秋名道路、山頂側料金所跡で、『秋名のハチロク』から振り落とされた池谷の魂が助手席に置き忘れた本体に舞い戻るちょうどその頃、仁志は
もう何回も、赤鬼、青鬼、黒鬼、緑鬼…色とりどり、角も一本だったり二本だったり、様々な風貌の鬼達が、車に乗ってやって来る。仁志は、ひたすらそれぞれの鬼の肌の色に合わせ、持ち込まれた車を同じ色に全塗装している。しかし、何度気をつけても、いつの間にかクリアコートの表面や、塗色層とクリア層の間などに何故か陰毛が固まっており、引き渡す度に金棒で滅多打ちにされるのである。作業場は焦熱地獄のど真ん中にあり、仁志は血と汗にまみれながらも、それでも何度も対策を考え、果ては地獄の暑さを我慢してタイベックを着込み、手首足首の全てをガムテープで密閉している。にもかかわらず、さっきまで何も付いていなかったとしか思えないところにまでいつの間にか陰毛が塗り固められ、その度に袋叩きにされる。仁志は漏れ出す吐息で、もうやめてくれと言葉を絞り出す。
何度目かの泣き言の直後、牛の頭を持つ鬼に突然襟首を掴まれ、仁志は体ごと放り投げられた。直後に視界が暗転し、粘っこい透明な液体の中に落ち、液面でしこたま腹を打つ。
「…ッ!ブハァッ…!痛え…」
仁志が液面に顔を出した瞬間、その液体は突然硬化し、仁志は頭だけ出したまま身動きが取れなくなった。仁志が混乱していると、見渡す限りの暗闇の向こうから地鳴りのような、低い唸りが聞こえてくる。
「次は何なんだ…?」
仁志が首を無理矢理捻り、音のする方を見ていると、黄色いヘルメットを被った鬼が、巨大な空飛ぶ円盤で仁志が固められている謎の地表スレスレに低空飛行しながら近づいてくるのが見えた。
「ヤバいヤバい…!死ぬってマジで!」
仁志は焦って脱出を試みるが、周りを固める謎の物質はびくともしない。
「来るなーッ!止まれーッ!」
仁志は必死で叫ぶが、黄鬼はヘッドホンをしたまま、操縦席で新聞を読んでおり、前方の仁志には全く気付かない。
「あンの野郎ォォォ!免許返納しやがれェ!」
脇見運転のせいでフラフラと浮かんでいた円盤はついに謎の物質の地表を激しく抉りながら仁志の固められている方向に真っ直ぐ突っ込み、仁志は周りを固める謎の物質もろとも抉り飛ばされ、そこで仁志の意識は刈り取られた。
次の瞬間、仁志はハッと目覚めた。どうやらベッドから逆さまに転げ落ち、まるでジャーマンスープレックスでも食らったような体勢になっているらしいことに気付く。
「夢かよ…」
ある意味では人生で最悪の夢だった。夢にしては珍しく、目覚めてから鮮明に思い出すことができた。寝る直前までずっと塗装の埃対策を考えていたからだろうか、と仁志は起き上がる。薄暗い部屋で目覚まし時計がわずかに見える。起きるにはまだ早いが、二度寝するには遅い気もする、微妙な時間である。
「どうしようかな…」
仁志は夢の記憶を反芻していた。すると、目覚める直前、謎の物質ごと脇見運転の空飛ぶ円盤に吹き飛ばされた瞬間は特に記憶が鮮明なため、何度も反芻する。
次の瞬間、仁志は養父・鈴木政志の宿題、すなわち塗装ブースがない場合の埃対策に対する答えを閃いた。
早朝、下地剤が乾燥したサニーにシートを被せ、塗装ブースから出し、政志と仁志は朝食を摂る。
「厚めに吹いて下地処理なり磨き上げの時に一緒に削り飛ばすってのはどうだ?」
「どうした仁志、薮から棒に?」
仁志が突然言い出すので、政志は何を言い出すのかと不思議に思った。仁志は続ける。
「ほら、昨日の宿題だよ」
「あぁ…」
