ナイトキッズの庄司慎吾らが帰った後、池谷浩一郎は拓海に、あんな危険な挑戦は無視していいと告げる。庄司らがありとあらゆる方法で拓海を表に引きずり出そうと画策するだろうが無視しろ、とスピードスターズの情報通である健二が続けた。
「池谷先輩、健二先輩。俺は受けませんよ。挑戦されたからって受けなきゃいけないなんてこと、ないでしょ」
池谷と健二は、相変わらずの拓海の様子に今回ばかりは安堵した。
鈴木仁志は再びサニーのボンネットを開け、思案する。庄司慎吾のことは既に頭にはなかった。それよりもこれ以上、高回転型のセッティングに振りすぎると、実用性を大きく損なう恐れがあるという点が気懸かりである。走行する
「トシ、意外とマイペースなんだな」
武内樹が声を掛けながら寄って行く。仁志は当然だと背中で返事をする。
「俺は今夜このために来たんだ。あんな小者はどうでもいい。…とはいえ、小者ゆえに何しでかすか分からん部分もあるからな。特にお前はハチロクと見分けがつかんクルマに乗ってるんだ」
仁志は手を止めずに続ける。
「だから夜道には気を付けろよ」
仁志は最後にそう言った。樹はしばらくきょとんとした後、たまらず突っ込んだ。
「意味は分かるけど言い方よ…」
翌日、夕方までのガソリンスタンドのアルバイトを終え、戻った仁志は養父・政志の整備工場で顧客の車の整備を手伝う。
「しかしまぁ、夏になってから凹み傷の補修が増えたな」
「全部若葉マークだ」
「あぁ、道理で…。どれもこれも大したことないと思ったよ…。これくらいなら自分で直せばいいのに」
「言うな、仁志。こうして俺達の食い扶持をくれる有難いお客様じゃないか」
「わかってるさ…。それにしても面白い板金道具があるんだな。ホットボンドで凹んだとこにに棒付けてから引っ張るなんて」
「デントリペアと言うらしい。何故か昔のツテでドイツの工具メーカーから試作品が送られて来てな。現場からのフィードバックが欲しいらしい」
「まぁ、溶接の、ほうが、確実だけど…なっ!…畜生、また剥がれた」
「ボンドが白く濁ってたら駄目だ。ボンドは一回完全に溶けて透明にならないと意味がないんだよ」
「えっ、そうなのか!?…あ〜あ、そりゃスラハンを溶接するのと比べたら再塗装の手間はないだろうけどさ…」
「ヒートガンで車体もよく温めろ。車体は鉄だからグルーガンの熱を吸ってしまうんだ」
約二年の年月を経て、このデントリペアが車体補修の新しいスタンダードになることを、この時の二人、特にグルーガンに苦戦する仁志は知る由もなかった。
凹み補修の残務が終わり、仁志がサニーのボンネットを開けたタイミングで、政志が声を掛けた。
「ところで仁志、そろそろアレを試してみたらどうだ?」
『アレ』とは、仁志によって調達された大森ワークスレプリカの排気系部品が搭載される前、サニーがヤードに放置されていた時から付いていた排気系部品である。政志の昔の知り合いのシゲという関西人が、その天才的閃きの赴くがままに組み上げたという、なかなかに謎の多い代物である。見たところ、この個体は辛うじて等長ではあるものの、話によると数値的な性能は必ずしも期待できないという。そのかわりに乗り手や聴き手を魅了する『良い音』を響かせるという。
「今のワークスレプリカでセッティングに迷ってる真っ最中なんだけど、俺…」
「なら尚更丁度いいじゃないか、完成する前で」
騙されたと思って使ってみろ、と政志が言う。
仁志の小学生時代の学級委員長・白石が現れたのは、丁度仁志が『シゲのワンオフマフラー』をサニーに取り付け終えた頃であった。
「こんばんは、鈴木君…うわぁ、腕真っ黒じゃない」
「久しぶりだな、委員長。…そりゃエンジン積みっぱなしでマニホールド交換すりゃこうなるって」
「カローラはどうしたの?」
「売ったよ」
「そう…。これは?」
