養父・政志に反抗し、家出をしていた仁志。謝りに帰るまでの時間を少しでも引き延ばそうと登った秋名山で、秋名のハチロクと高橋啓介のRX-7のバトルを目撃する。これをきっかけにして、チューナーになるという夢を自覚するのであった。
仁志の一日反抗期から一夜明け、日曜日の朝が来た。
「おはよう、オヤジ」
「おはようさん、仁志」
「朝飯食ったらバイト行くよ」
「そうか。バルブシートの注文書出来てたら代金と一緒に預かるぞ」
「まだいいよ。全部バラして他のものと一緒にまとめて買うから」
仁志は
東京都内で自動車販売と整備を手掛ける山本自動車で電話が鳴った。鼻の下に黒い髭を蓄えた工場の主、
「はい、山本自動車…」
「群馬の鈴木政志です。山本社長はいらっしゃいますか」
「私だ。渋川の政志か。久しぶりじゃないか」
「山本、元気そうで何よりだ。本当にもうチューニングはしてないのか?」
「あぁ。もう自己正当化には疲れてナ」
「またまた。
「どこまで真面目にやっても、やってることは違法だったからナ」
看板を山本自動車に掛け替え、チューニングから足を洗い、陸運局指定整備工場となって暫く経つが、かつては
「それで、今日はどうしたって?」
「うちの
「あぁ、仁志のことか。俺が昔見たときは時は痩せっぽちのちびっ子だったが、大きくなったのか?」
「お陰さんで、逞しく育ったヨ」
「そうか、それはそれは…。ところで、どんなクルマ起こしてんだ?」
「B110のサニーだ。A型の1,200cc」
「また懐かしいのを起こそうとしてるナ」
「オヤジがTSレースの研究に使ってたやつだ」
「確かにあの頃のサニーは速かったもんナ。1,200ccのOHVのくせに10,000rpmオーバーで160馬力。確かに研究したくもなるか」
「車重も700kgちょいしかないからパワーウェイトレシオで言えばうちのレビンが霞むよナ。そのかわり事故れば漏れなくお陀仏だけどナ」
「それはあの頃のクルマはどれも同じだヨ」
しばし思い出話に花が咲く。今でこそ笑えるようになったものの、当時の車体強度のせいで命を落としたライバルを多く見てきた二人である。
「揃えられそうなものは揃えるヨ。注文書を送ってくれてからだけど」
「ありがとよ。よろしく頼むワ」
丁度その時、『山本自動車』の敷地に黒い日産・スカイラインGT-Rが乗り入れ、ガレージの前でブレーキを短く軋ませて止まる。
「お客さんだ。すまんが切るぞ」
「あぁ。忙しいのにすまんな、長々と」
山本は電話を切ると先程止まった黒い車に近づいていった。
「レイナちゃん、今日はどうしたんだい?」
群馬県渋川市内、国道沿いのガソリンスタンドで、仁志はアルバイトをしていた。店長の立花祐一はアルバイトリーダーの池谷浩一郎にスタンドを任せると、藤原とうふ店に用があるとかで出かけていった。客足が途切れ、池谷、渋高コンビの片割れの武内樹、店員ではないが暇を持て余して来店した健二が昨日の交流戦の余韻に浸っている。
「いやー、もう朝から色んな奴に同じこと何回訊かれたかわかんねーよ。『あのハチロク、何者だ?』ってさー」
「俺も随分訊かれたなー。高橋啓介を負かしたハチロクの噂は凄い勢いで広まってるぞ」
池谷がカカカッと笑いながら言うと、健二も相槌を打つように答える。池谷は昨日の『秋名のハチロク』について、スピードスターズの秘密兵器などと散々嘯いたため、何としても加入させたいと語る。窓拭き用のウエスを水洗いし、未使用の棚に戻しながら聞いていた仁志は池谷の言いぐさに違和感を覚える。
(ソイツは筋が違うだろ、池谷さん。スピードスターズでは歯が立たないからって、わざわざ豆腐屋の親父さんを助っ人に呼んでおいて、いざ事が済んだらそのまま軍門に降れなんて、本気で言ってんのか?あんたがするべきなのは、毎週一回、あの店で豆腐なり油揚げなり買うことだ…。まぁ俺には関係ないか…)
仁志は一瞬よぎった違和感を黙殺し、打ち水をしようと水道場に向かいかける。すると樹が口を開く。
「池谷先輩、それなら俺に任してくださいよ。なんてったって俺は拓海とマブダチですからねー。言うこと聞かせますよ」
池谷が本当か、と返すと樹は小学校からの付き合いなので弱みもいくつか知っていると不敵な笑みを浮かべる。仁志は先程とは別の違和感に気付く。
(だから豆腐屋さんを加入させるのは筋違いなんだって。フカシこいたのは池谷さんの都合だろ。…ん、何故藤原拓海を口説く流れになった!?)
