泥を跳ね上げて到着した伝令は、馬から転がり落ちるようにして叫んだ。
「敵の予備戦力が動いた! 敵、ゴルム公の本陣の重装騎兵が、大きく迂回してこちらの左翼へと向かっている!」
「なっ……!?」
いずれも勇猛なセルウィの氏族戦士団が、一斉にざわつく。
ルジェの背筋が凍りついた。
左翼。つまり、今自分たちがいる場所だ。
正面にはジュロルディの長槍部隊が壁を作っている。そこで横っ腹を騎兵に突かれれば、セルウィ軍二千はサンドイッチにされて全滅する。
「援軍は!?」
「本陣からの命令は!?」
場にいる氏族長たちやシロヴァが怒鳴る。
「『左翼の戦線を維持したまま、重装騎兵を防げ』! ……一歩も下がるな、とのことだ!」
(――無理だ!!)
正面の槍衾と押し合いながら、横から来る鉄の塊を受け止めろというのか。
「クソったれ! ……あの大公め、俺たちを捨て駒にする気か!」
シロヴァは、伝令に聞こえないようにセルウィ語で吐き捨て、即座に頭を切り替えた。
文句を言っている暇はない。やるしかないのだ。
「ルジェ、遊撃隊で側面に展開しろ!」
「――はっ!?」
ルジェの答えを待たず、シロヴァは手綱を引いた。
「迷うな、やれッ! 俺は前線へ行く! 槍との押し合いから、引き抜けそうな連中を引っこ抜いてお前の援護に回す! ……それまで死ぬなよ!」
他の氏族の遊撃隊も大慌てで動き出すが、より中央に近い戦線幅を任された戦士団などは、左の側面攻撃には間に合わない。
左翼のなかでも戦線の特に左側にいて、最大戦力を保持しているのは……、フラジュトフ戦士団。――――ルジェ。
***
シロヴァが去り、ルジェはたった五十人の手勢と共に、丘の上に残された。
側面や後方はぞろぞろと他の戦士団の遊撃隊も集まってくるが、彼らをあてにはできない。
(この部隊が……、私の部隊が、最前線)
ルジェの脳の奥がすうっと冷える。
冷たくなった視線の先。
地平線の彼方から――、どす黒い砂煙が上がっている。
そして、その中から現れたのは、悪夢のような光景だった。
五百を超える重装騎兵。
馬も人も、全身を鋼鉄の鎧で覆っている。夕日を反射して輝く切っ先が、すべてこちらを向いている。
ド……ド……ド……。
最初は小さな音だった。
だが、それは瞬く間に、内臓を揺さぶる地響きへと変わる。
ドドドドドォォォォ……!!
「……来るぞ」
ルジェの声が震えた。
かつて、古参兵ガズが言っていた。
「本物のランスチャージはこんなもんじゃねえ」と。
模擬戦の丸太ではない。殺意を持った数百キロの鉄塊が、時速数十キロで突っ込んでくるのだ。
***
「総員ンッ、構えーーーーッ!!」
ルジェは、裏返りそうな声を必死に張り上げた。
ここで逃げれば、背中を刺されて死ぬ。全員死ぬ。
生き残る道はただ一つ。恐怖を殺して「壁」になることだけだ。
「膝を落とせッ! 槍の石突(いしづき)を地面に埋めろ! 槍のないやつは隣と盾を重ねろッ!」
ザッ! ザッ!
極限状態にあって、五十人の戦士たちは条件反射のように動いていた。
(怖い! 怖い!)
(母ちゃん! 父ちゃん!)
(恨むぞ、戦の神!!)
いかに鍛えられた戦士といえど、人である以上は避けられない恐怖。
目の前に迫る、死。だが――。
((ルジェが逃げてない――!))
彼らはルジェと共に、あの泥の訓練場で、何百回も丸太を受け止めてきた仲間たちだ。
その中心に、クラがいる。ロサがいる。
クラは盾を持たず、巨大な戦斧を構えて仁王立ちしている。彼自身が、最強の防波堤だ。
「ビビるなよォ、野郎ども!」
クラが獰猛に笑う。
「丸太よりちょっと速いだけだ! 止めればただの肉だぞ!」
その強がりもまた、凍りついた戦士たちの魂に火を入れた。
***
距離が詰まる。
百メートル。五十メートル。
(死ぬ)
騎兵の蹄の音が、鼓膜を破るほどの轟音になる。
(死ぬ)
地面が揺れ、立っていることさえ難しい。それは馬蹄か震えか。
(死ぬ)
本能が警鐘を鳴らす。
だが、ルジェは逃げなかった。最前列で盾を構え、迫りくる死の波を見据えた。
――父上。見ていますか。
私は今、逃げていません。
「衝撃(インパクト)ォォォッ!!」
ドッガァァァァァァァァンッ!!
世界が砕ける音がした。
先頭の騎兵が、ルジェたちの盾の壁に激突したのだ。
槍が盾を貫通し、骨が砕け、馬が嘶き、人が空を舞う。
血と泥と鉄片が、爆風のように飛び散った。
――だが。
砂煙が晴れた時、壁は割れていなかった。
数人がミンチになり、隊列はひしゃげている。だが、中心部は踏み止まっていた。
クラが、突っ込んできた馬の首を戦斧で叩き折り、強制的に「堤防」を作っていたのだ。
「止めたぞ! 馬が止まった!」
「引きずり下ろせ! 殺せェ!」
足が止まった騎兵は、ただの重たい缶詰だ。
生き残ったセルウィの狼たちが、歓喜の雄叫びを上げて襲いかかる。
ルジェは、痺れた腕で剣を抜き放った。
生きている。耐えきった。
今度は、こちらの番だ。
***
「ヒヒイィィィィン!」
悲痛な軍馬の悲鳴。
突撃の勢いを殺された重装騎兵は、一転して狙いやすい的になった。
泥濘みに足を取られた馬は動けず、落馬した騎士は自重で起き上がれない。
「囲め! 甲冑の継ぎ目を狙えェ!」
「叩き潰せーーーッ!!」
ルジェの遊撃隊と、シロヴァが前線から引き抜いて駆けつけた増援部隊が、蟻のように騎士たちに群がる。
斧が兜を砕き、短剣がバイザーの隙間を刺す。
かつては恐怖の対象でしかなかった騎士が、今は狩られる獲物として泥に沈んでいく。
後ろに続く第二波の重装騎兵が、固く守る側面を、更にもうひとつ迂回しようとするが――。
「俺たちも続けーーッ! フラジュトフだけに戦果を取られるな!」
「オオォーーーーッ!」
間に合ったとばかりに、隣の戦士団が吶喊してきた。
左翼の勢いは、これでもうひとつ友軍に傾いた。
「はぁ、はぁ……ッ!」
ルジェもまた、泥まみれになりながら剣を振るっていた。
目の前の騎士が動かなくなるのを確認し、顔を上げる。
視界の端で、敵の後続が――突撃に失敗した仲間を見て、恐れをなして馬首を返しているのが見えた。
「……止めた。止まりました、シロヴァ様!」