池谷が白目を剝き、仁志が鬼に
「ナイトキッズの中里?そいつなら知ってるぞ。前、S13に乗ってる頃から速いので有名だった奴さ。今はGT-Rに乗り換えてるらしいけどな。妙義では敵無しらしいぞ」
着席早々、涼介から中里毅について知っているかと問われた史浩は知る限りの情報を語る。広報だけでなく諜報も担当する史浩が語った情報は涼介が把握していた情報と概ね一致していた。啓介が口を開く。
「信用できねぇな、GT-R乗ってる奴の腕なんて。クルマが速いだけじゃねーのか」
史浩は苦笑する。啓介のGT-R嫌いは筋金入りで、特に現行のBCNR33型については豚の餌と称して憚らない。史浩が語るところによると先日、関越道で少し無理めなすり抜けを繰り返していた男女カップルの乗るGT-Rをしっかり煽り倒していたという。豚の餌呼ばわりだけならまだしも、啓介のGT-R嫌いは時折こうした無用なトラブルを招いていた。
「GT-R乗ってるくせに、気合入ってねぇ奴が多過ぎるぜ。秋名にはドリーム50でこれでもかってくらい気合入った走りする奴もいるのに…」
先日の奇行をいじられた啓介がムスッとした顔で呟く。史浩はいじらなきゃよかったかなと苦笑しながら話題を戻す。
「話を戻すけどな、涼介、中里に先を越されるのは
史浩は、中里がレッドサンズよりも先に『秋名のハチロク』を撃墜することがあると、中里率いるナイトキッズの格がレッドサンズよりも上ということになるという、『走り屋地政学』的な懸念を示す。中里毅の狙いもそこにあるのだろうと史浩は考えていた。
「心配する事ぁねぇと思うよ。幽霊パンダに勝てるような奴がナイトキッズなんかにいるわけねぇや」
啓介が即座に否定する。一度
「現行の新しいハイパワーのクルマが何で
啓介も、同感だと言わんばかりに涼介に視線を向ける。黙って聞いていた涼介が静かに口を開く。
「説明は出来るぜ。時にはパワーが出過ぎていても駄目なことがあるってことさ」
ターボチャージャーの力も借りて得られた太いトルクと高いピークパワーが、時には旋回中の車両挙動を乱す諸刃の剣になる、と涼介は語る。その点、AE86型のような非力な小排気量車の方が、躊躇なくアクセルを踏める分、左右に急カーブが連続する低速区間や路面の荒れる条件下においては速い場合があると涼介は続ける。
「打倒GT-Rのために強化したターボパワーが仇になったってことか…」
「確かに秋名の下りだと350馬力を全開に出来る時間なんて、トータルしてもほんの僅かだったよ」
史浩の気付きに啓介も同意する。アクセルを全開にしたと思えばすぐ次のカーブに向けたブレーキングが始まり、そこから
「その辺は後輪だけで駆動力を路面に伝える後輪駆動の宿命だろう」
その一言に、史浩は愕然とした。おい待てよ、と洩らす。
「四輪駆動のGT-Rならどうなる!?」
第二世代スカイラインGT-Rの武器は、トルクスプリット型の四輪駆動システムである、アテーサE-TSシステムにあった。このシステムにより普段は後輪駆動車として走行するが、加速度センサーなどを介して横滑りを検知すると後輪から前輪に駆動力を適正に分配し、トラクションを最適化する。トラクションコントロール(TCS)、アンチロックブレーキシステム(ABS)、前述の加速度センサー、センターデフ等を統括制御し、駆動配分は平常時の前輪ゼロ対後輪100から前輪50対後輪50までを状況に応じて無段階に制御できる。
史浩には涼介ほど難しいことは分からなかったが、『後輪駆動と四輪駆動を変幻自在に切り替える凄いシステム』らしいということは知っていた。それなら啓介のRX-7と同じ350馬力どころか、単純に500馬力程度なら楽にその馬力をフル活用出来るだろう。例の『秋名のハチロク』もGT-Rからは逃げられないように思われた。しかし、このままでは群馬県内の『夜の地政学』に大きく響く、と
「果たしてそうかな?大事なことをひとつ見落としてるぜ」