何故そこで拓海の名前が出るのか理解が追いつかない仁志をよそに、樹が池谷と健二に頼み込んでいる。
「そのかわり、俺のことも入れてくださいね、スピードスターズに」
「いいとも、拓海が入ってくれるなら絶対イツキも入れてやるよ」
「ラッキー!交渉成立!」
武内さん、あんたそんな
(マジかよ、昨日の奴は息子の方だったのかよ…。まさか、
仁志と同学年、それはつまり、どう考えても免許を取って一年も経っていないことを意味していた。しかし昨日見た走りは、たった一年で身につくものとは思えなかった。
(俺はまぁ、色々あって無免でやらかしてたけど…。まさか…)
仁志にも政志の整備工場で売り物にならずヤードに半ば捨て置かれていた色々な老朽中古車を勝手に乗り回していた過去はあったが、政志には度々叱られていた。事故で潰した時には大目玉である。それが世間一般の親が子供の非行に対して示す常識的な反応であると知っているが故に、藤原文太が息子・拓海の無免許運転を黙認し、昨日の抗争に送り出すとは到底思えなかった。
(まぁ…人生色々、親子も色々、家庭も色々なんです、ってか…?)
無理矢理自分自身を煙に巻いて納得させ、ふと意識を戻すと、池谷と健二が樹に肝心なことを訊いている。スピードスターズへの加入は認めるとして、車はどうするのか、と。よくぞ訊いてくれたとばかりに樹は答える。
「オヤジに泣きついて保証人になってもらって、ローンでハチロク買いますよ!拓海がパンダトレノなら俺は赤か黒のレビン探して、いつか秋名最速のハチロクコンビと呼ばれるようになりますよォ!!くぅ〜ッ!!」
池谷と健二が呆れてずっこけるのが仁志の視界の端に映る。
(俺が車屋なら絶対売らねぇな。保証人になる親父がどんだけ太いのか知らんが、ローンが焦げ付いてクルマを回収しなきゃならんって時には肝心のクルマは消し炭になってそうだからな…)
仁志は中々に辛辣なことを腹の中で呟きながら、丁度入ってきた客の対応を始めた。
藤原とうふ店のシャッターが半分開いているところに、愛車のトヨタ・カムリに乗って立花祐一が現れた。車を降り、シャッターの下から覗き込むように声を掛ける。
「文太いるかー?俺だー」
奥からその無表情な顔に何故かうっすら笑みを浮かべ、店主・藤原文太が咥え煙草で現れる。
「オゥ、祐一か。いいとこへ来た。クルマだろ?商工会の寄合があるんだ。わりーけど乗っけてってくれや」
「なんだよー。人をタクシー代わりに使うなよ」
商工会議所への道中、助手席で遠慮なくタバコを吹かす文太に、祐一が話しかける。
「凄かったらしいじゃねえか、拓海は。池谷達は朝からその話で大騒ぎだぜ」
「別に凄いこたねえや。レベル低いんだろ、今のガキは?」
当然の結果だと言わんばかりに文太が返す。
「拓海の奴、昨日、夜帰って来て何て言ったと思う?峠攻めるのって思ってたより面白い、だと。アイツがそんな事言うのはちょっとした事件なんだよ。アイツはクルマの運転、好きじゃねーからな」
どこかバツが悪そうに文太が
「ホントかよ?信じられねえな。あんだけいい腕持っててかァ?」
文太は、免許のない中学生の頃から拓海に無理矢理配達をさせてきたため、拓海にとっては車の運転はすなわち家業の手伝いになっていて、楽しいイメージが持てないのだろう、という分析を述べる。その点については責任を感じているらしい。祐一は十八歳で運転免許を取った頃のことを思い返す。
「俺達なんか十八で免許取ってからずっと、ただエンジン掛けるだけでもワクワクしたもんだったけどなー」
「そうだろう?そういう感じが拓海には全くなかったわけヨ…。とことん醒めてるンだよな。ドライっていうかサ」
昨夜の公道レースで何か初めて感じるものがあったのではないか、と文太は分析する。
「倅といえば、政志ンとこの倅が一昨日の夜から昨日一日、家出してたらしくてな。政志から電話が掛かってきたよ」
「ンあ、それならウチにも掛かってきたな。ご心配をおかけしました、だとさ。全く、やっと反抗期が来た、ってちょっと嬉しそうでやんの」
政志は仁志が家出している間、方々に電話を掛け、行方を捜索していた。その件で今朝方掛かってきたお礼の電話の話から、車内の話題は仁志のことに切り替わっていく。
「なんか、オンボロのサニーをせっせこせっせこ起こしてるらしいぞ」
「いいことじゃねぇか。手っ取り早く買っちまうより敢えてそういう一筋縄じゃいかない方法を選ぶ感じがサ」
「そんで昨夜、チューニングがやりたいとか言い出したらしいな」
「大方、秋名で拓海が赤城から来たガキとやり合うのを見ちまったんだろう。ダチ公と一緒に原付で行ったらしいじゃねぇか」
「今まで政志への恩返しばっかり考えてた仁志が、やっと自分のやりたいことに正直になったって、政志言ってたな」
「大袈裟なことだ…」
文太はフッと笑う。
「拓海の走りを見ちまった以上、奴は走り出すしかないんだよ。奴もまた、拓海を負かそうと躍起になってかかって来るだろうな」
「何でちょっとうれしそうなんだよ?」
「別に」
祐一は、そこでふと気になっていたことを文太に尋ねる。
「そういやハチロクなかったなー。拓海は?」
「なんか知んねーけど朝早くからウキウキと出掛けてったぜ」
文太は興味がなさそうに呟くと、窓の外に視線を向けるのであった。