基本に忠実なアウト・イン・アウトで単独カーブを抜ける中里毅のスカイラインGT-R。熟練の走り屋らしく、内側のガードレールから十センチメートル程の隙間のみを残し、走り抜ける。しかし真後ろに付いた藤原拓海は、辛うじて一センチメートルあるかないかくらいの隙間しか残さず、四輪ドリフトで毅に喰らいつく。一進一退の激戦は、少しずつ拓海に優勢が傾きつつ、さらに加速していく。
スタート地点の料金所跡広場で、武内樹が鈴木仁志に訊く。
「そういや拓海のハチロクはトシがセッティングしたんだよな?どアンダーにしたって言ってたけど…」
「あぁ、そうだが…」
「トシはこのバトル、どう見てるんだ?」
「GT-Rを出来るだけハイペースで走らせるように後ろから急かしながら…そうさなぁ、五連ヘアピン辺りまで離されずに付いて行ければ拓海は勝てるだろうが…」
「勝てるけど…何だよ…?」
何故か言い淀む仁志に、樹が先を促す。
「下手すりゃ死ぬかもな、GT-Rのドライバー…」
「えぇっ!?何で!?」
「重たいGT-Rを軽くて俊敏なマシンで後ろから突き回して、勝手にペースを上げさせ、ブレーキとタイヤを徹底的に痛めつけて、あわよくばぶっ壊すっていうのが、俺が考え得る対GT-Rの撃墜作戦だからだ」
「マジかよ…。エグいこと考えるよな…」
「拓海の親父さんはそこまでは考えてないだろうがな。GT-Rのドライバーは、くたばりたくなけりゃどっかで白旗揚げればいい」
「何もそこまでしなくても…」
「奴はGT-Rを持ち込むステージを間違えたんだ。谷田部とかゼロヨンなら輝けたものを…」
以前読んだ雑誌の連載企画、茨城県の谷田部町にある自動車研究所で行われる最高速度記録会もまた、スカイラインGT-Rの登場によりその様相が変化していた。GT-R以前、300km/hは夢の世界であり、何度もエンジンブローやクラッシュを経験しながら280km/h台や290km/h台、ギリギリ300km/h超えがチラホラという時代であった。しかし、チューンドGT-Rはその耐久性と安定性の高さからあっさりと300km/h超えを連発。GT-Rによって谷田部の記録会は、静止状態から300km/h到達までの時間を計る企画に形を変えられ、同研究所の閉鎖まで続くのである。それ故にGT-Rは峠の車ではない、と仁志は考えていた。
毅と拓海、それに高橋兄弟は間もなく五連ヘアピンに差し掛かるところまで下っていた。毅は、愛機スカイラインGT-Rに発生した異変に気付いていた。細かいロックアップ対策を全てABSに任せて床まで踏み込み酷使したブレーキ、TCSとアクティブセンターデフを全面的に信頼し床まで踏み込み続けたアクセルと強引にこじり続けたステアリング。当然のように前後のタイヤが激しく消耗し、全体的に踏ん張りが効かないのである。本来そのような運転をするのであれば短期決戦を心掛ける必要があったが、エンジン性能の差による決着を嫌い、スタート地点から最初のカーブまで追いかけてくるトレノを待つ程度には長々と勝負を引き伸ばしてしまっていた。心なしかブレーキペダルも軽くなった気がする、そんな一抹の不安を感じながら、遂に五連ヘアピンの一つ目に突入する。
五連ヘアピンの一つ目、拓海のトレノが遂にGT-Rのテールに完全に追い付いた。しっかり内側の縁石もかすめつつ、外側のガードレールにほとんどバンパーをくっつけるようにGT-Rを追い詰める。五連ヘアピンの各カーブとの間の直線は、トレノがGT-Rに振り切られるほど長くはない。毅は啓介を破った拓海の裏技を思い出す。路肩に排水用の斜めの溝が設けられ、縁石と一体となっている。ここに内輪を通し、路面のバンクより更に角度が付いたこの溝に引っ掛けるようにして、遠心力に逆らいながらRX-7を抜き去った技である。インコースへの侵入を許せば必ずその『イカサマ殺法』をモロに喰らうだろう、と警戒した毅は、二つ目の左ヘアピンカーブに対し念入りにブレーキングした上でイン・イン・インのライン取りでの旋回を狙う。当然、消耗激しいタイヤを酷使しながら一番苦しく不自然な走行軌跡での旋回をどうにか成立させるため、普段より念入りなブレーキングと低速での進入になる。次の瞬間、アウトコースからハロゲン灯の黄色い光をいっぱいに浴びた毅は、横を見る。アウトコース側からトレノが追い抜きに来ていた。トレノの後輪は路肩の更に外を砂埃を上げながら通過し、数人の見物人が慌てて背後の崖を這い上がる。
