走り屋たちの外伝集   作:下戸摺り半

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サニーの復活と拓海のプライド

 中里毅が目撃された日から数日後、国道沿いのガソリンスタンドに白い日産・180SXが排気音を高らかに鳴らして飛び込んで来た。まるでドライバーの心理状況を反映したかのようなその音に、居合わせた池谷浩一郎、藤原拓海、武内樹、鈴木仁志が何事かと振り返る。案の定、運転席から健二が慌てた様子で降りてくる。

 

「池谷、池谷いるか!?」

「健二、血相変えてどうした?」

「お前、ナイトキッズっていう妙義のチームとの交流戦受けたろ!?そういう大事なこと、俺たちにも言ってくれよな!」

「は?」

 

池谷にとっては初耳である。池谷の視界の外では樹がギクッと肩を震わせる。池谷は知らないと言うが、健二はナイトキッズの中里が自らこのガソリンスタンドに来たという話を聞いていた。『秋名のハチロク』と中里GT-Rの下り一本勝負だと県内で噂になっているらしい。池谷は拓海に訊くが、拓海も知らないという。

 

 仁志は冷めた目で一歩引いてこの様子を眺める。何故か樹がいつかのように失禁しそうな顔になっているのを見てまた声を掛けようかと思いかけたその時、樹が皆に向かって土下座し、俺が勝手に受けましたと白状するのであった。

 

 

 話は、中里が現れた日に遡る。仁志が出勤する五分ほど前、ガソリンスタンド店長・立花祐一が池谷を呼んでいた。

 

「池谷!!…池谷どこ行った?」

 

池谷浩一郎がいないと察し、丁度シフトに入っていた渋高コンビこと藤原拓海と武内樹に尋ねる。池谷は電話で頼まれて軽タンクローリーで燃料の配達に出ていた。樹がそれを告げると、祐一はそうかぁ、と頭を掻く。祐一の用事は、スタンドの給油会員に伝票を届けてほしいということであった。じゃあ拓海に頼むわ、と告げ、祐一の車を使うように指示を出す。拓海を見送る祐一に樹が声をかけた。

 

「俺、一応免許持ってんですけど、何でそういう用事は池谷先輩か拓海ばっかりなんですか?」

 

訊かれた祐一は、それはな、と話し始める。理由としては簡単なことで、池谷や拓海の運転であれば信用できるが、樹に愛車を貸すと凹んで返って来そうで心配だからというものであった。樹はそれを聞いて酷くショックを受け、一刻も早くトヨタ・カローラレビンを買うことと、一日でも早く高い運転技能を身につけることを心に誓う。

 

 そんな樹の前に、黒い日産・スカイラインGT-Rが一台入店する。樹はつい見とれる。GT-Rは事務所前で止まり、右側の扉が開き、中から黒髪を四角く固めた兄貴分風の男が現れ、俺はナイトキッズの中里だ、と丁度居合わせた樹に名乗った。

 

「ここのスタンドに来ればスピードスターズのメンバーに連絡が付くって地元の奴に教えてもらって来たんだ」

 

樹は黙ったまま中里の言葉を聞いていた。丁度留守にしています、という言葉は何故か思いつかなかった。

 

「教えてくれ。あの有名なAE86(ハチロク)に会うには、いつ秋名に来れば会える!?」

 

樹は目の前のこの男がなぜそんな話を自分にしたのか一瞬理解できず、きょとんとしている。中里はその様子を見て樹に訊く。

 

「俺の言ってることがわからないのか…。スピードスターズのメンバーじゃないのか?」

 

樹は自分がスピードスターズの構成員と言われたことが嬉しくなる。なんといい響きなんだ、と感動を覚える樹をよそに、中里は来るスタンド間違えたかな、と独りごちた。樹はすっかり気を良くして、ここのスタンドで間違いない、と告げる。

 

「そのハチロクなら、俺とスゲェ仲いいんだよな、実は…」

 

樹の一言に中里はそれは本当かと目を見開く。すっかり気を良くした樹は、自分と拓海がスピードスターズ最速のレビトレコンビだなどと、まだ買ってもいないカローラレビンまで引き合いに出して嘯く。樹の大法螺(おおぼら)に中里は、AE86(ハチロク)の使い手は腕が良いなどと、すっかり信じ込んだ様子で相槌を打つ。樹がすっかり調子に乗り、『秋名のハチロク』は親友だから連絡をつけられるとさらに大法螺を吹くと、中里は本題を切り出した。

