武内樹のカローラレビンが納車された翌日、国道沿いのガソリンスタンドには、普段と変わらぬ男達が朝から集い、働いていた。
「仁志、今朝はサンキューな。ウチまで迎えに来てくれて」
「別に…。お互い様ですから…」
「今日だけはどうしてもスクーター出せなくてな…。ところで…」
池谷浩一郎は声を潜めながら仁志に言う。
「クルマにはクルマ用の芳香剤を使ったほうがいいぞ」
その一言に鈴木仁志はギクッと肩を震わせる。昨晩、絶対に溢したくない理由を作るため、紙コップに自分の小便を注ぎ、これを溢さないように冷や汗をダラダラ流しながら結局、秋名道路を五往復した仁志であるが、たとえ一滴も溢さなくても車内に小便を置いていたというだけで何となく嫌悪感があり、結局便所用の消臭剤を一晩置いて車内の空気を浄化したのだが、やはり自動車用と便所用では効果も用途も香料も違うため、何となく違和感のある仕上がりになっていた。
(どうしよう…トイレの臭いがするデモカーなんて聞いたことねえ)
『検尿コップ』で五往復した後、小便を捨てて近くの神社の
昼前、池谷が原付スクーターで来なかった理由が判明する。池谷が懇意にする整備工場から、復活した日産・シルビアが届いた。
「うっしゃーっ!!復活!!俺のシルビア!!」
池谷がガッツポーズをする。すっかり元通りのハンサムな顔で帰って来てくれたと、目元を潤ませる。
「早速今日から走り込み開始だ!タイヤのグレード落としてドリフトの練習だ!!」
「俺もやりますよ〜!昨日体験した拓海のダウンヒルを忘れないうちに…」
意気込む池谷の横で武内樹が同調する。同調しながらサラリととんでもないことを言い出す。
「何!?」
「乗ったのか、拓海のハチロクに…?」
店長・立花祐一と池谷が聞き捨てならぬとばかりに反応する。
「乗りましたよぉ。ハチロクじゃないけど…」
樹は意味ありげな笑みを浮かべる。
「何だよ、その意味ありげなスケベ笑いは?詳しく聞かせろよ」
「どうしよっかなぁ~」
「仁志!奥から10W-30持って来い!」
「ウェ〜!?わかりましたよ!すぐ話しますから!」
「ごめん仁志!やっぱ要らない!」
勿体ぶる樹に池谷がエンジンオイルを飲ませるぞと脅す。少し離れて客待ちをしつつ窓拭きウエス等を補充していた仁志はこのくだりをよく聞いていなかったので本当にオイルを取りに行きかけ、あっさり降参した樹を見た池谷が止める。一瞬、事務所の出入口からエッソの制服を着た赤鬼が池谷達のいる方を睨んだような気がした。
話は昨夜に遡る。丁度、仁志が秋名湖畔を延々と周回していた頃である。樹は藤原拓海を連れ、買ったばかりのカローラレビンで秋名道路を登り、料金所跡の広場で車を止めるとその機影を眺めていた。そこに、妙義山から来たという、恐らく妙義ナイトキッズの末端構成員と思われる、あまり目つきの良くない三人組の男達が声を掛ける。最初は『秋名のハチロク』は来ないのかと訊いてきた三人組だが、相手が年下と見るや
「オイゴルァ、免許持ってんのか?」
「無免なら勘弁しねぇぞ」
などと凄み始める。更には買ったばかりで殆ど吊るし状態の樹のカローラレビンを見て、車高が落ちていない、扁平率が高過ぎる、等と一頻り貶す。一人がタイヤのサイドウォールを足蹴にした瞬間、拓海の目が据わる。その時に樹が、実はこの車はAE85であることを明かすと、三人組はゲラゲラと笑い飛ばす。AE85用のパーツなんかどこにもない、精々原チャリや観光バスに煽られないように頑張れなどと捨て台詞を吐き、黒いS13型日産・シルビアに二人、同じく黒いSW20型トヨタ・MR2に一人乗り込み、悔し涙を浮かべて俯く樹と、何故か静かに佇む拓海を残して走り去って行く。
その直後、静かに怒りを爆発させた拓海が樹のカローラレビンを運転し、あっという間に二台に追いつき、五連ヘアピンで一気に抜き去ったことで、性能の低い車でも運転技能が高ければここまで速く走れることを三人の不良青年のみならず樹にも示してみせた、というのが樹の語る昨夜の全貌であった。
樹の話を聞いた池谷と祐一は半信半疑である。オープンデフのままドリフトは出来ないだろうと祐一が言うも、樹が拗ねたように事実だと言えばそれが嘘をついているようにも見えず、車台が共通だから出来たのではないかと池谷が仮説を立てれば、元が同じでも豆腐屋のスプリンタートレノは藤原文太が長年掛けて仕上げた全くの別物だと祐一が否定する。祐一が言うには、藤原文太曰く、ハチロクは乗り手を育てる車である、と。つまり、小排気量の吹け上がりは軽いが非力なエンジンにシンプルな後輪駆動のレイアウト、四リンク式車軸懸架のリアサスペンションという構成は小手先の誤魔化しを受け付けず、基礎を確実に身に着け、突き詰めなければ乗りこなせないという。つまり、現在の拓海は前部エンジン・後輪駆動というレイアウトの車に限定すれば非常に高い適応力を発揮するのではないかというのが、祐一の仮説であった。
そういうのいいからお前ら働いてくれ、と仁志は胸の内でぼやく。何故か客足がそこそこ増え、これ以上増えたら拓海と二人で回すにはキツいという絶妙な客足のまま時間が過ぎる。
「ありがとうございましたァ!…こっちオーライ!はいそこストップ!」