「なめんじゃねーぞ、この餓鬼ァ!外から行かすかよォ!」
中里毅の強さと隣り合わせの弱点が露呈する。闘志を燃やして走るタイプの走り屋であるが故に、テンションが上がれば上がるだけアクセルの踏み代が増え、速さを増す代わりに、そのテンションがある一点を超えて上がると逆上してしまい、冷静さを失うというのが、走り屋・中里毅の弱点であり、人間・中里毅がナイトキッズ中里派から愛される理由でもあった。しかし、この局面では拓海の仕掛けによりその性格が良くない形で影響していた。続く三つ目の右ヘアピンで今度は助手席側ドアウィンドウから煌々と照らされる。そもそも『溝落とし』を警戒するあまり最も苦しい走行軌跡を辿っているため完全に失速しており、外側から突かれるがままにされていることが、毅の怒りに油を注いでいた。
高橋涼介は、トレノの向こうに見えるGT-Rの動きに一点の曇りが生じたことを見抜き、助手席の弟によく見ておくように伝える。ハチロクが抜きに行くぞ、と告げられた啓介は戸惑う。内側を締められ、外から仕掛け続けているものの、カーブが終われば圧倒的なエンジン性能の差でGT-Rが逃げる。極端に小回りな
拓海は無意識に闘志を燃やしながらも、無免許で走り続けた五年の経験が、
毅は焦っていた。『溝落とし』を警戒するあまり内側をきっちり潰して走ると走りのセオリー、アウト・イン・アウトからは最も遠い窮屈な走行軌跡になる。結果としてあまりにも大幅に失速し、さっきから曲率だけで言えば最も緩い軌跡をドリフトしてきたトレノに成す術もなく煽られ続けていた。さらに悪いことに、この五連ヘアピンは先日の高橋啓介戦の決着ポイントだけあって
毅は気付く。いかにトレノといえど車幅がゼロではない。一台分さえ空けなければ『溝落とし』の心配はない。これでトレノ0.8台分だけ
前を走るGT-Rが拓海の想像通りに動いた。拓海はブレーキを一瞬リリースして車の向きを変えると、再びブレーキを踏みつけながら左ヘアピンカーブ内側の排水溝に車体を飛び込ませた。そのまま左側の溝にタイヤを捩じ込み、更にその向こうの縁石から乗り上げる。
毅はさっきまで右側にいたはずのトレノが消えたと錯覚する。右側から煌々と照らすハロゲン灯がないことで、まさかと思い左側に視線を移すと、トレノに乗る拓海の繰り出したシザーズ機動のような一撃が見事に決まり、完全に横に並ばれたことに気付く。咄嗟に内側への幅寄せを試みるも、タイヤが消耗してこれ以上の小回りが効かないことをすぐに察知し、立ち上がり加速での勝負に切り替える。トレノをGT-Rの車体によって内側に貼り付けたまま、現在の旋回軌跡がこれ以上外側にずれないように押さえつける。脱出ラインが見えた。毅はアクセルを踏み込む。
サバンナRX-7の助手席で拓海のラインクロスに驚愕していた啓介の目に、次の瞬間飛び込んで来たのは、制御を失い、右側リアフェンダーをガードレールにしこたま打ち付け、反動で右向きに回るGT-Rの土手っ腹であった。これはヤバいと直感した啓介は身構えるが、涼介は冷静に周囲を素早く把握し、左側のなだらかな路肩に乗り上げながら激突を回避した。
五連ヘアピンの上から四つ目。下りの左カーブ。ここまで中盤の急勾配・急カーブが連続する区間を、アテーサE-TSによって総括制御されたABS・TCS・ビスカスカップリングに任せ、時には初期型アテーサの介入遅れによる一瞬のテールスライドすら利用し、重い車体を右に左に踊らせ続けた結果、前後ともタイヤを痛めつけ過ぎていた中里毅のスカイラインGT-Rは、遂に介入遅れをいなすことができなくなり、左方向へのハーフスピンから右側をガードレールにぶつけ、反動で右に回り、まっすぐ登り方向を向いたまま止まる。
