仁志は国道の検問を避け、路地裏をドリーム50で走り抜け、西田淳二の家の前に着いた。西田淳二の家は淳二の両親が輸入雑貨商、祖父母が敷地内の離れで英国風喫茶店『ロッカーズ・カフェ』を営んでいる。俺の生まれた家もこれくらい太ければな、等と仁志は内心で無い物ねだりをしながら離れの喫茶店に向かう。
「ごめんください…やっぱりここにいたか」
「よう、トシ。うちに来るなんて珍しいな。どうしたんだ、今日は?」
予想通り、西田淳二は喫茶店の隅の席に独りで座っていた。仁志は向かいに腰掛ける。
「バイト終わったんでちょっとな。ところでシャー、今夜秋名道路で地元の族と赤城の方から来た族がレースするらしいぞ」
「まさかトシ、そんなのに興味あるのか?一番嫌ってただろ、そういうのに憧れるヤツを」
「…まぁ、色々だよ。ちょっと家に帰りにくくなっちまってな」
「なんだ?親子喧嘩か?」
「そんなとこだ」
淳二は呆れたかのように両手を上げる。仁志もこれを真似る。
「なんでまた…?」
「正確には喧嘩ってわけでもないんだが…ちょっと帰りにくくてな」
「そうは言っても、夜中ウロウロしてたら補導されるぜ?」
そんなことを話していると、淳二の祖父で喫茶店の店主もである西田敏弘がカウンターの向こうから歩み寄る。
「いらっしゃい。ご注文は?」
「アメリカンコーヒーをお願いします」
「一杯で何時間?」
「ご心配なく。怒られる前には退散しますんで」
仁志は伝票を書きながらカウンターの向こうに戻る敏弘の背中を見送る。そして目の前の級友に向き直る。
「とりあえず族の抗争だけ見届けて、後のことは後で考えるさ」
「あ、そう。俺は夜の山なんてオバケが怖いからやめとくよ」
「お前の恐怖の基準ってわからないよな。修学旅行じゃ風呂で一般客のおっさんと仲良くなってたけど、俺達気が気じゃなかったぜ」
「なんで?」
「おっさんの背中の閻魔様にずっと睨まれてたからだよ。なんでそんな相手と初対面で仲良くなれる奴がオバケ怖いとか言い出すんだ?」
そういえばあのおっさん小指あったっけ、と今更ながら心配になる仁志である。話が逸れかかっていたのに気付き、元に戻そうとする。
「まぁその話は置いとくとして…。ヘルメット余ってたりしないか?貸してくれると助かる」
「しょうがねぇな。後で好きなの持ってけ。でもここまでどうやって来たんだ?」
「夜中勢いのまま飛び出して来ちまってな。ガソスタのお客さんが検問やってるって教えてくれたから回り道してきた」
「マジかよ…。心配してるんじゃねぇの、親父さん?」
「だと思うけどさ…」
そこへ、敏弘がコーヒーを持って来るとそのまま空いた椅子に腰掛けた。
「はい、家出少年、お待ち遠様」
「いただきます」
「どうせこの一杯で粘るんだろう?」
「頃合い見て出ますよ」
「ふん、まあいいさ。どうせ今は暇だしナ」
「じいちゃん、トシはこう見えて気を遣うから、あんまり言わないであげて」
「気を遣って他のジャリガキの半分の時間で帰りますってか?」
「だからこうして暇な時間を見計らって来てくれてるんじゃないの」
「何でもいいさ。トシ坊、長居するからには、何で家出したのかくらいは話してくれてもいいんじゃないのか?もしかしたら政志に上手く言ってやれるかもしれんぞ」
西田敏弘は政志の整備工場で軽トラックの整備を依頼する常連である。地域の猟友会長もしており、先日政志と仁志が食べた猪肉のステーキの出処もこの老人である。現在はコーヒー一杯で粘る金払いの渋い客を思い浮かべ、顰め面をしている。孫の淳二が仁志に助け舟を出したため、敏弘はひとまずその件について追及をやめ、仁志の家出の理由を尋ねた。
「別に喧嘩したわけじゃないんですよ、マスター。俺がどうにも帰りにくいというか、どんな顔してオヤジに向かい合ったらいいか分からなくなってしまっただけなんです」
「…続けなよ」
「元々俺はオヤジの整備工場を継いで、オヤジとその周りの人達に恩返しするつもりでいました」
孫の淳二と知り合う前から、仁志は敏弘と何度も顔を合わせている。仁志は何故か無愛想ながらも親切なこの老人になら自分の弱みを見せても問題なさそうに思えた。
「ところが先日、とあるヤツから言われましてね。オヤジの稼業が整備工場じゃなかったら跡を継ぐ気になってたかって」
「ほう…」
「どうやら俺は恩知らずらしい。恩返しのためじゃなくて、エンジン付きの機械を弄るのが好きだから跡を継ぎたかっただけなんです。そのことに気付かされてからそれがどうにも申し訳なくて…」
