量産型のレシプロエンジンと異なり、高回転化を狙ってチューンアップされたエンジンにおいて、クランクシャフトはコンロッドを取り付けるピンの間の全てにカウンターウェイトが配置される。これがフルカウンタークランクと呼ばれるものである。部品重量の増加とひきかえに重心の最適化により回転軸を真っ直ぐにし、カウンターウェイトが振動を打ち消すことで、最大回転数を向上させ、高負荷での運転に耐えるクランクシャフトである。また、鍛造により製造されるため、前後方向に流れる鍛流線と呼ばれる結晶組織が材料自体の靭性をも向上させ、ダイナミックバランスのみならず材質自体の面からも強靭なクランクシャフトになっている。
「持っただけで分かるなら大したものだ。クランクはエンジンの背骨みたいなものだからな」
「このピストンやコンロッドも鍛造…だよな?」
「そうだな。プッシュロッドを見てみろ。アルミの鍛造だ」
政志は言いながら、プッシュロッドを両手で丁寧に持つ。
「内部は中空だ。プッシュロッドの慣性質量がOHVの高回転化にとっては大きな障害になる。しかしこいつは軽いな…」
「どれくらい回せるんだ?純正だと確か六千いくか行かないかだったよな?」
「レース仕様だと一万オーバーまで回って180馬力なんてのがあったが、そこまでやると低回転域がスカスカで街乗りにはツライな」
仁志は傍らに置いてあった集合管と排気管を見やる。
「ところで、このエキゾースト、どう見ても純正ではないけど、なんかゴテゴテさせすぎてないか?」
「雰囲気で分かるのか?」
「何となく」
「シゲが作ったワンオフ品だ」
「シゲってのは誰?」
政志は煙草を取り出すと火を点ける。あ、これ話せば長くなるやつだ、と仁志は思った。
「だいぶ前に、東京の青山通りでやってたストリートゼロヨンに遊びに行って出会った関西人だ。本名は知らなかったが、みんなシゲって呼んでてな」
政志はそこで煙草を吸い込み、フッと吐き出す。
「ソイツはハコスカに自分で曲げて溶接した排気管を取り付けて走ってたんだ。エンジンはベタにL28改。アイツは天才だった」
「速かったんだ?」
「いや、性能だけで言えば取り付けられたL28改が泣く代物だよ。だがシゲのマフラーは皆が愛した。先代も俺も惚れ込んで、そのおかげで東名ワークス系のA12は再現できなかったが、後悔はしていない」
「えぇ、遅かったのか?」
「あぁ。排気干渉はデタラメ、下手すりゃ等長になってないものまであったなんて言われてた」
「流石に等長じゃないタコ足作ったら文句言われないか?」
「そう思うだろ?」
「あぁ。性能を求める客からは好かれる要素がないぜ」
政志は煙草を吸い込み、遠い目をしながらまた吐き出す。
「音だよ、決め手は。シゲは、いい音がするエキゾーストを作ることにかけては天才だった。図面も引かず、感覚で切って曲げて溶接したシゲのマフラーは、周りで聴く者を惹き付けて離さず、乗り手をどこまでも奮い立たせる、そんな音を響かせていた。みんなシゲの作る音が好きだったのさ」
どこか釈然としない顔の仁志に、さらに政志は語る。
「もちろん、お前が想像したような、その辺のカー用品店で売ってる、野太くて大きいだけの騒音が出る砲弾みたいな、あんな紛い物とは全く違う。本物が奏でる、乾いた、甲高くて、それでいてどこか野太さも感じるような、そんな音だ。覚えておけよ。チューニングにはそういう世界もあるんだ」
ふと、政志は時計を見やる。十一時半。
「片付けて風呂入って寝ろ。明日は終業式だろ?」
「片付けはこれで終わりだよ」
「なら、風呂入って寝る前にこのカムの作用角とリフト量を紙に書いてみな。これも上でぶん回すプロフィールになってるはずだ」
政志は上がり
「シゲといえば、もうひとつ覚えておけ。どんなに並外れた天賦の才があっても、どんな血の滲む努力の積み重ねがあっても、世の中にはそれを簡単に錆びつかせ、潰してしまう罠が山ほど潜んでいるんだ。遊ぶ時は遊び方と遊ぶ仲間をよく見て考えるんだぞ」
仁志は、シゲという人物が、悪い仲間とつるんで悪い遊びにのめり込んで身を持ち崩したこと、少なくとも東京ではもうマフラーを作っていないことを察した。
秋名道路では、白いマツダ・サバンナRX-7と黒い日産・スカイラインGT-Rが登っていた。サバンナの運転席で、赤城レッドサンズの主将・高橋涼介がルームミラーを見やると、後方から急接近するヘッドライトが見えた。涼介は、どれほどのものか試してみるか、とアクセルを踏み込んだ。13BTの回転数がふわりと上がり、レッドラインを示す警告音が鳴る。そのままギアを上げ、白い車体をロケットのように加速させる。
