アルバイト先のガソリンスタンドで皆を驚かせようと一人で一台のトヨタ・カローラレビンを買ってきたという武内樹。しかし、所望していたものにしては破格で手に入れたそれは、SRと呼ばれる、実用車のエンジンを流用した廉価版であった。そのことが発覚し、池谷浩一郎らに笑われた樹は、屈辱の涙を堪えながらガソリンスタンドを飛び出すのであった。
そして鈴木仁志はというと、そのカローラレビンが、かつて短い間自分が下駄代わりに乗り回し、どうせ群馬大学にでも通う金持ち子息が下駄代わりにするのだろうと叩き売った個体であることに気付き、罪悪感から頭を抱えるのであった。
暫くして、赤いローバー・ミニがバタバタとやんちゃそうな音を響かせながらガソリンスタンドに入る。
「いらっしゃいませ」
仁志が近付いていくと助手席側のドアが開き、中から拓海が降りる。呆気にとられる仁志をよそに拓海は助手席を前に倒し、その隙間を通って後部座席から樹が這い出してきた。
「あれ、帰りはヒッチハイクか?」
「いや、そういうわけでもないんだけど…」
「誰、それ?」
仁志が問いかけると、拓海は見ればわかると言うように顎を横にしゃくる。仁志が覗き込むと、見慣れた級友・西田淳二の顔があった。仁志は小さな違和感を覚えながら話し掛ける。
「…何でシャーのクルマで拓海とイツキがヒッチハイクしてんだ?」
「そこの国道走ってたら、信号待ちの時にあの二人見つけたんよ」
「あ、そう。…こんなクルマ持ってたっけ?」
「誰にも言ってなかったからね。免許取るまでに自分で直せってジッチャンに言われて直してたんだ」
「へぇ…」
色々と浮かんだ違和感のうち真っ先に手が当たった二つを投げてみると、答えが返ってきたので仁志はひとまず納得する。まだ何かもっと大きな違和感があるような気がしたが、この時の仁志にはその正体がわからなかった。
「とりあえず、ハイオク二十リッター、千円で入れてくれる?(笑)」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。これから値上がりするんだぞ」
仁志が給油をしている間に、淳二は樹のカローラレビンを見に行く。
「へぇ、確かに綺麗な箱じゃん」
車体の状態の良さに淳二が感心すると、拓海が言う。
「だから言ったんだよ、イツキにも。別にエンジンが…DHMO…だっけ?そんなんじゃなくてもタイヤ付いてて走るならいいじゃんって」
「拓海、それ言うならDOHCな」
「確かに、拓海の言う通りだと思う。どのみち本物の
「シャーって意外と意地悪なこと言うよな…」
AE86は買えなかったという指摘に再び樹が凹みかける。淳二が言葉を続ける。
「いやいや、乗りたいクルマに乗れないなんてのは、誰しもあり得ることさ。今乗れるクルマに今乗れるスタイルで乗るのが一番大事なんだと思うよ、俺は」
給油作業をしている仁志の耳にも、淳二の言葉が少し聞こえ、仁志は苦笑する。売れ残りの中古車をオートマチックだろうがマニュアルだろうが、軽ワゴン車からライトバンまで手当たり次第に乗り潰していた頃を思い出し、確かに淳二の言う通りだと思った。そんな仁志の思考を止めるように、給油ノズルがカチリと音を立てて止まる。仁志は端数を揃えるようにチョビチョビとトリガーを僅かに引き、それからノズルをホルダーに戻す。
「給油終わったぞシャー。二十リッターも入んなかったぜ」
「サンキューな、トシ。ところで拓海とイツキ、早速今日秋名行くらしいぜ」
「あ、そう」
どうやら樹の機嫌は直ったらしい、と仁志は何故か安堵した。
樹の機嫌が直ったことに安堵した仁志は、淳二との会話の中で引っ掛かった『秋名』と『拓海』というキーワードから、淳二のミニを見て感じていた違和感の正体に気付く。そんな仁志の表情を見て、仁志が気付いたらしいことを察した淳二は、祐一に声を掛けて会計を済ませると、そそくさと退店しようとする。仁志は淳二を捕まえると、誰もいない店舗裏に連行した。
「お前…免許取るまでにあのミニ直せとか言われてたらしいな」
「まぁそうだけど…」
「直ってよかったな、アレ」
「おう、サンキュー」
「早速慣らし運転か?」
「…そんなとこ」
仁志はそこで先程までとは別の理由でこめかみを抑えた。スーッと歯の隙間から大きく息を吸い込む。どうにか、これから言おうとしていることが表に聞こえないように声を抑えることには成功した。
「何やってんだ!お前、早生まれだろ!免許はどうしたんだ!?」
「いや、あの…。待ちきれなくて…」
「そういう問題か!?何しれっとうちのスタンドでガス入れてんだ!?無免のヤツに入れたのがバレたらうちも問題喰らうんだぞ!」
「そこは知らぬ存ぜぬを貫いていただいて…」
「無理だろ!
