アルバイトから帰った仁志は、昨日の作業の進捗を確認する。昨日、ショックのあまりほとんど何をどうしたのか記憶がなかったためである。
幸いにして、シリンダーブロックまで組み上がっていることを確認し、仁志は作業の続きを始めた。どうやらヘッドブロックの擦り合わせから着手する段階だったようで、
白石は今日も政志の整備工場に来ていた。風通しに開いたシャッターから覗き込むも、仁志の背中から発する
「君は確か、小学校で仁志を助けてくれてた学級委員長だったね」
「こんばんは、おじさま」
「今日はどうしたの?仁志は見ての通り面会謝絶モードになってしまってね。ごめんね」
「いえ、いつもの恋愛相談です。何回かに一回はタイミングが合わないんで、気にしないでください」
あーあ、仁志も気の毒に。ガチの恋愛相談されるようじゃ脈ないわ。政志は心の中で仁志に同情する。仁志は政志の同情も知らずバルブを錐揉みしながらバルブシートに叩く音を立てている。
「ごめんよ。ウチの仁志は今日あれを全部終わらせるまでひと言も喋らないつもりらしい」
「全部?」
「あぁ、バルブは全部で八本あるから、エンジン整備の名人で一時間くらい掛かる」
「仁志さんはどうなんですか?」
「アイツは多分、バルブの擦り合わせのことは何かの本で読んだだけだ。やるのは今日が初めてだから十二時までに終われば御の字さ」
「…何か赤いのを塗ってますけど」
「あれは光明丹っていう顔料だ。バルブシートに薄く塗ってバルブを軽く閉めると赤いのが移るだろう?均一に移ればピッタリ当たりがついて合格ってわけさ」
「てことはもう終わったんじゃないですか?」
「まさか…まだ一時間だぞ」
仁志は燃焼室の窪みに灯油を注ぎ、暫く吸排気ポートを覗き込んでいたが、がっかりしたように頭を振ると、バルブを裏から指で押し、ポートから灯油を空き缶に戻す。しばらくして、手のひらを錐揉みする音とバルブを軽く叩く金属音が響く。
「まぁそうなるだろうとは思ったよ」
「あれは何をしていたんですか?」
「灯油を使って、バルブの密閉が上手く行ったか確かめていたんだよ。多分、今やり直してるところが漏れていたんだろう」
「大変なんですね」
「今日初めてする作業を名人並みの時間で終わらせられるわけはないよな」
仁志を見ると、四気筒あるうちの三番目のシリンダーから手を付けていた。
「ほう、むしろ残り三気筒分はちゃんと合ったのか。腕がいいな」
「そうなんですか?」
「そうだな。最初は自動車整備の才能があると思っていたが、アイツにあったのはチューナーの素質だった…」
「違うんですか?」
「あぁ。安全快適に、長く動くように、そして交通法規に合うようにクルマの面倒を見るのが整備士なら、チューナーはクルマを改造してより性能が良く、速いクルマを目指すものだ。仁志は多分、チューナーになった方が幸せになれるはずだ」
ふと見ると、仁志が再び問題のあった燃焼室を試している。何やら満足そうな顔を浮かべ、注いだ灯油をポートから吐き出させ、空き缶で受けている。
仁志はこちらを振り返ると、驚いた顔を一瞬浮かべる。
「委員長、来てたのか?」
「こんばんは」
「全く気にしてなかった…」
「仁志、本当は気付いてたんじゃないのか?」
「気付いたって途中で手ぇ離せないよ。バルブの擦り合わせだぜ」
「出来たのか?」
「あぁ。誰かさんを送ってかなくていいなら今夜でヘッドブロックは完成なんだがな」
「どういう意味かしら?」
「二夜連続で俺んとこ来たって委員長の片思いの彼は振り向かねぇだろってことだよ」
言いながら仁志は組み立て途中のヘッドブロックにカバーを掛ける。
「帰ってくれ」
「仁志、送って行け」
「わーってるよ、オヤジ…委員長、送るから帰れ」
仁志はツナギを平服に着替える時間すら勿体ないと言わんばかりに、そのまま白石邸に向かう。白石は慌てて仁志に追いついた。
「歩くの速いって!何で怒ってるの?」
「…」
「私何か怒らせた?」
「…」
「ねぇ!」
「委員長を送らなくていいならあのままヘッドブロックの組み立てまで終わっていた。それだけだ」
「何それ!?今まで中途半端に相談乗っといて急に突き放すの?」
「じゃあ俺のとこで愚痴ばかり吐いてたら豆腐屋さん
「それは…」
「委員長にはガキの頃助けてもらった恩があるから喜んで相談に乗ったが、何の進展も望まないなら話は別だ。きっぱりと諦めちまえ」
「…」
白石は仁志の苛立つ様子と理詰めの口撃に言葉を失う。仁志は言い過ぎたと思い、溜息をつく。
「ハァ…。一回アタックしろ。絶対だ。その上でもし駄目だったらきっぱり諦めてもうそいつのことは忘れろ。俺のとこにも来るな」
「…」