その一言に、史浩はこっちがいくら心配してもうちのリーダーには『秋名のハチロク』の勝ち筋が見えているらしいと実感し、いつも通り涼介を信じることにした。啓介はGT-Rに乗せられているだけの走り屋には、かの『幽霊パンダ』は倒せないと初めから確信していた。そしてこの頭脳明晰な兄には明確なビジョンが見えているらしいと確信した。
涼介が再び口を開き、話題を変える。
「ところで、見落としている大事なことの話の前に…。渋川のとある工場で恐らく再生中のクルマが一台ある」
啓介と史浩は、いきなり何を言い出すんだという目で涼介を見る。史浩はその情報を涼介に伝えた記憶はあったが、何故それを今話すのか訝しむ。
「知り合いの部品商から松本整備士経由の情報だ。直接続報を伝えてもらうようにしたんだが、旧大森ワークス系のリプロ部品を中心に買い漁っているらしい。それと、無鉛ガソリン仕様のバルブシート…」
啓介と史浩は、急に放り込まれた何の関係もなさそうな情報を、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたまま聞いていた。
「恐らく再生中のクルマは
翌日、健二の日産・180SXに同乗し、アルバイト先へ向かう池谷浩一郎は、昨夜の体験を思い出し、目から鱗が落ちたとはまさにこの事だと興奮しながら運転席の健二に語っていた。健二は呆れながら聞いている。
「本当のドリフトがどういうものなのか、生まれて初めてわかったよ」
「本当か?助手席で気を失ってたのにか?」
茶化す健二に、気を失う前に色々見ていたのだと池谷は返す。大げさかもしれないが人生観が変わったと池谷は興奮冷めやらぬ様子で話し続ける。
「シルビア戻って来たら俺、初心に返ってドリフトの練習始めるつもりさ」
池谷は、この機会にスピードスターズを本格的な走りのチームに変えると意気込んでいた。
「本当に入ってくれるかな、拓海は?」
「俺は何が何でも入ってもらうつもりだけどな」
伊香保温泉の中心地で、アルバイトの休みをもらった渋高コンビこと藤原拓海と武内樹、たまには遊んで来いと送り出された鈴木仁志、店番をすっぽかした西田淳二の四人が散策していた。なんか不思議な感じだと樹が拓海に向かって話し掛ける。
「お前のことを見る目が、前と違ってきたよ」
言いながら石段に腰掛け、先程蒸し上がったばかりの温泉饅頭を紙袋から配る。温泉と竹の
「そうしてる時はいつものお前だけどな。眠そうな顔して饅頭食ってるボケた男だよ」
「マジかよ樹?一昨日のトレノって拓海が運転してたの?」
淳二が意外そうに訊く。
「そうなんだよ。コイツは一旦ハチロクのドライビングシートに収まって夜の峠に飛び出して行けば…」
樹は一口齧った饅頭を飲み込み、言葉を続ける。
「今や秋名の走り屋達の憧れのヒーローだぞ、お前ェ!」
仁志は、そしてお前は俺の第一標的だ、と胸の内で人知れず闘志を燃やしながら、先程樹から貰った饅頭を丸ごと口に放り込む。噛み締めると思っていたより餡が熱かったため、顔を真っ赤にしながら吹き出しそうになるのを堪え、先程の拓海と同じようにハフハフと口の中で息を吹きかける。近くにいた観光客が何故か足早に通り過ぎて行った。仁志の闘志には気付いた様子もなく、拓海は樹の言葉に照れている。
「そうかなぁ?そういうもんかなぁ?照れるなぁ、樹」
「今は違うって言ってるだろうが。ただの饅頭食ってるボケ男だよ」
上げて落とされた拓海はいじけたような仕草を見せる。
「まぁ愛嬌があっていいじゃないの」
淳二が助け舟を出す。そのまま、さっきからハフハフと饅頭を頬張ったまま赤くなっている仁志の方を見て、そして続ける。
「それに比べてお前は。饅頭ハフハフするなら饅頭食ってる人の顔してくれない?血に飢えた野犬にしか見えねぇんだワ」
「うっへぇ…」
仁志はうるせぇ、と言おうとするが饅頭が口を塞いで上手く喋れない。無理矢理飲み込み、胸につかえた分は胸を叩いてどうにかやり過ごす。
「そんなに胸叩くなって。チェストバスターでも出るのかと思うだろ」
「好き勝手言いやがってこの野郎…」
