鈴木政志の整備工場兼住宅で、政志と仁志が夕食を囲む。
「オヤジ、俺もう客の陰口は二度と言わない…」
「どうした、藪から棒に?」
仁志が急に言い出し、政志は怪訝な顔をする。確かに先日、見えないところで顧客を嗤うと仕事にもその態度が影響すると叱ったが、そこまで凹むような叱り方をしたつもりはなかった。
「あのハチゴー買ったの、武内樹だった…。しかも本人ハチロクだと思って買ってて…」
「あぁ、拓海の親友だっていう…。…多分、お前がアレを買う人間を嗤っていなかったとしても、その武内樹があのハチゴーを掴んでいたことに変わりはないだろうな」
「そうなんだけどさ、頭でわかっててもすげえ罪悪感…」
「客を嗤うってのはそういうことだ。見ず知らずの客を嗤ったつもりが身内だったとか、阿漕な商売で客を騙したつもりがそのとばっちりが巡り巡って身内や自分に返ってくるとか、な。その時になって初めて自分の阿漕さを悔いることになるんだ」
「身に染みたよ…」
「早いうちに経験できてよかったな…。しかしその武内樹って奴も、ボンネット開けて中見たりとかしないで買ったのか?」
「そうみたいだな。でもそのことについても何も言えなかったよ。
「だろうな…」
「エンジン載せ替える時とかに道具と場所は貸してやるって、それしか言えなかった」
「元々お前のクルマだって言ったのか?」
「言わないよ。墓まで持ってく」
「それがいい」
夕食が終わり、仁志はいつも通り紙コップに水を汲むと、サニーの缶ホルダーに置いてから秋名道路に向かう。水を回すテクニックは段々形になりつつあった。対向車がいなければ急カーブ前の減速帯や舗装の傷みを対向車線でやり過ごすことも覚えた。
この日、仁志は山頂側の料金所跡地を通過し、秋名湖畔を一周回ってみることにした。普段は料金所跡、地元の走り屋が登りのゴール兼下りのスタート地点とするポイントのすぐ手前で痛恨のミスを犯していた。ミスの程度こそ当初はびしょ濡れの大惨事から始まり、急激なペースでその被害は軽くなり、今では二、三滴のとばっちり程度に収まっていたが、このほんの少しのとばっちりをなくすことが中々出来ず、仁志は困っていた。そこで、この地点を区切りにせず通過してみたらこのとばっちりはなくせるのではないかと踏んだのである。残るカーブは二つ。普段はこの二つのカーブのどちらかで凡ミスをやらかし、車内に水を飛ばしていた。今日のゴールはあの料金所跡地ではない、と仁志は前と紙コップの水面を交互に睨む。最後のカーブを曲がり終え、昔あった料金所の名残である直線を登る。広場前を通過し、拳を突き上げたい気持ちを必死で抑える。幸い、ガッツポーズの衝撃で水を溢すなどという逆ミラクルは起こさずに済んだ。
(さて、秋名湖の周りを何周かして帰ろう)
仁志が延々と秋名湖周遊道路を回っている間に、カローラレビンの助手席に藤原拓海を乗せ、武内樹が上機嫌で山頂側の広場に到着した。元々がスポーツ性皆無の小型実用エンジンであったが、そんなことは今の樹には問題ではなかった。念願叶って自分の車で秋名道路に来たという事実がひたすらに嬉しかった。運転免許の取得から日が浅く、無免許運転の経験もないため、まだ周囲の状況の見定めや車体制御が不慣れで、助手席の拓海は少し不安を感じることはあったが、はしゃぐ樹を目を細めて見守っていた。
仁志は切りもいいし一息つくか、と思い、ちょうど目の前に現れた観光駐車場に車を入れる。一息つくかと気を抜いたせいか、周遊道路から駐車場に入る時の旋回で水が数滴溢れた。仁志は舌打ちをするが、ひとまず駐車枠に車を止める。
(一息つこうと思ったらすぐこれだ…。どこまで行っても終わり際を作れば気が抜けちまう…)
山で遭難したら山小屋が見えるとこまで来てから死ぬタイプだな俺は、と仁志は自嘲する。
そんな仁志であるが、一息つこうと思い立つ少し前から、とある生理現象が発生していた。外を見ればヘッドライトに照らされた白鳥を象った足漕ぎボートの群れが、暗い秋名湖を背にプカプカと揺れている。どうせ誰も見てないし桟橋からそのまま湖に垂れるか、と思ったその時、缶ホルダーの紙コップと目が合った気がした。
中里毅は自身を破った秋名のハチロクに会いたいと願い、この夜も秋名道路に来ていた。その秋名道路で、自身が主将を務める妙義ナイトキッズの下部構成員の三人組と出くわす。地元の高校生二人を威圧し、相手がAE85に乗っているというので一頻り笑い飛ばしたつもりが、あっという間にわけのわからない速さでぶち抜かれたと恐怖に震える三人組を毅はどやしつける。
「またお前らは他所のコースで雑魚狩りしてやがったのか!