 

「必ず伝えてくれ。次の土曜日、夜十時、ナイトキッズの中里が秋名の頂上で待ってるって…。勝負は下り一本だ!」

 

言い終えた中里は愛機に乗り込み、エンジンを掛ける。これは対戦の申し込みだと気付いた樹が呼び止めようと声を掛けるも、直列六気筒の爆音にかき消され、中里はそのまま去って行った。入れ替わるように仁志が出勤した、というのが時系列である。

 

 

 話し終えた樹に仁志が話しかける。

 

「前半ほとんど要らねぇ情報だったな」

「いや、あの…時系列を整理したくて…」

「半分以上、樹のワッパを信用しなかった店長のせいにしようとしてるよな?」

 

そこでたまらず池谷が突っ込む。

 

「ワッパって…言い方よ」

「お得意さんのダンプ乗りがそう言うから移っちまって…」

 

話が横道に逸れて崖下に堕ちていきそうになり、仁志はわざとらしく咳払いをした。

 

「つまり、言われるがままに調子くれてスピードスターズのメンバーになった気でいたら、いつの間にか対戦申し込みの伝言預かっててどうすることもユーキャンノットってわけだ」

「すげぇザックリまとめられた…。でもこんなに大きな騒ぎになるとは思ってなかったから…。ごめんよ拓海…俺が悪かったよぉ」

 

 仁志は頭を抱えた。大量のエアコン修理の合間でサニーのガソリンの配達をここのガソリンスタンドに頼んでいたことを思い出したためである。つまり中里が来たタイミングで池谷が留守になった原因は仁志にあるらしい。

 

「すみません池谷さん…その中里の何某(なにがし)とかいうのが来た時に池谷さんを留守にさせたのは多分俺です…」

「いや、仁志は悪くない。気にするな…」

 

 

 夜、ガソリンスタンドと同じ国道沿いのファミリーレストランで池谷と健二が今後の対応を話し合う。やはり拓海を説得して走らせられれば理想的なのだが、拓海が走り屋を自認していないうえに相手がスカイラインGT-Rである以上、それは極めて困難に思われた。もはや中里との直接対決は避けられそうにもない。走り屋同士の口コミは約十五年後に登場するソーシャルネットよりも急速に拡散していた。

 

「こんだけ噂が広まっちゃうと、やっぱ逃げるわけには行かねぇよ。俺からも拓海に走ってくれるように頼んでみるかな」

 

池谷が言う。だけど、と健二が返す。

 

「GT-Rが相手じゃあ、いくら拓海でもツラいもんがあるよぉ」

 

情報通の健二も知る通り、ナイトキッズの中里毅といえばレッドサンズの高橋兄弟に並ぶ実力者である。拓海をもってしても厳しい対決になることは明らかであり、勝ち目がないように思われた。無理には頼めないな、と池谷が呟いた。

 

 

 鈴木政志の整備工場では、ついに仁志の日産・サニーが完成していた。政志が、赤い縁取りのある回送用ライセンスプレートを二枚、仁志に手渡す。

 

「明日は朝から陸運局に行く。まだ保険が効かないから、くれぐれも安全運転でな」

「ありがとう。オヤジには助けられてばかりだよ」

 

目の前には黒い車体が艶を放ち、仁志と政志の顔が映り込んでいる。

 

「お前が二十歳になるまでは俺の名義にしなきゃいかん。そういう法律だ。俺も明日はついて行く」

 

 回送用ナンバーを付け、仁志は住居部に戻る。テレビを点けると、自動車情報番組にチャンネルが合っていた。メインパーソナリティのファッションモデルと茶髪の自動車評論家、それに明らかにかぶり物とわかる不自然な黒髪の自動車評論家が並んでいる。メインパーソナリティはモデルの秋川レイナと自動車評論家の城島洸一、ゲストは栗原という城島とは真反対なタイプの自動車評論家であった。ちょうど麦茶とグラスを二つ持ってきた政志に仁志が訊く。

 