「夏休みの温泉街なのに俺等の周り三メートルだけ誰もいなくなっちゃっただろ」
淳二が仁志の悪人面をひとしきりいじり終えると同時に、拓海が口を開く。
「俺もな、自分でもちょっと不思議な感じだよ」
拓海は先週末の交流戦や、昨夜の池谷の一件を振り返って話し始める。
「ただ俺はいつものように走ってるだけなのに、何でみんなあんなに喜んでくれるのかわかんねぇよ」
拓海は饅頭の最後のひと欠片を口に放り込み、飲み込むと更に続ける。
「俺、今まで人を喜ばすことなんてしたことないからな。俺のすることで誰かが喜んでくれるのは嬉しいんだよな、すげぇ」
「そうかぁ。お前って案外、サービス精神に溢れた奴だったんだな」
「聞いたか、トシ?お前ももう少し世のため人のためにだな…」
「俺は関係ないだろ、シャー」
樹が拓海の新たな一面に気付いたと口にすると、拓海はそうらしい、と返す。拓海は遠くを眺めながら、走ることが楽しくなってきたと実感するのであった。
「なぁ拓海、そのサービス精神を見込んでひとつ頼みがあるんだけどさ。俺がハチロク買ったらドリフトコーチしてくれナ」
「いいけど厳しいぜ、俺のコーチは」
その夜、秋名道路に一台の黒い日産・スカイラインGT-Rが現れた。言うまでもなく妙義ナイトキッズの中里毅で、連日秋名道路のコースを覚えながら、『秋名のハチロク』との遭遇を待ち構えている。しかし悲しいかな、『秋名のハチロク』は豆腐の配達で早朝に現れるため、日付が変わる前の夜中に粘っても会えないのであるが。秋名山にはFR乗りのチームであるスピードスターズ以外にも走り屋がおり、今夜もホンダ・インテグラに二人乗りした走り屋が居合わせていた。後ろから近付いてきた機影が最近よく出没するスカイラインGT-Rであることに気付き、地元の下りだし頑張って抑えてみようと意気込む。スカイラインGT-Rの主・中里は吠えながらアクセルを踏み込む。
「邪魔くせぇ!どけって言ってんだ、この雑魚ォ!」
遭遇から一つ目のカーブで早速中里は前を走るインテグラに外側から仕掛け、難なく抜き去り、激しいアフターファイアを吐き散らしながら一瞬で見えなくなった。インテグラの走り屋達は一瞬で戦意を喪失し、よほど腕前に差がない限り格上の車に勝つことはできないのだとぼやき合う。
シルビアに乗っていた頃から妙義山では最速の一角を成していた中里毅であるが、その頃は他の走り屋達も実力伯仲し、夜が来る度に魂を燃やすような激戦を繰り広げていた。しかしとある夜、GT-Rの圧倒的な戦闘力の前に成す術も無く敗れて絶望的な挫折を味わい、GT-Rに乗り換えてからは吸排気系の軽度なチューニングと制御プログラムの書き換えだけで峠の走り屋には破格の380馬力というハイパワーを手に入れ、シルビア時代に激戦を繰り広げたライバルはもはやライバルではなくなってしまった。ナイトキッズには走りの実力では絶対に勝てなくなったので内部政治と抗争による政権転覆を狙う不穏分子が蔓延り、GT-Rと共に今度こそ妙義山最強の名を手にしたはずの中里は、自身の気持ちが全く燃えなくなったことにどこか虚しさを覚えていた。もう一度、魂を燃やしたいと願い、レッドサンズの高橋兄弟の撃墜を狙う中里の前に土曜の夜、『秋名のハチロク』が現れたのである。高橋兄弟ではなく『秋名のハチロク』こそ自分の闘志を再び燃え上がらせてくれるという直感が、今の中里を突き動かしていた。
翌日、仁志は政志の整備工場を手伝っていた。何故かこの真夏の真っ只中にエアコンの不調や故障で車を持ってくる飛び込み客が増え、親子で手分けをして持ち込まれた車の現状を探っている。殆ど冷媒抜けではあるが、時々本体まで故障したものが入庫するといった具合である。大概、分解するとフィルターがこれでもかとばかりに汚れている。これではたとえ本体を直したとしても慢性的なカビ臭までは直らない。普段から無頓着に使っているからこうなるのだと仁志は呟いた。政志が窘める。
「そう言うな、仁志。仕事がたくさんあってありがたいじゃないか。ズボラなユーザーがいるからこそ、俺達の食い扶持がある。忘れるなよ」