毅は三人組が秋名道路から去るのを見届けた後、秋名道路を再び登る。登りながら先程の三人組は親・中里派と記憶していたので今夜は素直に帰るだろうと安心する。ハチロクに負けて以来、妙義山のチーム内外の反・中里派の走り屋は明らかに毅の言うことを聞かなくなっていた。素行不良の走り屋が妙義内外で悪さをすることは以前と変わらず、しかし事態を収拾しようにも以前と比べて反抗的な者が明らかに増えたので毅の苦労は絶えなかった。
そんなことに頭を悩ませながら秋名道路を登っていた毅が対向車のヘッドライトに気付く。薄ぼんやりと黄ばんだ光の具合が、古い車らしいことを予感させる。
(ハチロク…ではないようだな)
擦れ違う瞬間、毅はその対向車に只者ではない予感を感じ取った。サイドブレーキを使って転回し、その車を追う。その車は、減速帯ではそれを避けるような走行ラインを取り、五連ヘアピンのような両車線に減速帯があるポイントでは大幅に減速しながら秋名道路を下るが、そのような路面の凹凸が少ない区間ではそれなりに速度を上げ、無駄のない滑らかな動きで走っていった。
(誰だ…?そして何だ、このクルマは…?)
毅は幼少期の記憶をふと思い出す。まだ毅の愛車が子供用の三輪車だった頃にこんな車を路上でよく見かけた気がした。
(まさか、ハチロク以上の骨董品とは、な…)
毅は思い出す。これは日産のサニーだ、と。見たところ吊し状態のサニークーペの車体であるが、排気音が明らかに純正マフラーの音量ではなく、車体の動きには腕の素性の良さが窺えるその謎の機影を毅は追いかける。
(遅い。遅いが下手で遅いわけではない。意図してゆっくり走っているようだな)
仁志は冷や汗をダラダラと流しながらハンドルを握る。秋名湖畔での思いつきを実行に移したことで、紙コップの中身は今や絶対に溢したくない爆弾と化していた。当然、窓は左右とも全開である。
(多分この前のスカGのお兄さんだな…。先に行くなら行ってくれ。行かねえならせめてヘマしねぇでくれよな…)
衝撃で溢れた瞬間、車も自分も社会死である。仁志は後ろに付いた黒い重戦闘機のブレーキが正しく整備されていることを祈った。
下りのゴール地点となる広場に仁志はサニーを乗り入れる。最後まで冷や汗を流しながら、ここにきて初めて秋名湖畔から一滴も溢すことなく、秋名道路を下りきった。黒いスカイラインGT-Rが、駐車枠を一マス空けて仁志のサニーの右に止まる。降りてきたのはやはり中里毅だと仁志は気付く。毅はサニーに近づきながら仁志に声をかける。
「よぉ、ちょっと訊きたいんだが…ってお前は確か…」
毅は赤城レッドサンズと秋名スピードスターズの交流戦の時のことを思い出す。今では『秋名のハチロク』伝説に付随し、とあるギャラリーポイントで鬼が暴れたせいでスタート時刻が押したという裏話が広がっている。毅はその『鬼』が暴れたのと同じギャラリーポイントにいた。
「あの時の鬼か」
「せめて鬼瓦って言ってくれ。そのものズバリかよ」
「すまん…。俺は妙義ナイトキッズの中里毅っていうんだ。この前、ここで最速のハチロクに負けた」
「だろうな…。ここの下りでそのクルマじゃブレーキとタイヤが持たんだろう。ガードレールにぶつけたって聞いたが」
「…ッ!」
「直ったみたいだな、スカG」
「あぁ、そうだよ。板金七万円コースだ」
「馬鹿野郎、ぶつけて凹んだくらいテメェでトンカチ振って直せ」
「全員が全員、整備環境があると思うなよ!…ところでずいぶんゆっくり走っていたようだが?」
「慣らし運転中だ。どうせ飛ばせねぇからついでに特訓してた」
「何だ、それは?」
「例のハチロクの豆腐屋が、豆腐を四角いまま取引先に卸すための対策だ。紙コップに水入れて溢さないように走るんだ」
「変わったことやってるな…。待て、本当に水か、それは?」
毅はサニーの窓から車内を覗き込む距離に近づいてから異変に気付く。水にしては少し黄ばんで見える、完全に社会人が年一回の健康診断で目にするものが何故か缶ホルダーに収まっている。
「あのハチロクの乗り手は、水が溢れるような運転をすれば豆腐が傷付き、取引先からクレームを受けた親父さんに殴られる。俺は真水じゃ精々クルマが濡れるだけだ」
「お前って奴は…」
「そうだよ、あのハチロクと同じくらい溢したくない理由が必要だったんだ。じゃないと最後ら辺でいつも気が抜けて跳ね散らかすからな」
「ニオイとかどうすんだよ!?貴重なクルマが勿体ねえだろうが!」
「見ての通り窓全開だ。それでも駄目ならファブリーズでもするさ。それに、中身を変えたら最後まで気を抜かずに溢さず走りきれたからな」
「マジかよ。だからって普通は缶ホルダーに検尿なんか置かねぇんだよ…」
「あんたも水コップやってみるか?そのうちハチロクにリベンジするんだろ?」
「…考えてみるさ。でもションベンではやらん」
毅は仁志の所業に完全に引いていた。確かに背水の陣という諺にもある通り、最高のパフォーマンスのために己を追い込むことは必要である。しかしまさか、己の身から出た穢れを使い、人間としての己の尊厳を生贄にする者がいるとは思わなかった。
「お前の名は?」
「鈴木仁志だ」
「覚えとくぜ、その名前…」
渋川の狂人の名前として、という余計なひと言を、毅は辛うじて飲み込んだ。コイツは速さのためなら人間をやめることすら厭わない。いや、むしろ喜んで人間をやめるだろう。毅はそう確信するのであった。
お食事中の方、おかわり行ってきていいですよ。