「そいつのこと以外で俺に相談することなんかないだろ」
「…上手くいかない前提なんだ…よくわかっ…」
「上手く行っても俺のとこには来るな。付き合っている野郎がいるのに俺のとこに来るのはもっとマズい」
食い気味な仁志のひと言を最後に会話は途絶えた。昼間のガソリンスタンドで藤原拓海と待機場所で鉢合わせた時の沈黙と違い、逃げ出したくなるような沈黙であった。白石邸までの道のりが、長く険しく感じられた。
それからしばらくして、仁志は白石邸から駆け足で政志の整備工場に戻った。急いで取り掛かれば十二時までに今夜終わらせる予定だったところまでは終わらせられるかもしれないと、慌てて取り掛かろうとする仁志を政志が止める。
「仁志!落ち着け。一旦手を止めろ」
「オヤジ、急いでるんだ」
「慌てて作業するな!お前かクルマのどっちかが使い物にならなくなるぞ!」
仁志はそこで手を止める。政志が再び口を開いた。
「就業時間が決まっていたら、片付け時間プラス五分は余裕を見ろ。本当にヘッドブロックまで仕上げて片付けまで終わるのか?」
「わからない。でもアメリカのドラッグレースのビデオで見たけど、エンジンのオーバーホールをレースの合間の一時間で終わらせてたぜ。OHVのエンジンは単純だからイケるんじゃないのか?」
「あれは作業ではなくあくまでスポーツだ。普通の自動車修理とは違う。急ぐがゆえに組付けミスだって山ほど起きる。それで木っ端微塵になるクルマだって星の数ほど見ただろう」
仁志はふと時計を見る。そんなことを言い合っている間に、時間が足りなくなっていた。
「…片付けるよ。続きは明日だ」
「そうしろ。…それと、ああいう態度は良くない」
「ごめん…」
「いや…俺に対してじゃなくて、他所様の娘さんにあの態度は良くないってことだよ」
「よせよ。俺だって恩がある相手だから相談にも乗ってたけど、ただ愚痴るだけで何の進展もないなら本人のためにもならないし、俺の時間も勿体ないだろ」
「女の相談なんてそんなもんだ」
「俺の好きな女でなおかつあっちも俺に気があるってんならいいけど、他の男への片思いの相談だぜ?」
「異性として見ていない相手には色事の相談もしてしまうのが女だ」
「あの時間が何かの役に立てばいいが、精々気晴らし程度じゃどうにもならんだろ」
「まず共感が欲しいんだ、あいつらは」
「だったら女の相談なんざ二度と乗らねぇ」
「仁志…!」
「機械は人間と違って裏切らない。掛けた手間を無駄にもしない。それだけだ」
政志は、仁志が己の内に自惚れを育て、未だに人間不信を抱えていたことを見抜いた。
「…まさかお前、人は独りで生きられるなどと思ってないだろうな?」
「…だったら?」
「そんな甘い考えは今すぐ捨てろ。今だってお前は俺の家に住み、学校に通い、整備を学んでいるだろう」
「…!」
「もっと言うなら、誰しも産みの親なくして人は生まれてこない。育ての親なくして育たない。独り立ちして独りで生きられるようになったとして、それは本当に自分一人の力と言えるか?」
仁志は生活基盤を政志に頼りきっていたという、高校生の身ではどうしようもない現実を突きつけられ、一瞬言葉に詰まる。そして口にしたのは、それを認めた上で自らが生きる目的としていた近い将来の生き方であった。
「…だから俺はこの工場を継いでオヤジに恩返しするっていつも言ってる」
「どうやってこの工場を守る気だ?俺や俺の客、あの娘さんやお前の悪友の西田淳二以外の全ての人間を憎んだままこの工場を守れるのか?」
「守ってやるさ」
「無理だ。お客さんも、クルマや部品を作るメーカーも、問屋も、役所も、みんな人間の集まりだ。お前はこれら全てを憎みながら商売する気か?」
「契約して金のやりとりして物さえ寄越せば文句はない」
「そう思うなら自分の工場でやれ。俺の工場を継がせたところで三月と持たずに潰されるのがオチだ」
「やってみなけりゃわからんだろ」
「わかるさ。現に俺の工場はただ単に金のやり取りだけでは回っていない。いや、ここだけじゃない。どこのどんな商売だってそうだ。金勘定だけではなく、義理人情と人のしがらみの中でやってるんだ」
「そうかよ」
政志は話にならないとばかりに首を振る。
「お前にウチは継がせられない。卒業したら勝手に生きていけばいい」
仁志は部屋に戻り、財布を持つとそのままガレージに戻り、ドリーム50に跨るとそのまま乱暴にスターターを蹴った。
「仁志!どこへ行くんだ!」
政志が制止するが仁志は答えなかった。代わりにスロットルを乱暴に吹かしながら走り出して行った。
なんか主人公マシンがドリーム50みたいになりつつあるが、気のせいである。