「これは日産のサニーだ」
仁志が素っ気なく答えるので質問が途切れ、二人はしばらく沈黙する。仁志はガレージの隅にある手洗い場に行き、ピンク色の粉末をひとつかみ、箱から取って両手から肘の下まで擦る。擦りながら仁志は急に口を開く。
「そうそう。結論出たワ」
「何のこと?」
「やっぱり俺、チューナーになりたいんだなって」
「ちゅーなー?何それ?」
「車の改造屋さん。これは俺の意思だ」
手を洗い終わると、そのままツナギで拭こうとする仁志に、白石は顔をしかめながらもハンカチを差し出す。
「ありがとな」
「タオルくらい持ちなさい」
「へいへい…ところで、まさか用件ってこれだけじゃないよな?」
「…」
無言の白石に仁志はどうしようかと思案する。時刻は夜の九時半。
「気晴らしが必要ってか?」
仁志の問いかけに白石が頷く。
「あっそ。…門限は?」
「十時半…」
「まいったな、これからシェイクダウンに出て朝までコースのつもりだったからなぁ…」
そんなことを言っていると、仁志の腹時計が盛大に鳴る。帰宅後すぐに大量の凹み修理に取り掛かったため、夕食がまだであった。仁志は気まずそうな顔をする。それを見た政志が仁志を呼び出し、仁志は白石にすぐ戻ると断ってから政志の元へ行く。
「仁志、二人でこれで何か食え」
政志は千円札を二枚、仁志に握らせる。
「何だよこれ?普通にウチで食うし、委員長なら多分もういらないと思うぜ」
「いいから。いつもの相談みたいなアレだろ?乗ってやれよ」
「それだったら普通にセブンか何かで弁当でも買って秋名湖行って食いながら話だけ聞くからこんな大金要らんぜ」
「秋名?今からじゃ行って帰って終わりだろ。大体、夏休みの夜中に女連れてそんな色気のないことやらかす奴があるか」
「色気はなくていいんだって。付き合ってるわけじゃなし」
「いいから行ってこいって。早く行かないと店全部閉まるぞ」
「普通に予算の範囲で行くし、委員長だって自分の分は自分で払うだろ」
「馬鹿野郎。女に財布を出させるな。お前が男張るために小遣いやろうってのに…」
「多分そんなに要らんぜ」
「ちょっと良いコーヒーでも奢ってやれ」
これは言い出したら聞かない時のオヤジだ、と仁志は気付く。治安を考えると
結局、仁志と白石は二十四時間営業の外資系ハンバーガーショップに向かった。自動ドア横のベンチに腰掛けた赤毛のピエロのプラスチック像を横目に店内に入る。仁志は頭にビッグと付く名前の三段重ねのハンバーガーにコーラ、細く揚げたジャガイモのセット、それとは別で単品で一番安いハンバーガーを注文する。白石はコーヒーとアップルパイを注文する。
「ありがとう。ご馳走して貰っちゃって…」
「気にするな」
席に着き、白石はアップルパイを小さく齧り、コーヒーに口を付ける。仁志はビッグな方のハンバーガーを箱ごと押し潰し、箱を開けてから一口で三分の一ほど齧り取る。
「凄いわね…」
「腹減ってたんだよ」
仁志があっという間に一番大きいハンバーガーを平らげた頃に、白石が切り出した。
「なつきがね、また藤原君とデートするって言ってた…」
「あ、そう。それで?」
「藤原君は友達も連れて行きたいから誰か紹介してあげてって言ったらしくて…」
「アイツらしいっちゃアイツらしいのかな…」
白石の片思い相手が藤原拓海であることは仁志も既に気付いていたし、白石に訊いて確認もしていた。
「なつきからも相談されて、中学校のクラスメイトだった沙織ちゃんって娘を紹介することになったんだけどね」
「だけど?」
歯切れの良くない白石に仁志が続きを促す。
「私が行くべきだったかなって」
「それは…必ずしもそうとは言えないだろ」
「どうして?」
