レアネリア戦記(書きかけ、チラ裏、AI利用)   作:湯木一栄

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第16話 勝利の美味

 戦闘から二日後。

 ユーンズ男爵の館にて、報酬の支払いが行われていた。

 金庫は空に近いだろうに、ユーンズは渋る素振りも見せず、契約通りの銀貨をシロヴァに手渡した。

 

 シロヴァは数分ほど銀貨を改めていたが、やがてにっこりと微笑みユーンズの手を握った。

「ええ、確かに受領しましたぞ」

「……重ね重ね、感謝する、シロヴァ殿。貴殿らセルウィ傭兵がいなければ、私は今頃、ザガンの捕虜として辱めを受けていただろう」

 ユーンズは深々と頭を下げた。

 その態度は、以前のセンネンス伯のような尊大な態度とは大違いで、どこまでも腰が低い。

 

 シロヴァは革袋を軽く掲げて答える。

「いい取引でした、男爵。……さて、長居は無用だ。我々は次の地へ向かいます」

 

 シロヴァが踵を返そうとした時、ユーンズが呼び止めた。

 

「まっ、待たれよ! ……その、持っていってくださらぬか」

 ユーンズが合図すると、従者たちが、鉄皿に乗った羊の丸焼きを次々と運んできた。

 

 ***

 

 その表面は、長時間じっくりと直火で炙られ、飴色(アンバー)に輝くパリパリの皮に覆われている。その皮の裂け目から、透明な脂が止めどなく溢れ出し、まだ熱い鉄皿に落ちて「ジュッ」と音を立てるたびに、甘く香ばしい煙が立ち昇る。

 

 鼻をくすぐるのはその香りだ。同じ羊でも、北の羊――たとえば何度も羊毛を刈り取った後の、老いた羊のツンとした獣臭さではない。

 ローズマリーやタイムに似た平原の香草を腹に詰め込み、さらに肉そのものが持つミルクと若草の香りが混じり合った、芳醇で優しい香りだ。

 

「すげぇ! ご馳走だ!」

「シロヴァ様、食べていきましょう!」

 途端によだれを垂らした戦士たちが、口々に叫んだ。

 

「……ほう」

 シロヴァは足を止め、そして警戒の色を目に宿した。

 

 平原の領主は強欲だ。以前のセンネンス伯のように、高い報酬を払った後で、高い酒や食料を売りつけ、少しでも金を取り返そうとするのが常だからだ。

 

「美味そうな羊だ。……で、いくらだ? 一頭につき銀貨一枚か? それとも二枚か?」

 シロヴァが皮肉っぽく尋ねると、ユーンズはきょとんとして、それから慌てて手を振った。

 

「め、滅相もない! 金など取らん! これは私の……私的な礼だ!」

「礼、だと?」

「うむ。……自慢にならぬが、戦はからっきしの私だが、牧畜にかけては少々自信があってな」

 

 ユーンズは、丸焼きにされた羊を、我が子を見るような愛おしげな目で見つめた。

 

「この羊は、私が品種改良を手掛け、牧草の配合まで指示して育てた『ユーンズ種』だ。よく太り、臭みがなく、脂は甘い。……この領地の名物でしてな」

 

 気弱な領主の顔に、初めて「職人」としての矜持が浮かんだ。

 彼は戦争の指揮官としては三流だが、国土を富ませる統治者としては一流なのだ。

 その羊は、彼が守りたかった「豊かさ」の象徴だった。

 

「貴殿らは命を賭けて、私の領民、私の畑、そして私の羊たちを守ってくれた。……せめて一番美味い肉で、腹を満たして帰っていただきたいのだ」

 

 ***

 

 シロヴァは毒気を抜かれた顔になり、やがて相好を崩した。

 

「……へっ。あんた、戦場じゃ頼りないが、いい領主だな」

 シロヴァはナイフを取り出し、焼けたもも肉を削ぎ取って口に放り込んだ。

 噛んだ瞬間、肉汁が溢れ出す。

 

「……!!」

 シロヴァの目が丸くなる。

「ほう、こりゃあ美味い。……俺が今まで食った平原の羊の中で、間違いなく一番だ」

 

 その言葉を聞いて、ユーンズは心底嬉しそうに破顔した。

「そうであろう! さあ、皆の衆も遠慮なく食べてくれ!」

 