ちなみに、一般的にこの手のサンデードライバー的な客層は工賃が高いとゴネることが少なくないのだが、政志の整備工場では仁志が常に客と目を合わせながら明細書の説明をするのでゴネる客はゼロである。アイコンタクトは明朗な接客の基本であるが、仁志がやるとさながらインテリヤクザの債権回収のようであった。
「三時から閉店まで立花さんとこのガソスタだけど本当にオヤジ一人で大丈夫か?駄目そうなら連絡して休むけど」
「今日はもう昼で閉める。祐一のとこには行け。休まれると逆に俺の顔が潰れる」
「わかったよ。時間までに出来るだけ終わらすよ」
どうやら政志の手際をもってしてもこれ以上はキャパオーバーらしく、今日はこれ以上客が来ないように工場を閉めるようである。仁志は冷媒ガスの充填を続けた。
午後三時、仁志がガソリンスタンドにやって来ると、丁度一台の黒い日産・スカイラインGT-Rが退店するところだった。何故か見覚えがある気がした仁志が少し身を屈めるようにしてウィンドシールド越しに運転席を覗き込と、ドライバーと目が合った。仁志は、土曜日の夜に近くにいた男だと気付くと、途端に興味をなくし、ガソリンスタンド事務所に向かう。
運転席には中里毅がいた。中里もまた、目が合った相手が土曜日の夜、同じギャラリーポイントで荒ぶっていた『鬼』だと気付く。ガソリンスタンド事務所に入って行く仁志を見て呆れたように呟く。
「あの時の鬼が『秋名のハチロク』と連絡が付くガソスタでバイトか…。世も末だな…」
制服に着替え、どうにか表情筋だけは接客用の笑顔をうまく作れるようになったことを確認してから、仁志は持ち場に着く。持ち場では何故か渋高コンビの片割れ・武内樹が顔面蒼白、焦点の合わない目をしたまま立っていた。客足が途絶えているので仁志は声を掛ける。
「武内さん、今は見ての通り暇だし、俺が見とくから離れてもいいぜ。我慢は身体に毒だ」
「トシか…。別に俺トイレなんて行きたくねぇけど」
「そうかい?ならいいや…。藤原さんは?」
「店長に頼まれて会員さんに伝票届けに行ってる…」
「あっそ。…マジで漏らす前に行けよ」
それからしばらくして、得意先に伝票を届けに行った拓海が帰って来て、いつもの仕事に戻った。樹が妙に勿体ぶって拓海に声を掛ける。
「なぁ拓海、お前さぁ、今週の土曜日もし暇だったらさ、秋名山、走りに行く気ある?」
「なんだその質問?」
仁志がたまらず突っ込む。
「『今度の土曜日、秋名行こうぜ』じゃ駄目なのか?」
「いや、まぁ…そういうわけじゃ…ないけど…。そうだ、拓海、どうよ?土曜日、秋名山行く気ある?」
奥歯に物が挟まったような訊き方がどうしても気になった仁志の追求から逃れるように樹は拓海に答えを求める。
「ない」
「何で!?」
拓海は即答する。樹が目に見えて焦り始めるのを仁志は横目で見る。
「悪ィけど特別な用事なきゃわざわざ走りに行ったりしねぇよ、俺」
「だろうな」
拓海が理由を言うと仁志も賛同する。これ以上食い下がったら土曜日は絶対行かなくなるだろうな、と仁志は推察する。樹が焦り始めているのが気になり、仁志は助け舟を出す。
「漏らす前に出すもん出してこいよ、武内さん。さっきからソワソワしてるけど」
「だからトイレじゃねぇよ!」
違うのか、と仁志は首を捻る。あのさぁ、拓海さぁ、と樹が再び拓海に訊く。
「もしもだよ?もしもどこかの走り屋がお前と走りたいって言ってきたらサ…」
滅茶苦茶予防線張るのな、と仁志は胸の内で突っ込む。拓海も怪訝な顔で樹を見ている。樹は仮定の話であるという部分を念入りに強調した上で質問を続けた。
「当然受けて立つよな?」
「えぇ?嫌だよ俺。受けないよそんなの」
「何で?困るよ俺、そんなの」
「何で困るの?」
「いやまぁ、それはこっちの話だけど…」
樹はハハハ、と笑って誤魔化す。仁志は何となく、樹が、恐らくさっき退店したスカイラインGT-Rの走り屋を相手に、何かやらかしたのだろうと察した。俺には関係ない話だ、と急速に興味を失う。
