走り屋たちの外伝集   作:下戸摺り半

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仁志のデモカーと、池谷の臨死体験

 アルバイトリーダーで秋名スピードスターズの主将・池谷浩一郎から、助手席で秋名道路のダウンヒルを見せてくれと頼まれた藤原拓海は渋っていた。昨日や一昨日の出来事があったとはいえ、まだ運転に対しては退屈なイメージが抜けておらず、また自分の運転の何が楽しいのかもわからなかったためである。

 

 鈴木仁志は、丁度入店した今ではすっかり顔馴染みのダンプトラックに給油するため、その場を離れる。武内樹が拓海にヘッドロックを掛け、先輩の頼みを断るとは何事かと喚いているのが聞こえた。

 

 ガソリンスタンド店長・立花祐一は、拓海の父親である豆腐屋・藤原文太の指導力に舌を巻いていた。豆腐のない秋名道路の下りよりも、水入り紙コップを利用して豆腐の状態を気遣い、繊細な荷重移動をしながら走る登りの方が拓海の運転技能を鍛え上げるのに重要な役割を果たしていたことに気付かされ、感心していた。

 

 仁志は、向こうでギャアギャアと騒ぐ池谷達を見遣る。どうやら拓海が折れ、早速今夜、車を借りようとしているらしい。仁志は顔馴染みのダンプトラック乗りの注文を次々とこなしながら、池谷さんたち、話が付いたなら働いてくれないかなぁ、と思うのであった。どうやら拓海が先頭で加勢に来るらしいと安心した仁志は、サニーが出来上がったら早速紙コップ特訓やってみよう、と決心する。

 

 

 月曜日の夕刻、ガソリンスタンドでのアルバイトが終わった鈴木仁志は鈴木政志の整備工場に帰宅し、夕食を済ませてからサニーの車体整備に取り掛かった。エンジンやギアボックスを降ろし、サスペンションなどを取り外されたボディには、所々に継ぎ接ぎのように新しい鋼板が溶接され、錆止めを吹き付けられて黒光りしている。やはり常に湿った日陰の土の上に置かれていたため、フロア周りには補修が必要な錆が見受けられた。奇跡的にメンバーサポートやマウントの周りは被害が少なく、補修をすれば使えるレベルであった。ガレージの隅には何故か車内で固定もされず仮組みだけしてあったロールバーが、車体から取り出す際に解体され、置いてある。ロールバーやロールケージは車体に溶接してしまうと車検に通らなくなるため、これからフロアとロールバーの付け根の当板に穴を開けて高力ボルトとナットで固定する必要があった。その前に塗装だな、と仁志は呟いた。すると、政志が後ろから声を掛ける。

 

「仁志、それなら今日から塗装ブースを使え」

「いいのか、オヤジ?」

「むしろそうして欲しいくらいだ」

「刷毛塗りで敢えてビーター風に仕上げても良かったんだけど…」

「あえてのポンコツ風か。確かにそういうカスタマイズもあるが、ダメだ」

「何で?」

「ポンコツ風カスタムは、あくまでクルマを綺麗に仕上げられる奴が敢えて汚すから成り立つんだ。綺麗に仕上げられないうちから手を出しても、それは単なる正真正銘のポンコツだ」

「そうか、それもそうだ…」

「言ってみればこのサニーは、お前の初めてのデモカーだ。言ってみりゃお前の初めての看板だ。だからちゃんと作らなきゃいけないんだよ」

看板(デモカー)…か」

 

仁志はドンガラになった車体を見つめた。この車体が自分の看板になるのだと思うと、途端にこの小さなクーペが愛おしく思えた。待ってろよ相棒、男前に仕上げてやるからな、と胸の内で語りかける。

 

「地金に足を付けろ。足が付いたらプラサフから吹き付けていけ。防毒マスクとゴーグルは必ず付けろ。どんなに蒸し暑くても、だ」

 

窓と灯火類にマスキングが貼られた。仁志はグラインダーを使い、粗いペーパーで地金に細かい傷を付け始める。この作業は足付けと呼ばれ、表面に細かい傷を付けることで塗料や下地剤が引っ掛かりやすく、安定するために必要な処理である。足付けが終わると、塗装ブースに車体を押し込む。

 

「二、三回に分けて少しずつ吹いていけ。均一にな」

 

言われる通り三回でサフェーサーを吹き終わり、車体はすっかり艶消しの灰色に変化した。

 