「…それで、家を出てどうするつもりだったんだ?」
敏弘は先を促す。仁志はコーヒーに口を付けると、しばし考え込む。
「…勢いのままに飛び出してきた…。さっきそう言っていたな」
「えぇ。オヤジにもちょっと当たっちまったもんで…」
「なんだ、喧嘩してるじゃないか」
「喧嘩なんてそんな…言い負かされましたよ。ぐうの音も出なかった」
「政志に食って掛かるなんて、お前さんにしちゃ珍しいんじゃないのか?反抗期が来ないって政志がぼやいていたぞ」
「うちは普通の親子とは違いますからね…」
「何も変わらんだろう?」
「本来存在しちゃいけなかった子供を、本来何の義理もないオヤジが百パーセント善意で拾ってくれたのが俺ですからね。そりゃ普通の親子みたいに碌でもない言葉投げたりなんてできませんよ」
「恩人の息子をそのような言葉で侮辱するなよ、トシ坊。それがお前自身のことなら尚更だ」
「そんなつもりじゃないです。つまり…他とは事情が違うんです」
「少なくとも政志は他の家と同じようにお前さんを養ってきたと思うがね」
「オヤジに拾われなかったら俺は野垂れ死んでましたよ。普通の産みの親は子供に無償の愛情を注ぎますけど、それは血の繋がりがあるからに過ぎない。オヤジは遠い親戚筋だからっていうだけで俺を拾ってくれました。だからこそ、恩を返すということが大事な意味を持っていたんです、俺の場合は」
「別に政志の稼業を継ぐだけが恩返しでもないだろう?」
「恩返しにかこつけて自分勝手に生きようとしていたことに人から言われるまで気付けなかったのがね。自己嫌悪ですよ」
「それで?それがわかった今、お前さんはどうする?」
敏弘は先を促す。仁志はどのみちこのまま放浪するわけにもいかない身分である。政志の元に帰るのが一番であるし、仁志もそれを望んでいるであろうと考えていた。
「オヤジには今のままでは跡目はやれないと言われました」
「ほう…それはそれは…」
敏弘は仁志の言葉に一瞬驚いたような反応を見せるが、確信を持って仁志に尋ねる。
「それは恐らく、お前さんのことを恩知らずだと思ってのことではないと思うぞ」
「恩知らずは多分事実ですよ。オヤジが気にしなくても」
「理由は言ってなかったのかい?」
「俺は基本的に人を憎みすぎているから、そんなんで商売なんて出来ないって言われました」
「確かに、人を憎みながら商売は出来んな。結局、人は感情で動くものだ」
「その時に俺、オヤジにだいぶ食って掛かってしまって…」
「お前さんも感情で動いてしまったんだな、それは」
「…返す言葉もございません」
「とにかく、政志はお前さんのことを恩知らずとは思っていないさ。そこはお前さんも自信持てよ」
「どの面下げて戻ったらいいんです、俺?」
「ひと言『ごめんなさい』でいいだろう。そんなことでそこまで怒る政志でもあるまい」
仁志は昨夜の行動を反省した。しかし、何も言わずに家を出てから時間が経ちすぎている気もしていた。帰りにくいなぁ、と仁志が呟くと淳二がすかさず答える。
「時間が経てば経つほど気まずくなると思うよ、トシ」
「わかってるよ…」
「トシ坊、まだ帰りにくいようだな」
「…俺は誰にどうやって恩返しすればいいんですか?」
仁志は最も気にしている疑問を口にした。
「そうさなぁ…。恩送りという言葉を知っているか?」
「恩送り、ですか?」
「そうだ。生きていればそのうち
「えぇ」
「助ければいいのさ、そういう人達を」
「…」
「助けた相手がまたどこかで誰かを助ける。そうやって受けた恩を別の誰かに送っていけばいい。それが恩送りだ」
「世の中、助けるに値する人間ばかりとは限りませんよ」
「ならばお前自身は助けるに値する人間だったか?助けるに値するとかしないとか、そんなことを政志は一瞬でも考えたか?」
「…」
「世の人の親と変わらない無償の愛情を注いでもらったはずだ。少しずつ損得勘定抜きでいろんな人に返してもいいだろう」
「…」
「まぁ、どうするかはお前さん次第だがな」
敏弘は視線を上げ、壁の振り子時計を一瞥した。時計はほとんど七時を指していた。
「さ、コーヒーが冷めてる。飲んだら帰った帰った」
仁志はコーヒーを飲み干すと、五百円硬貨を敏弘に手渡す。
「ご馳走様でした。シャー、ヘルメット貸してくれ」
「オーケー、ついて来な」
ドアベルの軽快な音色と、振り子時計の七つの鐘に送られ、仁志と淳二は『ロッカーズ・カフェ』を後にした。
追記…今回は説教くさい内容になってしまった。