「トシ!池谷先輩達呼んだほうがいいか?」
「レギュラー満タン、入ります!…あぁ、呼べ呼べ!これ以上増えたら戦線が崩壊するぞ!」
拓海がヘルプを要請し、池谷と樹のドラテク談義はここで一旦お開きとなった。
仁志は帰宅して政志と夕食を囲む。昼間のガソリンスタンドで聞くとはなしに聞いていた、拓海が樹のカローラレビンで妙義山から来た素行の悪い走り屋を懲らしめた話をすると、流石の政志も驚いていた。
「ほぅ…。文太の奴、拓海をそんなふうに育てていたとは…」
「店長が言うには、FRの車なら何でも乗りこなせるんじゃないか、って」
「あり得るな…」
仁志は、昼間から気になっていたことを政志に聞いてみることにした。
「なぁオヤジ。拓海みたいなタイプのドライバーって、メカニックとして一緒に仕事するとしたらどうなんだ?」
「どうって?」
「メカニックからしたら逆にやりにくいんじゃないかと思って」
仁志の懸念はすなわち、あまりにも上手いドライバーは車の評価者としては平凡以下になることがある、という、特にモータースポーツの現場でしばしば問題になるジレンマであった。ドライバー側の適応力が高すぎるあまり、どんな車でも及第点レベルの走りはできてしまい、セッティングをもっと詰められればライバルの一歩も二歩も先へ行けるはずが、そもそもセッティングをもう一歩詰めるという発想に至らないという、メカニック泣かせの事案である。この現象は主に天才型・感覚派のドライバーに多く見られる。
「タイヤひとつ取っても、空気圧をコンマ2キロ下げたりしていろいろ試せるタイプならいいけど、『何でもいいから黒くて丸いの四本くれ』って言ってそれで速く走っちゃうタイプもいるわけでしょ?」
「極端な話をするとそうだな。俺はお前が無免で乗り出したばかりの頃はてっきりお前がそうなるんじゃないかと思っていたが…」
「うぐっ…。まぁあの頃はその時々であるやつに乗るしかなかったからね」
「だろ?『黒くて丸いのくれ』は完全にお前の言いそうな台詞だ。…お前はどうやってそこから今みたいに色々考えるようになった?」
「結局、車って物理法則を無視しては走れないだろ?」
「そうだな…」
「物理法則の限界に到達したのが割と早かったのと、毎回そこにあるクルマを使ってたら限界自体の高さも限界を超えた時の反応も違ったからかな」
「なるほどね…」
「拓海なんかは例のハチロクしか乗ったことない上に、セッティングなんかは親父さんの方針で変えられたやつを何も言われずに乗るだけだっただろうし」
「何も言わずにセッティングが変えられてたら別のクルマみたいなもんだ」
「でもそのクルマの軸みたいなもんは同じだろ?こないだスカGとやり合った時みたいに極端にトラクションを増やすような変化でもなきゃ気付かない可能性もあるだろうし」
政志はここで、仁志の真意を探りにかかる。
「なぁ仁志。拓海の育成については親の文太が考えてるさ。お前も分かってるだろう?他所の教育方針に口を出すのがお前のガラじゃないのはわかる。…本当は何が知りたい?」
「いや、特に深い意味はないよ。拓海みたいな天才型の奴に今よりも乗りやすいクルマを用意するにはどうすりゃいいのかって思ってさ。クルマに対する要望の出し方を知らないわけだし。でも、そうかといって、下手にセッティングを教えたりしたことで
「…なるほど、そういうことか」
政志は暫し考え込む。仁志は黙って見つめる。ややあって、政志が口を開く。
「それはな…」
仁志は急に間が開いた政志の言葉に固唾を呑む。政志が再び口を開く。
「俺にもわからん」
「何だよそれ!?」
仁志はずっこける。
「まぁ心配はするな。そんな天才は滅多にいない。だからそれこそ、そんな天才のことは実際に現れてから考えればいい」
「あの豆腐屋さん親子はどうなんだよ?」
仁志が訊くと、政志は真面目な顔に戻って言う。
「あの親子は天才じゃない。毎日毎日、秋名山を走り続けた積み重ねがあの速さだ。拓海にしたってそうだろう。他のガキが免許取る五年も前からずっと雨が降ろうが雪が降ろうが毎日、日も昇る前から秋名山走ってたんだ。あの親子は叩き上げの峠職人なんだよ。天才だなんて呼んだら逆に失礼ってなもんだ」
「そう…なのか…」
「お前の整備と同じだ。長いこと工場を手伝ってくれるうちに身に着けた技という点ではな」
政志はそう言うと立ち上がる。
「片付け終わったらまたサニーの慣らしだろ?気を付けて行ってこいよ…それと…」
政志は一拍おき、それからまた続ける。
「お前のデモカーでもあるクルマで
「…!?何でわかったんだ!?」
「そりゃわかるよ」
「水しか溢してないのに…」
仁志は、早急に何か次の策を考えなきゃいけない、と頭を抱えた。
F1で言うならジル・ヴィルヌーヴ、ラリーで言うならコリン・マクレーやアリ・バタネンあたりがセッティングを苦手とするタイプの天才型と言われるようである。
「何でもいいから丸くて黒いの付けといてくれ」はコリン・マクレーのエピソードだそうで。
引退したバタネンの代わりに理論派のカルロス・サインツが加入したことで、停滞していたスバルのマシン開発は一気に進展し、マクレーの戦績にも好影響を与えた。