 ルジェやクラ、ロサたちも、切り分けられた肉にかぶりつく。

「お……っ、おいしい!!」

「こりゃあ……、うめぇ」

「本当……、とっても柔らかいです!」

 

 脂が、溶けるのだ。

 野生の猪の脂は、冷めるとロウのように固まり、口の中にねっとりと残る。だが、この羊の脂は違う。体温よりも低い温度でサラサラと溶け出し、まるで極上のスープのように舌の上を滑り落ちていく。

 

 それに甘い。蜂蜜の甘さではなく、穀物と良質な牧草が凝縮された、濃厚な旨味の甘さがある。

「これが羊か……」

 ルジェが知る羊肉(マトン)は、もっと筋っぽく、独特の臭みがあるものだった。だが、これは違う。

 噛むたびに、青々とした牧草の風景が脳裏に浮かぶようだ。これは単なる肉ではない。ユーンズ領という土地が持つ「豊かさ」そのものを凝縮した塊なのだ。

 

「……いい肉だ」

 ルジェは夢中で骨までしゃぶり尽くした。疲弊した筋肉の隅々にまで、熱い活力が染み渡る感覚がした。

 

 ***

 

「おい! エールだ! この脂を流すにはエールが要る!」

「バカ野郎、もったいない! パンだ! 皿の脂をパンで拭って食うんだ!」

 

 略奪で奪ってそのまま調理した肉とも、故郷の古くて固くなった羊肉とも違う。作り手が誇りを持って育て、感謝と共に差し出した肉の味。

 

「ユーンズの旦那、あんた最高だ!」

「この羊のためなら、もう一戦やってもいいぜ!」

 

 自らの命を切り売りして換金する彼らにとって、依頼主に与えられるなかで最大級の称賛である。

 

 彼らのなかで、ユーンズ男爵がただの金蔓から、守るに値する義理堅い依頼主(クライアント)へと昇格したのだった。

 

(……この人は、弱い。けれど、決して『悪』ではない)

 ルジェは極上の羊肉を味わいながら思った。

 戦争に強いだけが君主の条件ではない。土地を愛し、実りを生み出す力もまた、尊い君主の資質なのだ。

 

 ***

 

 宴が終わり、冬の夜空に星がまたたく頃。

 シロヴァは爪楊枝で歯の間の羊肉をせせりながら、苦笑交じりにルジェを見た。

 

「……しかし、これが『初陣』とはな」

 シロヴァは呆れたように首を振った。

 本来の計画では、もっと安定した、教科書通りの戦場を経験させるはずだった。

 

 それこそ、センネンス伯の時のような、比較的同数同士の歩兵が真正面からぶつかり、盾列(シールドウォール)で押し合うだけの「堅実な力比べ」。それならば、ルジェを危険に晒すことなく、実地における指揮の基礎を学ばせることができた。

 

「最初は、あの程度の依頼だと思ってここに来たんだがな。……まさか、依頼主(ユーンズ男爵)の配下が一人残らず逃げ出して、あんな戦力差をひっくり返す羽目になるとは」

「ははは……」

 

 苦笑するルジェ。戦場の高揚のなかで忘れていたが、改めて考えると死地に次ぐ死地。何度死にかけたかわかったものではない。

 

 四倍の敵。崩壊した戦線。

 それを、わずか五十人の別動隊による奇襲と、本隊の死守で覆す。それは初陣の少年が背負うにはあまりに重く、そして成功率の低い「賭け」だった。

 

「だが……」

 シロヴァの目が、鋭くルジェを射抜いた。

 

「危機はなによりの試金石だ。……これで、お前の『品質』は保証された」

 シロヴァは語る。

 平原には、訓練場では完璧な采配を振るい、古代帝国の戦術書を空で暗唱できる「名将」がごまんといる。

 

 だが、いざ本物の矢が飛び交い、泥と血の臭いに包まれ、想定外の事態が起きた瞬間、頭が真っ白になって棒立ちになる指揮官がいかに多いことか。

 「脆い指揮官」は、平時にどれほど優秀でも、戦場ではただの肉塊だ。

 

「お前はそいつらとは違った。数に怯えず、泥にまみれ、自ら剣を振るって活路を開いた」

 シロヴァは、ルジェの肩を強く叩いた。

 

「胸を張れ、ルジェ。お前はもう、王都の飾り物じゃない。……これで間違いなく、『実戦証明済み(バトル・プルーフ)』の前線指揮官だ」

「実戦……、証明……!」

 