「オヤジが言ってた栗原さんってもしかしてコレ?」

「相変わらず元気にやってるみたいだな。毛はもうないみたいだが」

「やめてやれよ。そりゃどう見てもヅラっぽいけど」

「ラリーやってた頃からどこか気障な奴だったよ。しかし、文太の横乗りに耐える珍しいコ・ドラだった」

「豆腐屋さんとは組んでないのか?」

「ドライバーが別でいたからな。『大きい』に『旧字体のホトケ(佛)』で大佛(おさらぎ)って奴だったな。俺達はダイブツって呼んでたけど」

「その大佛(おさらぎ)さんはどうなったんだよ?」

「わからん。栗原は見ての通り、評論家として成功したが、ダイブツは今どこで何をしているのか…。元々は三菱のワークスに行く話も出て、テストもしていたんだが、参戦予定のグループBがなくなり、チームも社内の内輪揉めで瓦解。そんな時に子どもが出来たとかで、ラリーから足洗ってそれっきりさ」

「ふぅん、気の毒だな…いや、お子さん出来たのはめでたいんだろうけど」

 

 二人はしばし、テレビを見る。テレビではスカイラインGT-Rの特集をしている。どうやら秋川レイナの愛車がBNR32型のスカイラインGT-Rらしいことが語られていた。それで思い出したのか、仁志がガソリンスタンドでの出来事を話し始める。

 

「オヤジ、GT-Rで思い出したワ。豆腐屋さんちの息子さんに妙義山でBNR32(サンニイ)転がしてブイブイ言わせてる奴が挑戦しに来て、息子さん不在のまま武内さんっていう息子さんの親友が勝手に受けちゃったらしいんだよ」

「そりゃまた、困った友達持ったな、拓海は…」

「本人は全くやる気ないみたいでみんな悩んでたよ。話が広がりすぎて今更キャンセルできないって」

「まぁ本人からすりゃそんなもんに応じる筋合はないもんな」

「そうなんだよ。俺もそう言ったんだけどねぇ」

 

テレビでは現行のBCNR33型と先代のBNR32型とを比較検証し、栗原と城島が激論を交わしている。

 

「しかしどっちも結構重たいんだな」

「そうだな。拓海の挑戦者ってのは下りでやろうとしてるのか?」

「そうらしい。俺なら少なくともBNR32(サンニイ)で下りは走りたくないな。ブレーキが弱過ぎる」

「仮にもチューナー志望だろ?まさかノーマルブレーキを使おうってわけでもないだろう」

「レース用のアルコンブレーキでもシールが溶けてエラい目見たって話だぜ?それにグループAのヤツはデフケースとかギアボックスをマグ合金で作って軽くしてあったのにそんなんだからなぁ」

「匙を投げるか?」

「最低でも現行Vスペックのスミンボ流用だろうな。ホイールも18インチか何かにして。それでもだいぶ厳しいと思う」

 

仁志は傍らにおいてあったレース雑誌を開く。暫くペラペラとページを捲り、あぁここにあった、と手を止める。アドバンカラーのレースカーの技術解説が書いてある。

 

「タイサンがブレーキに直接水を噴射してレースしてたらしい。これを組み込めれば少しは悪あがき出来そうだ。でも水って結構重いし、このシステムだと垂れ流しっぽいからそのうち切らすことになるな」

 

仁志は雑誌を閉じ、テレビラックに戻す。

 

「逆に俺のクルマとして仕上げるなら徹底的にブレーキに風を当てるね。穴だらけのボディにフレキホースが色んなとこからコンニチワした不格好な見た目になるけど」

「それで、拓海の相手はどうだと思う?」

「チラッと見たけどそこまでやってなさそうだったな。パッドとローターだけ変えてりゃ御の字か」

「そうか…。なら勝機はある、か…。そのうち文太がAE86(ハチロク)持ってくるかもな。セッティングはお前がやってみろ」

「いいのか?まぁ、やるけど。あまり器用なことはできないぞ。GT-Rに勝ちながら豆腐も運べる、みたいなのはまだ無理だ」

「文太がテストするさ。言われた通りに弄ればいい」

 

 仁志はサニーの方を見る。そして口を開いた。

 

「ところでオヤジ…仮とはいえナンバー付いたし、乗ってみちゃダメか?」

「建前上、ダメだとしか言えんだろう」

「そうか…」

 

政志は咳払いを一つする。そして口を開いた。

 

「さて、明日は朝から陸運局だ。どうせ八時にならなきゃ開かないし、久々に朝寝するかな」

「…!」

 

