夜の帳の落ちた鈴木政志の整備工場にて、鈴木仁志はサニーをジャッキから降ろした。その日は朝から政志のハイウェイカードを借り、慣らし運転が終わる挨拶をしに平和島の山本自動車に出掛け、ついでにC1を中心に新環状、大井Uターン、八重洲線といった風に、夕方まで走り回った結果、慣らし運転に設定した距離を走りきり、帰ってすぐにエンジンオイルを交換していたのである。
「全く、挨拶だけして帰るかと思いきや、首都高だけで一日遊ぶとは…」
「それは本当にごめんなさい」
「正直に免じて見逃してやるさ。まぁ『途中で滅茶苦茶渋滞して遅くなった』とでも言い訳された日には、確かめようもないんだけどナ」
「あ、次からそれ言おう」
「この野郎、正直さを褒めたそばから(笑)」
政志が笑いながら仁志を小突く。
「ちょっとこれで秋名行ってみるよ」
仁志は、封印していた高回転域をすぐに試したかった。
「純正の限界ら辺から試せ。…確かメーターは付いてただろ?」
「あぁ、15,000スケールのタコメーターが付いてたよ。…6,000辺りからだろうね、多分」
「うむ、それでいい」
ガレージからサニーを出すと、新品の高粘度オイルをピストンとクランクが滑らかに掻き回す感覚が分かるような気がした。ヘッド周りの機械音も心なしか静かである。やはり新品のオイルはこれがたまらないな、と仁志は頬が緩むのを感じた。秋名道路に差し掛かり、満を持して封印していた3,000rpmから上の領域に回転数を上げる。
(すげぇ吹け上がりだ…)
当時のスポーツグレードに搭載された圧縮比10:1のSU製ツインキャブ仕様は、純正スペックでは有鉛ハイオクガソリンを入れることにより6,400rpmで83馬力を発生した。仁志はそれを踏まえ、6,000rpmで様子を見る。衝突時の安全性と引き換えにしたとしか思えない軽量な車体には、純正の83馬力ですら十分な軽快さを与える。仁志のサニーにはレースでのライバルを研究するためのチューニングが加わっており、恐らくは6,000rpmで100馬力にも迫っているだろうかと思われる、そんな回転数の伸び方をしていた。
ほどなくして、仁志は山頂側広場に到着する。なぜかそこには池谷浩一郎や健二、武内樹、そして藤原拓海がいた。仁志は少し離れたところにサニーを駐める。
「あれ、トシじゃねぇか。偶然だなぁ〜」
「偶然ってほどでもないだろ。渋川近辺で悪さをしようってなりゃ、この時間帯のここぐらいしかないからな」
仁志は真っ先に自分に気付いた樹と挨拶を交わす。続いて池谷が声を掛ける。
「いい音してるじゃねえか。その様子だと、慣らしは終わりか?」
「はい。帰ってすぐ油替えて、そのまま来ましたよ」
「わかるぜ、その気持ち。全開オッケーってなったら居ても立ってもいられないよな」
「ええ。それに鉄は熱いうちに打てとも言いますし」
ところで、と仁志は切り出す。
「今日はどんな集まりで?」
スピードスターズの集まりにしては構成員が全員いるわけでもなく、拓海がいることが気になった。池谷は直接答えず、前置きに仁志に警告する。
「その話をする前に…仁志、ナイトキッズの赤いEG6には気を付けろ」
話は昨日の夜に遡る。秋名道路の山頂側広場は料金所跡のため平坦で道幅に余裕のある直線区間になっており、池谷は修理が終わったばかりのシルビアでスピンターンの練習をしていた。ブレーキを小突き、ステアリングを切ってサイドブレーキを引くという一連の流れに慣れ、初めはぎこちなかった車体の動きは大きく改善し、それなりに鋭く向きが180度変わるようになった。
サイドブレーキでのスピンターンに慣れた池谷は、次のステップとして、秋名道路を下り、カーブの途中で車をスピンさせる練習に移行する。すると後ろから一台の赤いホンダ・シビックが急速に接近すると、ピタリと後ろに付き、煽るような動きをし始める。次の瞬間、池谷の背中に鈍い衝撃が加わり、ドラム缶をバットで叩いたような乾いた音が車内に響いた。
(コイツ、バンパー突きやがった…!遅えからどけってのかァ?)