塗装ブースのない鈑金屋がどうやって塗装中の埃の付着を防ぐかを考えてみるというのが昨日の宿題であった。仁志は、昨日の就寝中、色とりどりの鬼達に夢で魘され、最後には脇見運転の空飛ぶ円盤に轢かれながらその結論に至ったのである。
「どうせ付くものは付くんだし、それもどうせ液面から刺さる深さなんて知れてるんだから、本命の厚さの上に捨てる層を作るんだよ。まぁ垂れるリスクがあるし、歩留まりは悪くなるけどね」
「上出来だな。ひとつの正解だよ」
政志は答えた。
「ひとつの、か…」
「目指すゴールは結局、全体にムラなく、異物の混入なく仕上げることだ。しかしそこまでの道筋は無数にある。その中から作業環境や技量、予算に合わせて一番やり易いルートを選べることが大切なんだよ」
政志は何かいい例えはないかと思案する。テレビでちょうど来月の帰省ラッシュを予想するワイドショーが流れていたので、再び話し出す。
「例えば東京から大阪に行くとする。東京も大阪もひとつしかないが、行き方は無数にあるだろ?鈍行を乗り継いで行ってもいいし、新幹線も飛行機もある。夜行バスだってある。自分で運転してってもいい。体力と時間が有り余っていれば歩いて行くヤツもいるかもしれない」
「時間と財布と体力見て決めろってことだろ?」
「先回りされたな…」
仁志が食い気味に結論を言うので少ししょんぼりする政志である。仁志は訊いてみる。
「俺の作戦はどれになる?」
「客からすれば夜行バスってとこだろうな。お前の場合、自分で自分のをやってるから自家用車だろうけど」
「ちなみに『飛行機』はどんなやり方だ?」
「ウチよりももっと高い塗装ルームを作って、その中で塗るのがそれだろう」
「ちなみにメーカーに無理言ってロボットで塗り直してもらったらどうなる?」
「それは…スペースシャトルみたいなもんだろうな。確かに新車同然に仕上がるだろうが、少なくともただのへこみ修理レベルで宇宙を経由する理由は全くない」
「なるほど…確かにわざわざ持って来られても、メーカーの人が困るだろうね」
政志はここで話題を変える。
「ところで、何色にするつもりだ?」
「黒にしようと思ってるんだ」
「黒か…」
「塗料が安くて、しかも磨けばそれなりに見られるようにはなるって。古いアメ車のコミュニティではジャパニングって言われるらしい」
「そうか。T型フォードではなくサニーをジャパニングするというわけか」
「ある意味では白とか黒とか銀って一番無難な色って言われてるけどね」
「そうだな。好き嫌いが分かれないからリセールが良い。派手過ぎず、色に特別な意味も持たないから結婚式にも葬式にも乗って行ける。無難な色だ」
政志の言葉に、確かに真っ赤なフェラーリをバオーンバオーンと言わせながら葬式に乗り付けたら大
「それゆえに玉数も多いけど、敢えてそこで勝負してみようと思ってな。特に黒は磨き勝負になるから」
黒い車体は白や銀と比べ、汚れや小傷が目立ち易く、また、周りの景色が映り込む程の艶を維持しないと格好がつかない色である。仁志は、そんな条件で一番の仕上がりを目指そうとしていた。
「そうか。頑張ってみな。その看板が来年は履歴書のかわりに使えるはずだ」
政志はここでまた話題を変える。どうしても気になることがあった。
「ところで何故、一晩であの答えを思いついたんだ?」
「それが、昨夜魘されてさ…」
仁志は、昨夜見た鬼の顧客に金棒で伸されながらクルマを塗り、最後は空飛ぶ円盤に轢かれる悪夢について語った。その結果、特に何度も陰毛が付くくだりで政志は笑い転げ、その日の午前中は全く仕事にならなかった。