仁志は目を見開く。政志は寝室に引っ込もうとしていた。仁志は政志の背中に声をかける。

 

「ありがとな、オヤジ」

「何の礼だ?俺はダメだとしか言えん」

 

 

 早朝、日が昇る前から仁志はこっそり起き出すと、出来上がったばかりのサニーに乗り込む。イグニッションキーを差し込み、カチカチと捻り、電源を入れると燃料ポンプの作動音が背後から微かに聞こえる。右足でアクセルを二回軽く小突くと、燃料が配管いっぱいに行き渡り、空吸いのような音が消える。アクセルを三割ほど踏み込み、バネの反発を右手と右足に感じながらイグニッションを回すと、A12型直列四気筒エンジンが不機嫌そうに目を覚ました。暖気運転をしたまま一旦サニーから降りた仁志は、ガレージの水道で紙コップに水を汲むと、八分目くらいに調整する。初めてだしなぁ、とさらに七分目くらいまで減らし、さらに減らしたい気持ちをグッと堪えてサニーに戻ると、缶ホルダーに置いた。

 

「さて、最初の難関…」

 

仁志はギアをローに入れるため、クラッチとブレーキを踏み込む。右足に伝わる反力が重いことに気付き、あることを思い出す。

 

「出た、漢のカッチカチブレーキ…」

 

現代の自動車のブレーキには、ブレーキに油圧を送り込むマスターシリンダーに、エンジン吸気チャンバーの負圧を利用した倍力装置(マスターバック)が付いているが、B110型系列のサニーには装備されていなかった。倍力装置があることで、現代の自動車のドライバーは軽い力でブレーキを踏むだけで安全に自動車を停車させることができる。力の弱い女性や高齢者でも安全に自動車を停車させることができるメリットがある。

 

 一方で踏力と制動力の関係が正比例にならず、モータースポーツにおいてはブレーキリリースの加減が効かなくなるという理由で外されるか、最初から取り付けられないことも多いほか、年式が特に古い車の中で大衆向けの小型車やスポーティモデルのような車体重量の軽い車にはコストカットや軽量化のため付いていない場合がある。踏力と制動力が正比例になるため、前述の通り止まり際の衝撃緩和のためのブレーキ緩解時やスポーツ走行時の絶妙なブレーキリリースはしやすくなる反面、踏力イコール制動力となるため、強い脚力が求められる。

 

 少し前まで倍力装置付きのAE85型カローラレビンを乗り回していた仁志が戸惑うのも無理はなかった。仁志は停止したまま何度かブレーキをいっぱいまで踏んでみる。

 

「コノヤロ!コノヤロ!…ふぅ…大体わかった」

 

改めて最初の難関、クラッチを繋いでの発進である。少しアクセルを吹かし、半クラッチをつないでいく。どうにか水をこぼさず発進できたことに安心し、仁志は秋名山へと車を走らせた。

 

 

 同じ頃、拓海もまた後部座席を倒して豆腐を積んだスプリンタートレノに乗り込んでいた。父親で店主の藤原文太が紙コップに水を汲み、少しこぼして量を調整する。日によって固まり具合が違う豆腐の出来栄えに合わせて水の量を変え、結果的に拓海の運転技能に幅を持たせることに一役買っていた。紙コップを受け取りながら拓海は文太に訊く。

 

「なぁオヤジ、GT-Rって凄いのか?」

「そりゃまぁ凄いだろう」

「オヤジなら勝てるか?下りでGT-Rに…」

「勝つね。GT-Rだろうがポルシェだろうが目じゃねえよ」

 

タバコを咥えながらニヤリと笑う文太に、拓海は最も気になっていることを訊いた。

 

「俺なら勝てるかな?」

「わかんねぇな。ギリギリ紙一重の勝負だ」

 

なぜそんなことを訊くのかと文太は尋ねる。

 

「やるのか、GT-Rと…?」

 

別に、ただ訊いただけだと拓海は呟き、配達に出掛けた。文太は次の相手がスカイラインGT-Rだと確信し、対策を考える。

 

(次はGT-Rか…。足回りのセッティング弄るかな…。政志のとこの倅にやらせてみるのもアリかもな…)

 

 

 仁志は紙コップの水面を気にしながら秋名道路に入ろうとしていた。脇道からの合流でひとつ前に白と黒のスプリンタートレノのテールが現れる。

 

(配達中らしいな…。ちょっとついて行ってみるか)

 

紙コップの水面を回し、豆腐を冷たく四角いまま秋名湖に届けるその技を盗むため、追跡を開始する。ちなみにここに来るまでに路面の減速帯とマンホールの蓋を踏んだせいで仁志の紙コップは水が六分目まで減っていた。

 

(まあまあ飛ばすじゃねぇか、こちとら慣らし運転で3,000rpmまでしか回せねえってのに…。ン?対向車がいないからって右に寄った…?)