「てっぺん回るまでには乾かないな…」

「たまには早寝したらどうだ?」

「そうしようかな…」

 

そう言いながら仁志はマスクとゴーグルを外す。

 

(あち)ぃ…」

「中々大変だろう?」

「夏にやる作業じゃないってか?」

「冬は冬でダメだ。寒いと塗ったものが乾かないからな」

 

マスクとゴーグルを取ると、飛散したサフェーサーがその輪郭に沿って顔を縁取っていた。仁志はガレージの隅の手洗い場で鏡を見てそれに気付く。

 

「うわっ、猿みたいになってる!」

「どうしても気になるなら風呂行く前に灯油で拭け」

 

 仁志は片付けを終え、身体を洗ってから政志と茶を啜る。仁志はふと、ガソリンスタンドで聞いたことを政志に話す。

 

「豆腐屋さんのAE86(ハチロク)って五年前から息子さんが運転してるらしい。オヤジ、知ってたか?」

「先週、文太から聞いたよ。度肝抜かれたよ」

「普通は知り合いにもバレないようにやるだろうからな」

「そうだな。文太も、免許取らせたんで時効だからって話してくれた」

「そんな無茶苦茶な…」

 

仁志は、昼間に拓海が話していたことを思い出し、政志に伝える。

 

「豆腐を持ってく時、缶ホルダーに水入れたコップを置いて、溢さないように運転するっていうのをやってるらしい」

「ほぅ…」

「豆腐は傷まないし、多分、運転の上達にも効果があるんじゃないかな?」

「そうだな。クルマの動きは、走る・止まる・曲がる、の三つだが、これらは明確に分けてやってるわけじゃないからな。止まる動作から止まりながら少しずつ『曲がる』にシフトして、『止まる』がゼロになり、『曲がる』が100%のところから今度は段々『走る』割合が増える、という感じで、三つの状態の間を切れ目なくヌルヌルと変化するイメージだ」

 

言うは易し行うは難し、だけどナ、と政志は苦笑する。

 

「多分、サッカーママとかサンデードライバーとかも含めた世の中の多くのドライバーがやっている、漫然とそれぞれの状態を別々にやる操作のままでは、バシバシ溢れるだろうな」

「オヤジは?やったことあるのか?」

「初耳だナ。だが俺達と同じ世代の男ってヤツはみんなクルマが好きでな。だからいかにスムーズにクルマを動かしてやるかっていうのを常に突き詰めてはいたよ。運転が上手けりゃ女にもモテるしナ(笑)。しかし、流石は文太だ。他のヤツがが思いつかないような練習をよく思い付くな…」

 

政志は一口茶を啜ると、真顔に戻って続ける。

 

「努力は裏切らないって、よく耳にするだろ?アレは嘘だ。文太の紙コップみたいに、目標に対して正しい方向に努力しないと、当然のように裏切られる。覚えておけよ。方向を間違えた努力は徒労だ」

 

とはいえ、少しは徒労に終わる努力もして回り道しないと、人間に深みは出ないがな、という言葉を、政志は言わずに飲み込んだ。

 

 

 その頃、秋名道路では、拓海がとある待避所で白いトヨタ・スプリンタートレノをUターンさせていた。助手席では池谷が白目を剥いている。一旦待避所に車を止めると、拓海は池谷の瞼を手のひらでそっと閉じた。そしてカーブを三つ抜けた先の料金所跡までゆっくりと秋名道路を登る。

 

(ま、これで早く帰って配達まで寝られるし、いいか…)

 

 

 時は一時間ほど前に遡る。ガソリンスタンドでのアルバイトを終えた拓海は、帰宅すると文太に今夜車を使っていいかと尋ねる。どうせ駄目だろうし、池谷先輩には電話で断ればいいやと思っていた拓海はそのまま二階の寝室に戻ろうとする。

 

「あぁん、今夜ァ?…別にいいぜ」

 

階段を上りかけた拓海は思わず踏み外しそうになる。本当にいいのか、商工会の寄合とか、町内会の祭りの打ち合わせとか、オネエチャンのいる店とか、本当に車を使う予定はないのかと拓海は念を押す。まるで予定がなきゃ困るみたいな言い方だなと文太は怪しむが、いいって言っているのだから乗って行けとあえなく許可が降りてしまい、拓海は夕食を済ませると渋々秋名山を登ったのであった。

 