そこまでされては余計に先は譲れない、と池谷はペースを上げる。目の前にカーブが迫り、池谷のシルビアが旋回態勢に入った瞬間、再びシビックがシルビアのバンパーを、今度はインコース側の角を斜めに押し出すように突き飛ばした。旋回態勢に入る前の車は、ブレーキで荷重が前に移っている。つまり後輪からは荷重が抜けており、その状態の車の後端を横向きに押せば、後輪は押した方向に呆気なく飛ばされる。池谷は咄嗟にカーブと同じ方向にハンドルを切りながらサイドブレーキを引き、その場でくるりと回ることで激突だけは回避した。シルビアがフレーム修正機に逆戻りするのを間一髪回避した安心感の次に湧いてきた怒りを込め、池谷はシビックを睨む。シビックはまるで付いて来いと言わんばかりに微速で下り始める。
それから先は池谷が一方的に子供扱いされ、一瞬で置いていかれる展開となった。素早くアクセルターンで向きを変えた池谷が、本格的に逃げ始めたシビックのスリップストリームについた瞬間、シビックは追突寸前のブレーキテストを繰り出した後、VTECの伸びを生かしてシルビアと互角の加速をしたままカーブに飛び込み、まるで嘲笑うかのようにブレーキランプを点滅させながら、カーブの向こうに消えていったのである。
「赤いEG6、ね…」
仁志はそんなこともあるだろうと言わんばかりに呟く。走り屋などと耳当たりのいい呼び方をしながら、やっていることは道交法違反の危険行為だと思っている仁志にとって、相手を直接潰そうとする人間がいること自体は何も不思議ではなかった。
「あまり驚かないんだな」
「結局反社ですからね、俺達。そりゃ、中にはそういう、まだ捕まってないだけの殺人鬼みたいな奴もいるでしょう」
「反社って…」
「ところで、なんの集まりか、まだ聞けてないんですがね…」
「あぁ、その件な…」
時は再び遡って本日の昼間である。シビックにぶつけられ、危うく事故りかけたと一通りぼやいた池谷が、話は変わるが、と前置きし、拓海に自分のシルビアで秋名道路を下って見てくれと頼んだのである。
「それで、どうでしたか、拓海の走りは?」
登ってくる時にすれ違わなかったのはもう走り終わったからだろうと思った仁志が尋ねる。
「いやいや、今来たばっかりなんだよ、俺らも」
池谷がこれからだと告げる。拓海はあまり気乗りがしない様子である。
「弱ったな…あまり気が進まないけど…」
何やら保険をかけるようなことを延々口にし続けている。
「俺、ハチロク以外乗ったことないから、上手く乗れないと思いますよ」
納車して間もない樹のハチゴーしばいといてよく言うぜ、と仁志は胸の内で横槍を入れた。胸の内で入れたつもりが口から漏れていたらしく、拓海と仁志はお互いに気まずそうな顔を見合わせる。
「ところでハチロクどうしたんだよ?」
「先輩の頼みで来ただけだから、わざわざ乗って来てないぜ、俺…。今日は池谷先輩の横乗り」
「あっそ」
仁志の問いかけに拓海はマイペースに答える。どうやら大した用もなく車を借り出す気はないらしい。池谷が構わず拓海に頼み込む。
「軽く流してくれるだけで凄く勉強になると思うから…一生のお願い」
「先輩がそこまで言うなら…一回だけですよ、あんまり期待しないでくださいね」
仁志は、思い出したようにサニーに戻ると、ボンネットを開ける。先程6,000rpmから上を回してみたところ、回転数は上がりながらもパワーが抜けていく感覚を覚えた他、ガソリンの臭気が強くなった気がしていた。知らず知らずのうちに慣らし運転の3,000rpm縛りに合わせたセッティングをしてしまっていたのだろうと仁志は目星を付け、まずはディストリビューターの点火時期をほんの僅かずつ進角させる。進角調整においては、たった一ミリメートルがエンジンの性格を劇的に変える。仁志は調整した内容を助手席に置いていたノートに書き留めると、エンジンを掛け、拓海達の邪魔にならないように秋名湖方面にサニーを走らせる。