「走り屋ってのはさぁ、クルマで挑戦されたら受けて立たなきゃいけないんだぞ!!」
「そりゃあ、走り屋ならそうかも知れないけどさ、俺別にまだ走り屋になったわけじゃないからなぁ」
「武内さん、ソイツは筋が通らないんじゃないのか?スピードスターズの暴走行為に一方的に巻き込んでおいて、今日からお前も走り屋だ、なんて虫が良すぎるぜ」
樹が話を変えるように走り屋の掟を拓海に説く。興味を失いかけていた仁志は、その筋の通らない理屈につい噛みついてしまった。
「トシには関係ないだろ!?」
「あぁ、ないだろうさ。ただ目の前でそんな筋の通らねえことをこうも声高に叫ばれちゃ不愉快でしょうがねぇ」
仁志の鬼の形相に、渋高コンビは両方とも何も言い返せなくなった。
「藤原さん。あんたはそれでいい。これ以上こんなヤクザな世界に首を突っ込む必要はないぜ」
少し冷静になった仁志は拓海に言うと、分離槽の清掃に向かった。樹だけが秘密という名の爆弾を内心に抱えたままその日は過ぎて行った。
後書きという名のグループA解説
国際自動車連盟(FIA)による車両規定・グループA。かつてグループ1から9まであった規定を簡素化・再編成し、AからC、Nなどの区分をした車両規定のうち、年産5,000台(1993年の緩和後は2,500台)生産された4座席以上の車両を規定内で改造した競技車両である。改造範囲は同じ生産規模の量産車をベースとした規定の中では最も広く、例えばエンジンについてはシリンダーブロック・ヘッドブロックを市販車と同一とし、カム・ピストン・コネクションロッドについては変更が許された。
レースで勝つ近道はライバルよりも速い車を作ることであるが、この規定で明らかな高性能車を作ることは現実的には難しい。しかしながら、改造してレースに耐えうる量産市販車を規定台数生産し、尚且つ不良在庫を抱えずに売り切ること自体が多くのメーカーにとっては困難をきわめることもまた承知されていたため、この規定には予め多くの抜け道が準備されていた。
まず、年産5,000台ないしは2,500台の生産数は同じ車名のファミリーに含まれる全てのモデルが計数の対象となった。更に、年産500台の競技車両向けエボリューションモデルをホモロゲーション登録でき、これを規定台数に含めることができた。80年代、5ドア及び3ドアハッチバックを含めて5,000台を売ったフォード
スカイラインGT-Rは、スカイラインの2リッタークーペや4ドアセダン等も全て含めて年産5,000台を達成した上で、500台のスカイラインGT-Rニスモをエボリューションモデルとし、これを元にしたレースカーとしてJTCに投入された。元々がグループA規定で最強のレースカーとなるためだけに、排気量ごとに規定された最低重量を計算し、高い剛性を誇る重装甲の車体に650馬力もの大出力に耐える頑丈なエンジン、旋回と安定を高度に両立するアテーサE-TSシステムを組み込み開発されたその車は、1990(平成2)年の全てのレースで優勝した。
しかし、数々の史実が示す通り、あまりにも強過ぎる勢力は競技そのものを破壊するか、競技から追放されるかのどちらかの運命を辿る。シエラRS500が『最強だが頑張れば倒せそうな海外勢力』であったからこそ憎まれながらも歓迎され、他車種と共存できていたのに対し、スカイラインGT-Rという、『突然現れた絶対に誰も勝てない国産車』は前年までの覇者シエラRS500をたった一戦で文字通り駆逐してしまったのである。フォードGBはJTCから撤退し、トヨタはスープラを捨て最小排気量クラスのカローラレビン/スプリンタートレノに集中する道を選んだ。GT-Rに勝てるのはGT-Rのみと言われ、前年までシエラを使っていた参戦者は全てGT-Rに乗り換え、最大排気量クラスはスカイラインGT-Rのワンメイクレースと化した。人気は急落し、グループA規定によるツーリングカーレースも1993(平成5)年で消滅することとなった。