 そして秋名道路の最高地点、秋名道路が有料だった頃の料金所跡で拓海は樹や池谷、健二らスピードスターズ構成員と待ち合わせ、池谷がウキウキしながら拓海の隣の助手席に乗り込む。時間にすると拓海が上から三つ目のカーブを抜けてUターンするわずか三十秒ほど前である。まるでジェットコースターにでも乗り込んだかのように目を輝かせ、全開でやってくれと拓海に注文を出す。

 

(全開はやめとこう。90%くらいでいいや…)

 

スプリンタートレノが動き出す。1,600CCの直列四気筒・トヨタ自動車内製の4A-GEU型エンジンが唸りとともに回転数を上げ、四連スロットルから全力で空気を吸い込む吸気音と、テールパイプから吐き出す排気音が混ざり、心地良い呼吸音を響かせ、加速する。後には、池谷を羨ましがる健二と樹、他スピードスターズ構成員が残される。最初の左カーブに消えるテールランプを見送りながら、ターボじゃ絶対出ない良い音だなどと口々に呟く。

 

 池谷が加速していく前方の景色に心を躍らせていられたのは、最初の左カーブに続く直線だけだった。普段池谷がブレーキを踏むポイントを拓海はアクセルを踏んだまま通過する。

 

「おい、拓海…ブレーキ!ブレーキ!」

 

拓海がブレーキを踏み、ギアを二つ落とす頃には池谷の脳内ではまるで死ぬ間際のように今までの人生の記憶が走馬灯のようにぐるぐると回っていた。紅い光の輪をくぐり抜け、産婆の手の中で外気に()せるように産声を上げた、本来なら覚えていないはずの記憶、百日参り、今は亡き祖父母の笑顔、七五三、入学式…。

 

 そんな人生の走馬灯はわずかコンマ四秒で思い出したくもない中学二年生の頃の奇行の数々に差し掛かる。その瞬間、拓海はブレーキを緩めながらステアリングを左に拳一個分切り込む。荷重の抜けた後輪が金切り声を上げながら遠心力で前輪の軌跡よりも外側にはみ出す。池谷は突然腰の後ろに感じた後輪の浮遊感に両方の睾丸(こうがん)が縮み上がる感覚を覚え、同時に我に返った。拓海は右に回ろうとするステアリングをいなすように、最低限のカウンターステアを当てながらアクセルを床まで踏みつける。小さな白いトヨタ車は内側の縁石を鼻先で掠めるようにして理想的なアウト・イン・アウトで左カーブを抜け、そのリアバンパーは右側のガードレールから六センチメートルのところを通過する。

 

 ところで、昭和58年式のこの車をはじめとする、1970〜1980年代に製造された同年代の日本製自動車には、法令で車速が100km/hを超えるとキンコン、キンコン、と等間隔でベルのような警告音を発する速度警告装置が取り付けられていた。ちなみにこの装置は、輸入車に対する非関税障壁となることや、高速道路催眠現象(ハイウェイ・ヒプノシス)を誘発して却って危険であること、車両性能の向上により100km/h程度での巡航が警告を必要としないほど容易になったこと、設計最高速度140km/hの第二東名(現:新東名)高速道路計画の存在などを理由に昭和61年を以て廃止されることになる。

 

 そんな警報装置が、次の右カーブとの間の僅かな直線区間で鳴っている。池谷には考えられないことだが、拓海の運転ではこの直線区間で車速が100km/hを超えるのである。

 

(げぇぇ…こんなとこでキンコン鳴らすのか…!ちょっと…そんな…もうコーナーが…!)

 

100km/hの壁をぶち破ったまま右カーブに突入する二人と一台。池谷はたまらず悲鳴を上げる。さっきから喉が嗄れるのも構わず池谷は叫びっぱなしである。この右カーブでは左側の岩壁が途中で消え、途中からガードレールが生えており、そのガードレールの向こうには奈落の谷底が口を開けている。そして右カーブであるがゆえに、その地獄の光景は池谷の側にあった。右のクリッピングポイントを掠めてアウト側への脱出経路を突っ走るスプリンタートレノの助手席で、よせばいいのにドアウィンドウから外を見てしまった池谷の目にはガードレールの向こうでぽっかりと口を開けた無限地獄のような暗黒の谷底が迫ってくるように映った。

 