 ルジェは、その言葉を噛み締めた。

 それは、どんな勲章よりも重く、そして北の戦士たちが最も信頼する称号だ。

 ふと見れば、クラも、ロサも、そして生き残った部下たちも、誇らしげにルジェを見ている。

 

(私は……やれたのか)

 完璧ではなかった。怖かった。

 だが、なんとか勝って帰ってきた。

 その事実が、ルジェの背骨を熱く支えていた。

 

 ***

 

 戦士たちが慌ただしく周りを片付け、帰還の準備が進む中、シロヴァはルジェを近くに座らせ、真剣な眼差しで語りかけた。

 

「さっきは戦士たちの手前、褒めることしかしてなかったがな。……いいか、ルジェ。勝ったからと言って、驕るんじゃないぞ」

「はい……!」

 勝利の美酒に酔うのは戦士の特権だが、指揮官には許されない、ということだ。

 

 シロヴァは、どこでもない空を見上げて言った。

「戦場は、僅かな隙が命取りだ。……流れ矢一本が、たまたま指揮官の目に当たることもある。突然の雨で、渡れるはずの川が増水し、にっちもさっちもいかなくなることもある」

 

(これは……、この人自身が幾度となく見てきた、理不尽な死の光景か)

 ルジェは神妙な面持ちで頷く。

 

 どんなに武勇に優れていても、どんなに緻密な作戦を立てても、天候一つ、体調一つで全てが覆る。

「あるいは、ただの腹痛で判断が鈍り、それが全滅に繋がることもある。……ただ『運』がなかったというだけで、万全の準備をした名将が、何も考えていない愚将に負けて死ぬ。それが戦争だ」

 

 シロヴァは、空の向こうにいる見えざる存在を睨んだ。

「気まぐれな戦の神は、慢心をなにより嫌う。……勝ったときほど警戒せよ、とはよく言ったものだ」

 

 ***

 

 ルジェは深く頷いた。

 今回の勝利も、薄氷の上だった。もし敵の騎士が戻ってくるのがあと数分早ければ、もし雨が降って地面がぬかるんでいれば、ザガン伯の護衛兵がもう少しだけ強かったら、援護が遅ければ、死んでいたのは自分、そして自分たちだったかもしれない。

 

 シロヴァは立ち上がり、両手を広げて力強く言い放った。

 

「まあなんだ、ルジェ。まずは自信を持て! いいか、戦士の長たるもの、誰よりも雄々しく、勇敢であれ。戦士たちがお前の背中を見て奮い立つように!」

 

 そして、声を低くして言葉を継ぐ。

「同時に、臆病であれ。慎重であれ。最悪の事態を常に想定し、震えながら研鑽を忘れるな」

 

 勇敢さと、臆病さ。

 アクセルとブレーキを同時に踏むような、相反する二つを同時に持てという矛盾。

 

「ただの戦士(ウォーリア)なら、前者だけでいい。何も考えずに、命令に忠実に突っ込めばいい。……だが、お前はもう指揮官(コマンダー)だ」

 

 ルジェはその重みを想起し、ゆっくりと無言で頷いた。

 数百人の命を預かる者は、誰よりも大胆でなければならず、誰よりも心配性でなければならない。

 その矛盾に耐えうる精神こそが、王の器なのだ。

 

 ***

 

 シロヴァはニヤリと笑い、ルジェの背中をバンと叩いた。

「さて、説教はこれまでだ。……さァ、冬はここからだ。次の戦場へ向かうとしよう!」

 

 その言葉を合図に、準備を終えた戦士たちが一斉に声を上げる。

 戦利品でさっそく重たくなった荷車が軋み、隊列が動き出す。

 ルジェも立ち上がった。その顔つきは、数ヶ月前にここへ来た時とは別人のように引き締まっていた。

 

「……ルジェさま」

 隣で、ロサが感極まったように声を震わせた。

 彼女は知っている。ルジェがどれほどの恐怖と、身体の苦痛を乗り越えて、この場所に立っているかを。その目尻には、小さな涙が浮かんでいた。

「おめでとうございます。……本当に」

 

 ルジェは微笑み、小さく頷いた。

 まだ、何かを成し遂げたわけではない。

 だが、小さくて大きな最初の一歩を踏み出したのだった。

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