秋名湖畔の周遊道路での数回の試運転と調整の結果、サニーのA12型エンジンは8,000rpmまで違和感なく吹け上がるようになった。しかし、旧大森ワークス製レプリカの排気系が取り付けられたエンジンで8,000rpmまで回転数を上げた結果、沿道の土産物屋の住居部やホテルの客室などの殆どの部屋で明かりが点いてしまったため、仁志はそそくさと退散した。
(忘れてた。このクルマ結構うるさいんだった…。近所迷惑だ…)
秋名道路の始まりにある広場に仁志が戻るのと、池谷のシルビアが戻るのはほぼ同時だった。
「ひーっ」
助手席から池谷が腰砕けになりながら這い出す。
「おぉ、今度は起きてた。成長したな」
健二が茶化す。
「どうだった、池谷?ブレーキングドリフトのヒントを何か掴んだか?」
「全然…まるでわかんねぇ」
健二の問いかけに池谷は呆然としたまま答える。何のために拓海に頼んだのかと健二が呆れると、高等技術を難なく繰り出すから参考にならないんだと池谷が言い訳する。
「レベルが違い過ぎて参考にならないということがよくわかった!大収穫だ!」
池谷がそう締めくくると、健二がずっこけるような仕草で返す。だろうな、と先程からスパークプラグの焼け具合を確認しながらそのやり取りを何となく聞いていた仁志は納得した。仁志自身、先日体験した藤原文太のダウンヒルを再現出来る気がしない。故に池谷の気持ちは何となく理解できた。
そんなことを言っていると、特徴的な甲高く乾いた排気音が山麓側から登ってくるのが聞こえた。振り向くとヘッドライトの白い光が見える。池谷らは振り向く。仁志は四番のスパークプラグを締め直し、コードを挿し直すとボンネットを閉め、ゆっくりと振り返る。白い光の向こうから姿を現したのは、赤いホンダ・シビックを先頭に数台の車列であった。池谷が怒りをあらわにする。
「昨日の奴だ…間違いない。あの野郎!」
赤いシビックが止まり、ドアが開くと同時に、髪を真ん中で分け、頬の
「おい、お前!お前だろ!昨日後ろから俺のクルマに当てやがったろ!」
「誰、お前?」
まるで飛んできた虫けらを見るように、男は温度のない目で池谷を見る。
「忘れたとは言わせねぇぞ!そこに置いてあるツートンのS13だ!」
「あぁ…アレか」
まるで興味がないといった風に、男はシルビアを一瞥する。
「アレか、じゃねぇんだよ!謝れよ、てめえ!ひとつ間違えれば俺は今頃大怪我だ!」
池谷が噛みつくと、男は逆に池谷を睨み返す。
「謝れだと?冗談だろ?アレはお前が悪いんじゃねぇのか?」
と逆に池谷に凄んだかと思うと、男は一転、嘲笑と開き直りにも似た態度で言い放つ。
「前を走る奴が下手過ぎて予想が出来なかったんだよォ。まさかあんな遅い突っ込みするとは思わなかったもんでな、ブレーキが間に合わなくてついコツンとなァ」
言い放たれた一言に後ろの車列から降りてきていた取り巻きがゲラゲラと下品に嘲笑う。
仁志の目にはその男が、池谷に最大の屈辱を与え、プライドを折るための言い回しを敢えて選んでいるように見えた。
(普通、男同士の喧嘩であぁまでは言わんものなんだが…敢えてそこまで言うってことは筋金入りの武闘派というわけではなさそうだが…どっちかというと少年A寄りの危なさがあるな…)
男性同士、面と向かっての諍いにおいて、言葉で踏み越えてはいけないラインを越えた先にはもはや殺し合いの道しかない。普通は雄の本能でそれがわかっているので、喧嘩慣れした男ほどどこかで自重するものである。それとは対照的に、悪ぶった態度と敢えて危険な物言いをする男の姿を見て、仁志はこの男が実際には喧嘩慣れしていないものと判断していた。