「その流れで行くと、拓海の相手はそのなつきとか言う奴で決まりなわけだ。委員長は拓海となつきとやらのデートを見せつけられながら拓海のダチ公を代わりのデート相手にすることになるよな?拓海を横から掻っ攫うのは筋が通らないし、大体委員長にそんな度胸はないはずだし」
そう言うと仁志は単品で追加した一番安いハンバーガーを剥き、大きめの一口で齧る。
「それに、委員長はどのみち呼ばれなかったんじゃねぇの?」
「失礼ね。私の魅力がないってこと?」
「違う違う。需要と供給ってやつ。ジャンルが違ったんだと思うぜ」
「ガリ勉タイプが好きじゃないってこと?」
「言い方よ。まぁ確かに優等生タイプが好きって感じじゃなさそうだけど…」
仁志はコーラを一口啜ると続ける。
「だって拓海のダチ公で女に飢えてる奴っていえばアイツだろ?」
「あっ…う〜ん…」
「そんなの委員長にとっても地獄だろ」
二人とも同時に、武内樹の顔を思い浮かべる。
「考えるな、ゲンナリするから」
「そうね…」
「とにかく、委員長には委員長にしかない良さがあるんだ。その、なつきとやらと同じようなアプローチをする必要なんかないだろ?」
仁志はそう言って無理矢理に話を終わらせた。
ハンバーガーショップでの食事を終え、仁志は白石を助手席に乗せ、白石邸にサニーを走らせる。
「良い音ね…」
「珍しいな。女は普通、こういううるさいクルマは嫌いそうなものだけど」
「なんていうか、この音が聞こえてたら鈴木君が山道で飛ばしても怖くなさそう」
(マジかよ。凄えなシゲさん…)
自宅を出た時から既に魂を揺さぶられるような高揚感に包まれて運転していた仁志であったが、まさか恐らく自動車文化に然程興味がないであろう白石の精神にまでこの音が効くとは思いもよらなかった。この排気管を作ったシゲという男に仁志は更に興味を惹かれる。
「…サラダ油の匂いがしてるのがどうも色気ないけどな」
仁志の言うとおり、帰り掛けに買った政志への手土産が、揚げ油と包装紙の匂いの混じった、独特のジャンクな香気を放っている。
そういえば、と白石が言う。
「鈴木君、藤原くんのこと下の名前で呼んでたっけ?」
「あ、言ってなかったか、バ先が一緒だって?」
「それは聞いたけど、名前では呼んでなかったよね?」
「あぁ、そう言えばそうだったな…」
「鈴木君、そんなイメージなかったなって思って…」
「まぁ色々あってさ…。向こうが名前で呼べって言うから…」
藤原拓海が毎朝シバいている車を自宅の整備工場で整備している、という話は上手く説明しようとするとややこしいので端折ったが、特に問題はなかったようである。
「言っとくが、俺は委員長と拓海をつなぐことは出来ないぞ。人と人の関係のつなぎ方なんか俺が知ってるわけないし、多分委員長のためにならないからな」
白石邸に白石を送り届け、仁志は一度整備工場に戻ると、政志に手土産を渡し、そのままサニーを秋名道路へと走らせた。シゲのエキゾーストは明らかに、昨日まで使っていたワークスレプリカのそれと比べ、体感的にも抜けが悪く感じられた。しかしそれ以上に仁志は気付いていた。このエキゾーストはまるで、もっと踏んでみろとドライバーに挑みかかるように吠えるのである。
「なんてこった。このマフラー、まるっきりデタラメじゃねぇか…ッ!」
抜けがあまり良くないのか、キャブレターをいじり、ディストリビューターをいじり、アクセルの踏み方まで変えながら様子を見るが、現在の仕様では7,000rpm以上を回すことは無意味に見えた。
「なのになんて音を出しやがる!?」
仁志は更にアクセルを踏み込む。エンジンが吠え、荒々しく空気を揺らす。決して数値的な性能には優れるわけではないはずのワンオフパーツに、仁志は夢中になっていった。
そういやこの時代のランランルーでお馴染みのハンバーガーって、単品だと70円くらいで売ってたよな…。今じゃ考えられん…。
そしていい匂いするんだよな、あの紙袋…。