 

答えはすぐにわかった。左車線をキープしたサニーはわずかな路面の窪みを踏み、紙コップからさらに水が跳ねた。

 

(クソっ。また溢れた…。今のを避けたってのか?)

 

五連ヘアピン、減速帯が車体を容赦なく揺らす。二台はゆっくりと進んだ。

 

(そうだよな…ここは流石に飛ばせねぇよな…)

 

五連ヘアピンを抜け、前を走るスプリンタートレノの速度が上がった。よく見ると、後輪が前輪と同じ軌跡を踏んでいる。

 

(奴がドリフトだと言ってたのはこれか…。流石にガッツリ滑るのは無理にしても、これって逆に難しいんじゃないのか…!?)

 

 オンザレール。グリップ走行の先にある、高速ドライビングの理想形である。通常、前輪で舵を切る場合、後輪は前輪より内側を通過する。これを一般的に内輪差という。しかし、一般的にレースで用いられるいわゆるグリップ走行の場合、車両の旋回性能を限界まで引き出すと後輪は本来通るはずの軌跡を外れ、前輪の軌跡に近いか、重なる軌跡を通過する。この状態ではタイヤに対しやや斜め方向に力が加わり、この状態でタイヤは最も高い性能を発揮する。この状態は、普段の運転でゆっくり走っている時は絶対に発生し得ない。車の性能を限界まで使い切る瞬間にのみ現れる現象である。確かに、完全なグリップというよりは極小角度のドリフトともいえる現象である。

 

(すげえな…。俺も昔、オヤジのヤードのボログルマで何度かそういう状態に持ってったことはあるけど、あの状態をちょっとでも超えて完全なスライドに入る瞬間ってクルマがガクッと揺れるんだよな…)

 

オンザレールで水を溢さないためには、車の旋回性能をほぼ百パーセント使い切りながらも、完全なドリフト状態にはならないように運転する必要がある。現在の拓海が一度もコップの水を溢さないということは、全てのカーブでそのようなギリギリの状態を保っているということであった。

 

(まさかそんな技まで覚えるとは…。よっぽど嫌だったんだな、家業の手伝いが…)

 

豆腐の配達を出来るだけ早く済ませて出来るだけ長く二度寝したいという動機が拓海にそのような高度な運転技能を覚えさせたのだとしたらなかなかに皮肉なものだと仁志が舌を巻いていると、前方でスプリンタートレノのハザードランプが点滅し、ブレーキランプが光る。

 

(あ…。もしかして俺、怒られるのか?勝手についてったから…)

 

仁志はギヤを落としながら緩やかに減速する。既にスプリンタートレノがトミカくらいの大きさに見えるほどの距離を空けられていたため、さほど急な減速をせず、余裕を持ってトレノの後ろに停車する。よく見ると、トレノの白い機影の向こうに、黄色いRX-7が見えた。傍らには高橋啓介が立っている。

 

(何であのアカギレ軍団の金髪がいるんだ…?藤原拓海は…降りたな。俺も一応降りとくか)

 

仁志はサニーから降り、前にいる二人に近づいて行くと、ちょうど啓介が口を開く。

 

「この時間に来ればお前に会えるような…そんな確信があったんだ。初めて会ったのがこの時間帯だったからな。まさか、いつぞやの狂犬もいるとは思わなかったが…」

「誰が狂犬だ」

 

噛み付く仁志と対照的に拓海は黙っている。啓介は続ける。

 

「ナイトキッズの中里とやるそうじゃねぇか。そこらじゅうで噂になってるぜ、お前のことは…」

 

拓海はそこまで聞いて答えた。それは、傍らで聞いていた仁志にとっては全くもって想定通りの答えであった。

 

「…言っとくけど、俺はGT-Rとやると言った覚えはない。俺がいない時に申し込まれたらしいけど、やる気はまったくないね」

 

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