「そう来るかよ、そう来なくっちゃなぁ!」
スカイラインGT-Rの運転席では、妙義ナイトキッズの主将・中里毅が吠えていた。かの有名な高橋涼介がどの程度のものか、挑めば応える高橋涼介に対し、闘志を燃やす。
中里毅のドライビングスタイルは、GT-Rの基本に忠実な、過剰なスリップアングルを嫌い、オンザレールで曲がるグリップ走法である。二速のヘアピンに真っ直ぐブレーキを強く踏み込み、ギアを落とすとブレーキングで作った前荷重により路面に強く押し付けられた前輪を一気に切り込み、カーブ序盤で素早く向きを変える。脱出方向を向いたときにはステアリングを戻し終わり、アクセルを大きく踏み込むと、加速体勢を検知したアテーサE-TSシステムが後輪から前輪に駆動を振り直し、路面を強く捉えて黒い車体を一気に真っ直ぐ引っ張り上げる。毅のドライビングは、峠のGT-R使いとしては模範的で、高い完成度を誇っていた。
秋名道路、山頂側終端地点。料金所跡の広場に涼介と毅は車を止めた。互いに名を名乗ると、涼介はその名は知っていると答える。
「だが俺が知っている中里毅は、S13のシルビアに乗っていたはずだが…?」
涼介のひと言に、毅は一瞬表情を硬化させる。確かに、かつて毅は日産・シルビアに乗り、多くの走り屋と同様にドリフトを多用する走り屋であった。妙義山で最速の座を手に入れ、しばらく経ったある日、スカイラインGT-Rに乗る走り屋に完膚なき敗北を喫した。限界を超えるまで鞭を入れ、ついにはクラッシュにより全損となったかつての愛車を見て、シルビアと自分のドリフトの限界を見た苦い記憶は、スカイラインGT-Rに乗り換え、ドリフトを『卒業した』今でさえも、忘れさせてはくれない屈辱として毅の胸にドロリとへばりついている。
そんな毅が心中に抱える澱の存在を知ってか知らずか、涼介は尋ねた。妙義山の番人が何故秋名道路にいるのか、と。毅は、俺もお前もあの
「いい気になっていられるのも今のうちだけだぜ。妙義には中里毅がいるってことを忘れるなよ!」
毅は勢いのまま『秋名のハチロク』撃墜宣言と、レッドサンズへの事実上の宣戦布告をするのであった。
月曜日の朝、眠い目を擦る仁志に、政志が小言を言いながら、朝食の時間が終わった。昨夜、仁志は風呂から上がると、A12に付いていたカムシャフトの作用角とリフト量を計測し、紙に書いていた。思った通りハイカムに交換されており、そのカムプロフィールはとあるショップが製作・販売している日産大森ワークス(現・NISMO)仕様のレプリカにほぼ一致していた。それを見た仁志は、政志の父である先代の工場主が小改造こそしているが元は大森ワークス製であろうと目星をつけた。これならエキゾースト系統も全て大森ワークス製がしっくりくるだろうと、そのまま注文部品のリストアップを始めた結果、気が付けばまだ薄暗い町内に新聞配達のカブの音が響く時間になっていたのである。
「全く、作業以外は徹夜していいと言った覚えはなかったんだがな…」
「面目ない…あ、七味取ってくれない?」
途中までアジシオで食べた目玉焼きを七味唐辛子で味変しながら、仁志は言う。
「お陰で注文書は出来た。これ、お願いします。パーツ届いたら組んでみるよ」
「ったく…。じゃあ山本のとこに電話して頼んでみるわ。アイツは元はメーカーの技術者だから色々詳しいんだ。…タコ足とマフラーも買うのか。丁度いい。先にこれを試してから、シゲのタコ足とマフラーも騙されたと思って試してみたらいい。」
「そうするよ…」
仁志は伸びをしながら欠伸交じりに言う。
「今日が終業式だけで助かったぜ…」
終業式の後、正午過ぎから仁志はガソリンスタンドにいた。今日は藤原拓海・武内樹の渋高コンビが揃っている。池谷と樹が拓海に頼み込んでいるのを、仁志は聞くともなしに聞いている。
「俺がですかぁ?池谷先輩のチームに?」
「頼むよ、是非入ってくれよ」
「絶対入れよな、拓海ぃ!お前とセットで俺も入れて貰えることになってんだからな」
池谷さん、それ筋が通ってると本気で思ってますか、と仁志は内心で呟いた。そして武内さん、あんたそんな
客が来たのでしばらくその場から離れる。よくは聞こえないが、どうやら拓海はチームに入ること自体は