 拓海が茶目っ気を出したのはそんな時であった。そのまま真っ直ぐ駆動力を掛ければガードレールから十センチメートルは余裕を持たせて曲がりきれるところを、あえて車体を外へ逃がし、ガードレールと軽いバードキスを交わしたのである。衝撃と言うにはあまりにも軽い、接触を感じる僅かな感覚に対し、コツンという接触音がCピラーを伝わってやけに大きく車内に響く。池谷は鞭打ちが治ったばかりの首を右に振った。そうして盗み見た運転席には、まるでゴルフカートを時速10km/hで運転する中年男性の如く、ドアトリムに右の頬杖を突き、左手はだらりとステアリングの下半分に添え、面倒臭そうに運転する拓海がいた。

 

 時を少し戻し、九割くらいでいいか、と走り出した拓海であったが、最初のカーブに差し掛かる頃、別のことを考えていた。

 

(あれ、そういや下まで行ったらまた池谷先輩連れて上まで戻らなきゃ、だよな…。だる…)

 

最初のカーブでこそ両手ハンドルできちんと運転していたが、八割から段々ペースを上げる方針で余力を残していたこともあり、一度そんな事を考え始めると二つ目のカーブに差し掛かる頃には池谷が最後に見たような、ウーファーの塊のように改造した軽ワゴン車を転がす不良青年の如き運転姿勢に落ち着く。

 

 同時に、カーブを通過するたびに助手席の池谷が絶叫する様子が段々と楽しくなってきた拓海は、二つ目のカーブでわざとガードレールをリアバンパーで軽く叩いてみせた。池谷はヒッヒッヒッと、もはや笑っているんだか怯えているんだかよくわからない奇声を発している。この人面白いなぁ、と拓海はその次のカーブにはついに九割のペースで突入した。カーブを抜けた頃、池谷が完全に沈黙していることに気付く。拓海は制限速度の30km/hまで車速を落とし、池谷先輩、と呼び掛けるが、返事はなかった。車内灯を点け、ちらりと横を見ると、池谷が白目を剥いている。あーあ、と特に関心もなさげな顔で呟きながら車内灯を消し、拓海は考える。

 

(このまま下っても、どうせ見てないんじゃな…)

 

そんな時にちょうど反対車線に待避所を見つけ、Uターンさせた拓海は、池谷の目を閉じてやってから、秋名道路を登って行った。

 

 

 鈴木政志の整備工場兼自宅では、ふと仁志が塗装ブースの方を見ながらため息交じりに零した。

 

「乾燥時間は何も出来ないな…。塗るタイミング間違えるとお客さんが来る昼間に塗装ブース占領しかねないし…」

「焦りなさんな。待ち時間に塗装や鈑金について本読んで勉強すればいい」

「一粒でもゴミ付いてたらやり直しってのがナ」

「だから塗装ブースでやるんだよ」

 

プラモデルをやったことがある人なら既にわかるだろう。たったひと粒の埃が引き起こす悲劇が、この世には存在するのである。

 

「塗装ブースがない鈑金屋さんとか、その辺どうしてるんだ?」

「事前に説明するんだ。『極力そういうことはないように気をつけていますが、なにぶんこういう作業環境ですゆえ、どうしてもひとつやふたつは引っ付きます』ってな」

「極力防ぐっていうと、どうすりゃいいのかな?」

「考えてみな」

 

 

 早目に寝床に入ったまま、塗装のホコリ対策を考えていた仁志が眠りに落ち、(うな)され始めるちょうどその頃、秋名道路の山頂付近、料金所跡に拓海のスプリンタートレノがゆっくり戻って来た。待っていた仲間達が、麓まで行ったにしては早いなと口々に呟く。ガードレールの切れ目からチェーン脱着場になっている広場に入り、ふわりと止まった白い車に集まってきた仲間達が覗き込む中、健二と樹が助手席のドアを開け、あっと叫ぶ。

 

「安らかな寝顔だ…」

 

池谷が気を失ったまま、拓海の温情により白目だけは剥かずに助手席で伸びていた。ハッと我に返り、通過したカーブの数を訊く健二に、拓海が醒めたような顔のまま何も言わず、指を三本立てて見せる。

 

 これから先、『秋名のハチロク』が数々の伝説を創っていくことを、まだ誰も知らない。その中に、スピードスターズ構成員のみが知る、新しい一ページが刻まれた瞬間であった。彼らは、どれだけの伝説が生まれるかはまだ知らないが、少なくとも、この夜刻まれた一ページが最も愚にもつかないものであろうことだけは何となく理解できたのであった。この一件は、『池谷・コーナー三つで失神事件』と称され、主に樹によってこれから約三ヶ月の間、散々こすり倒されることになる。

 

 めでたしめでたし。

 

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