるもの、誰よりも雄々しく、勇敢であれ。戦士たちがお前の背中を見て奮い立つように!」
そして、声を低くして言葉を継ぐ。
「同時に、臆病であれ。慎重であれ。最悪の事態を常に想定し、震えながら研鑽を忘れるな」
勇敢さと、臆病さ。
アクセルとブレーキを同時に踏むような、相反する二つを同時に持てという矛盾。
「ただの
ルジェはその重みを想起し、ゆっくりと無言で頷いた。
数百人の命を預かる者は、誰よりも大胆でなければならず、誰よりも心配性でなければならない。
その矛盾に耐えうる精神こそが、王の器なのだ。
***
シロヴァはニヤリと笑い、ルジェの背中をバンと叩いた。
「さて、説教はこれまでだ。……さァ、冬はここからだ。次の戦場へ向かうとしよう!」
その言葉を合図に、準備を終えた戦士たちが一斉に声を上げる。
戦利品でさっそく重たくなった荷車が軋み、隊列が動き出す。
ルジェも立ち上がった。その顔つきは、数ヶ月前にここへ来た時とは別人のように引き締まっていた。
「……ルジェさま」
隣で、ロサが感極まったように声を震わせた。
彼女は知っている。ルジェがどれほどの恐怖と、身体の苦痛を乗り越えて、この場所に立っているかを。その目尻には、小さな涙が浮かんでいた。
「おめでとうございます。……本当に」
ルジェは微笑み、小さく頷いた。
まだ、何かを成し遂げたわけではない。
だが、小さくて大きな最初の一歩を踏み出したのだった。