「何言ってんだよ。お前が走り屋でなかったら誰が走り屋だよ?お前ほど速い奴なんて秋名には一人もいないんだぜ」
「そうかなぁ」
拓海が釈然としない顔をしていると、樹が尋ねる。
「なぁ拓海。俺、先輩から聞いたんだけど、お前五年前から秋名湖に豆腐の配達してたってホントか?」
仁志はふと手を止め、話の輪に近寄っていく。拓海が、まぁなと答える。
「知らなかったぞ、そんなの。黙っているなんて水臭い奴だな」
「だって大っぴらに言うことでもないだろうが」
「そうだな。武内さん、こればっかりは人に知られたら警察と児相が動いて色々ややこしいことになるだろ」
児相の奴ら、俺が
「そうだよな、五年前ってことは俺達中学一年だったから…」
「普通は精々無免で単車、だろうな」
「えっ?」
「ンあ?」
店内の有線放送が、よりによってこのタイミングで『15の夜』を流していた。仁志は自己弁護する。
「盗んではないぞ、念のため…」
「そういう問題かなぁ…?」
釈然としない樹の横で、池谷は立花祐一に拓海の運転歴が自身より長いとぼやいた。池谷浩一郎、二十一歳。十八歳で普通自動車免許取得。自動車運転歴三年。十六歳から乗っている自動二輪車を足してやっと五年。そんな池谷が拓海に尋ねる。
「どんな気分だった、中坊が無免で運転するなんて?」
「始めて一ヶ月で運転することの緊張感は抜けますよ。朝早いから誰にも会わないし…」
拓海は答える。カーブへの恐怖はあったが半年で慣れた。高速旋回ではタイヤが滑るが、カーブの恐怖克服からさらに半年で意図的に滑らせ、また滑ったタイヤを止めることが出来るようになった。当然、毎日やっているので滑ることにもすっかり慣れ、滑りながらガードレールにどれだけ接近出来るか試すようになった、と拓海の口から語られる。
「普通やるかァ、そんな危ないこと!?」
樹が驚いて突っ込むも、拓海は調子が良ければ一センチまで寄れる、と返す。池谷と祐一は唖然として顔を見合わせる。
「そういうふうにして楽しいこと無理に見つけないとつまんなくてしょうがないんだ、仕事の手伝いなんて…」
拓海は遠い目をしながら、本当につまらなそうに答えた。それ故に、運転に対して向上心など持ったことはなく、毎朝登校時間まで出来るだけ長く二度寝したくて飛ばして帰っていただけだと述懐する。
その時、側で聞いていた祐一がひとつ尋ねた。
「拓海、ひとつ訊いていいか?豆腐を載せているときはどうやって走るんだ?あまり飛ばすと豆腐が傷むだろ?」
確かに、と仁志は思った。一昨日の夜見た走りは狂気じみたスピードでありながらどこか安定感も感じたが、脆く固定もされていない豆腐がその形を保ったまま耐えられるような走りではなかった。あの調子で登って行けば豆腐同士が水の中で暴れて潰し合い、秋名湖畔のホテルに着く頃には吐瀉物のようになっているだろう、と想像する。
「登りは飛ばせないですよ、あんまり。親父が紙コップに水を入れて缶ホルダーに置くんだ、見易いところに。この水さえ溢さないように走れば、急いでも豆腐は壊れないっていうんですよ」
皆、自身が水の入った紙コップを缶ホルダーに置いたまま運転する様を想像し、その難しさに黙ったまま拓海の話を聞く。祐一は何かに気付いたか、一瞬目つきが変わる。
「やってみるとこれがすげぇ難しいんですよ。初めはノロノロ走ってもバシバシ溢れちゃうし」
ブレーキ、ハンドル、ギア、アクセル、これらの操作が一つでも荒ければ車体は激しく揺動し、水はすぐに溢れてしまう、と拓海は言う。そうだろうな、と祐一が静かに相槌を打つ。拓海が続ける。
「紙コップのなかで水を回せってオヤジはよく言ってました」
曰く、カーブをひとつ抜けるたびに水面が表面張力で盛り上がったまま紙コップの縁に沿ってぐるりと半周するように運転するという。これが出来るまでに三年を要したと拓海は語る。五年目にしてやっと、紙コップの水を溢さずにドリフトができるようになったと拓海が続ける。
「それに比べたら紙コップのない下りのドリフトなんて、楽すぎて眠くなっちゃいますよ」
流石にこれには周りがざわついた。冗談を言っちゃいけないと池谷が言うも、出来ますよ、と拓海は何でもないように返す。
祐一は藤原文太が、拓海を峠の走りやレベルには収まらない、ニュータイプの走り屋に育て上げていることに驚愕していた。その横で池谷が、自分をスプリンタートレノの