「でも、実際今になるまで気付かなかったわけだし…」
仁志は再び、スーッと歯の隙間から大きく息を吸い込み、鼻からゆっくり吐き出す。
「…俺も人のことはとやかく言えんような生い立ちをしてるから、これ以上言っていいのかどうかはわからん。ただ気付いちまった以上は見逃せん。…今日暇か?」
「あぁ。暇だけど…」
「俺達が上がるまで待っとけ」
「…言われなくても最初から雑談するつもりで来たから」
「それはそれでどうなんだ…」
仁志は話を切り上げ、淳二を促すと表に向かう。途中で拓海を見つけると、声を掛けた。
「拓海、大変申し訳ない。バイト終わったら早く帰りたいところ本当に申し訳ないんだが…バイト終わりに俺のサニーでコイツのミニを追ってきてくれないか?」
「え、何で…?」
訊き返された仁志は声を潜める。
「実はシャーの野郎、早生まれで免許がねえんだ。なのにあの馬鹿、あのミニでここまで来やがった」
「マジかよ、マズいじゃん」
「そうなんだよ。知らねえふりしてもよかったんだが、お互い顔見知りでそうもいかなくなってな。…だから俺がミニを運転してシャーの家まで行くから、俺のサニーで追っかけて来てくれねえかなってさ。もちろん帰りは送るからよ」
「まぁ送ってくれるならいいけど…でもいいのか?トシの大事なクルマだろ?」
「だから拓海に頼むんだ。ドラテクも口の固さも拓海以外じゃどうもな…」
「…わかったよ」
「ありがとな。…お前も礼言えよ、シャー」
仁志は拓海に礼を伝えた後、淳二の方を振り向いて言う。
「おう、サンキュー、拓海」
淳二は拓海に妙に軽妙な様子で礼を言って、白い歯を見せて笑った。
仁志は樹の様子を窺う。軽い気持ちで中古車センター送りにしたAE85を樹が掴まされたという経緯があるため、気まずいやら申し訳ないやらである。どうやら機嫌は直ったらしいが、仁志からも何か声をかけなければならない気がしていた。しかし同時に、どう声をかければいいのか、その最適解を持ち合わせていなかった。そんな仁志の葛藤をよそに、仕事に戻った樹が仁志に頭を下げる。
「お騒がせをいたしました」
「お、おう…。いや、いいんだ、うん…」
仁志は逆に樹から頭を下げられ、一瞬面食らう。しばし沈黙が流れる。沈黙を破ったのは樹の方だった。
「俺、まずはあのレビンで腕磨くよ。ハチロクに乗り換えるのはそれからでも遅くないよな」
「そうか。やはり拓海に追いかけさせて正解だったな…」
「へっ?」
「あぁ、こっちの話だ…。しかし、どんな魔法を使ったんだ、
「あぁ、そのこと?」
樹は話し始めた。
少し時を戻し、勤務先のガソリンスタンドを飛び出した樹に拓海が追い付く。樹は皆を驚かせようと一人で車を探したことを後悔していた。一人で舞い上がって自慢し、店長の立花祐一にエンジンを暴かれ、池谷と健二には笑われた。拓海も内心笑っているのだろうと、樹は拓海を突き放そうとする。
拓海は、樹が羨ましいと言った。樹は信じられないような視線を向け、どういう意味だと問う。拓海の家には本物の
「エンジンが…その…DOCO…?あれ、何だっけ?」
「それを言うならDOHCだろ」
「そうそう、それだ。別にDOHCじゃなくたっていいじゃんか」
エンジンに力がなくても下りなら速度は乗る。運転技能を磨いてから本命の車・本命のエンジンにステップアップすればいい、樹のレビンは樹が好きな時に好きなだけ乗れるマイカーだと拓海はその言葉に熱を込める。池谷や健二、今年知り合った仁志、更には今年の夏に対戦した走り屋も自分の車を持ち、分身のように大切に扱っている。それが拓海には羨ましかったし、自分の車がないのに走り屋は名乗れないような気がしていた。拓海はマイカー貯金を始めると樹に宣言する。樹は今や拓海の心境の変化に嬉しさを感じ、車には人を夢中にさせる何かがある、と再確認していた。
「俺、あのハチゴー好きになれそうな気がしてきたなァ。どうせ俺まだ下手っぴなんだしさ…腕を磨くには丁度いいよ」
時は戻ってガソリンスタンドである。樹から一通りの顛末を聞いた仁志は、あまり余計なことを言って水を差すのも野暮だと判断した。最初は必要に応じて打ち明けようと思っていた事実、つまり樹のカローラレビンが元々自分の下駄兼玩具だったことは墓の下まで持って行こうと決めた。
「そうか、あれを受け入れ、腕を磨く、か。確かにそれがいいかもな」
「だろ〜?4A-Gは上手くなったら後から積み直せばいいもんな〜」
「そう、だな」
そうだよな、それでもやっぱりエンジンは気になるよな、と仁志は改めてうっかりとはいえ、樹にこの車を掴ませたことを反省した。せめてもの罪滅ぼしに仁志は樹に言う。
「そのうち積み替えるエンジンが見つかったら、必要な道具と場所は貸してやるよ。積み替え方も教える」
まぁ場所も道具も俺じゃなくてオヤジのガレージだけど、と胸の内で付け加え、仁志は少しバツの悪そうな顔をするのであった。
2026/6/23修正
まぁ場所は多分俺じゃなくてオヤジのガレージだけど、と胸の内で付け加え、仁志は少しバツの悪そうな顔をするのであった。
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まぁ場所も道具も俺じゃなくてオヤジのガレージだけど、と胸の内で付け加え、仁志は少しバツの悪そうな顔をするのであった。