(蛮高にはもっと危ねえのがいっぱいいるからなぁ…。俺は違うけど)
胸の内でしれっと自分を棚に上げる仁志をよそに、男が傲然と口を開く。
「どうしても謝れって言うなら、お前らが俺達のルールでバトルして、ダウンヒルで勝てたら両手を地べたについて謝ってもいいけどなァ。なんならそこにいるハチロクが相手でも構わねぇぜ」
(あ、イツキのハチゴーがハチロクと間違えられてる…。なるほど、結局狙いは拓海ってわけか)
「スピードスターズには下り自慢のハチロクがいるそうじゃねぇか。出せよ、ソイツをよぉ」
その場にいる誰もが、その男の狙いを大体把握出来た。池谷が口を挟む。
「ちょっと待て。お前らのルールってどういうことだ?説明しろよ」
男は待ってましたとばかりに厭らしく口角を上げる。
「大したことじゃねぇさ。ちょっとした小道具を使ってバトルを楽しくするためのルールだ」
小道具という単語を聞いた仁志は昔見た二輪車同士の決闘を思い出していた。金属バットを持ったライダー同士が単車に跨り、秋名道路を下りながら殴り合うという壮絶なもので、結局、その日の勝者が敵車の前輪スポークにバットを投げ込み、引っ掛けて前転させるという形で決着した。
(しかし四輪で小道具ね…少なくとも金属バットではなさそうだな)
仁志の思案をよそに、男の説明は続く。
「右手とステアリングホイールをガムテープで縛るんだ」
簡単なルールだろう、と不敵に笑う男によると、彼の仲間内ではガムテープデスマッチと呼んでいるらしい。仁志はこの男とその取り巻きの人となりを完全に理解した。
(なるほどね、後輪駆動車、特にすげえクルマに乗ってる奴を片っ端からこのやり方でハメて回ってるってわけだ。ハメた相手がくたばろうがカタワになろうが知ったこっちゃねぇってか?…まぁ、馬鹿正直に乗っかるカモの方も大概だけどな…)
いかにも半端な小悪党が考えそうなことである。小悪党ゆえに後先も事の重大さも一切考えていないところが却って危険ともいえる。しかし少なくとも仁志にとっては大した驚きではなかった。
仁志自身はまだ免許がなかった頃に一度、ガムテープデスマッチを挑まれたことがあった。その時は「ルールはそっちが決めたんだからコースはこっちに選ばせろ」と仁志がゴネた末に、渋川伊香保ICから関越道の下り線を逆走して東京まで行くというコースを指定し、スタート寸前で相手が怖気づいて仁志の不戦勝となった。その日以来しばらくの間、廃車寸前のシティやトゥデイを使って、一人でガムテープデスマッチを延々と続ける、自殺志願者時代の仁志であったが、ある日リアエンジンのSS20型・初代スズキ・セルボを潰し、自身も重度の右手首捻挫と肋骨三本の骨折を負い、やはりあれは後輪駆動潰しのルールだったのだと思い知った。
(ツーストのセルボか…今となっては惜しいクルマを潰したな…)
仁志が過去の記憶から現実に意識を戻す頃、ガムテープデスマッチの危険性に気付いた池谷達が騒ぎ出す。樹は愛車のステアリングホイールを右手だけで持ち替えずに回し、降りてから見た前輪が殆ど切れていないことに愕然とし、池谷や健二から少し遅れてその危険性に気付く。赤いシビックの男とその取り巻きはその様子を見て野蛮な笑みを浮かべていた。
「まぁいい…。あのハチロクに伝えろ!この俺、ナイトキッズの庄司慎吾とガムテープデスマッチで勝負しろってな!」
「…一応伝えてみるけど、受けるかどうかは期待しないでくれ」
「受けなきゃ『秋名のハチロク』はビビって逃げたことになるだけだ」
庄司慎吾と名乗ったその男とその取り巻きはそう言うとそれぞれ車に乗り込み、己の威容を誇示するが如く、排気音を高らかに響かせながら秋名道路を降りていった。