毅は真後ろにいた高橋兄弟のRX-7が回避して過ぎ去るのを待つと、大きく息を吐き、負けたことを実感する。負けたのは己であり、GT-Rではない、と胸の内で呟く。毅は悔しさの中に一抹の清々しさを感じていた。そのままドアを開け、外に出ると、シャツがじっとりと重く感じるほどの汗をかいていたことに気付く。腕を磨いて再戦しようと決意し、煙草を一本取り出して咥え、ライターで火を点ける。両手がまだ震えていた。少し塩辛いような苦味が、ひと息吸い込んだ煙によってもたらされる。しゃがみ込んで傷を確かめる。目の前では右側のクォーターパネルがガードレールの形に凹み、黒い塗料が抉り取られた地金が見え、周辺にはガードレールの白い色がこびりついている。
「痛えなぁ。また板金七万円コースか…」
負ける時はいつも熱くなりすぎて限界を超えて負けるため、板金塗装含め車体整備の相場にすっかり詳しくなってしまった、哀愁漂う中里毅である。今夜に限っては、いくらでも払ってやるよと思えたのは、久し振りに全力を出し切って負けた清々しさのせいだったのか、それともこれから激化するであろうナイトキッズの内部抗争を想っての現実逃避だったのか。それは本人のみが知るところである。
山頂側、料金所跡広場にも、『秋名のハチロク』勝利の一報が入る。気が進まない様子の拓海を勝ち目のない勝負に送り出した罪悪感を感じていたスピードスターズ陣営にとっては予想外の吉報に、池谷、健二、樹の三人はただ気が抜けたようにその場で顔を見合わせ、笑うしかないのであった。
仁志は、自分の仕事が成功したらしいと実感し、サニーに乗り込む。現在は慣らし運転の管理に使っているトリップメーターを見るが、まだまだ先が長いことだけがわかった。
(何処かで何日か、ぶっ続けで走り通して、早く次の段階に行きたいよな…今日だけは
麓の広場では、高橋兄弟が涼介のサバンナから降り、眼前で繰り広げられた対戦の余韻に浸る。啓介は、AE86型の軽量な車体が、GT-Rを抜いた時のような鋭いラインクロスを実現したことに驚きを隠せない様子である。それを全力でのブレーキング中に行っていたことにも感動しており、高性能なABSが付いているに違いない、と興味深く呟く。それを聞いた涼介がクククッと笑いながら、
仁志は3,000rpmの回転数制限を守りながら、秋名道路を下る。数台の車が、今夜の対決に当てられたか猛スピードで追い抜いていったが、殆どの車は弁えていたのか、それともつまらない事故を恐れてか、仁志と同じ程度のペースで帰途に就いていた。秋名道路を登りきってそのまま山を越える者は基本的におらず、観客の全員が帰り道は秋名道路を下るため、対向車はいなかった。まぁそうだよな、と呟きながら仁志はサニーを走らせる。程なくして、黄ばんだハロゲン灯が登ってくるのが見える。とんだ物好きもいたものだと目を細め、眩しさを抑えてみればそれは高橋涼介の白いサバンナRX-7であった。
(そういやご自慢の黄色い
下手に往復して鉢合わせても困るな、と仁志は思うが、すぐに俺の知ったことかと開き直る。万が一、絡まれたとしても向こうが飽きるまで無視を貫くことにした。
(まぁどうせ、下ったらそのまま前橋に帰るだろ、あの兄弟…)
藤原とうふ店のカーポートに、スプリンタートレノが戻る。キン、キン、と冷えていくエンジンブロックの音が静かに響く中、拓海は先程まで共に走っていた白い機影を眺めていた。五年前からハンドルを握り、共に家業に汗を流した兄弟のようなこの車が、今年の夏からは共に挑戦者と闘う戦友のような存在になりつつある。今までも何回か、同じ操作に対して見せる挙動が変わったことはあった。しかし、全て今回の対戦のように、こうすればいいのだろうと運転操作を通して問いかければ、この車は答えた。今年の夏、この白い兄弟は拓海を車の楽しさに気付かせ始めていた。
文太が煙草を咥え、玄関を開けて現れると、車を見て立っている拓海に気付く。何をしていると声を掛けると、拓海は
「このクルマさ…?」
と言いかける。言いかけてから、何でもない、と言って家に入ると、明日の配達に備えて自室に戻って行った。
(クルマが…欲しい…)
どんな車でも良いわけではない。拓海はまだはっきりと自覚はしていなかったが、本当に欲しい車は五年前から共に家業を手伝い続けた小さなトヨタ車であった。