未明の秋名道路、日課の豆腐の配達で登ってきた藤原拓海は、鈴木仁志のサニーとすれ違う。そのサニーは昨日までとは違う、一度聴いたら忘れられなくなりそうな音を響かせながら秋名道路を逆方向に下っていった。
(今日は…何かあるかもな…)
仁志は秋名道路を登ってきた拓海のスプリンタートレノとすれ違ったことで、間もなく夜が明けるらしいと気付く。時が経つのを忘れ、シゲのエキゾーストにエンジンを同調させるために調整と試走を繰り返し続け、気が付けばとうに日付は変わっていたのである。仁志は山麓側の広場に車を停めると、紙コップの水を捨てる。
(今夜の最後に思いっきりかっ飛ばしてみよう…。ひとまず現状のベストコンディションには出来たはずだ)
仁志はサニーに乗り込み、そのまま秋名道路を登り始める。A12型・直列四気筒OHVエンジンが、昨日よりも少し重く回り、重く回った分確実に車体を押し上げていくような感覚を伝える。
(上が詰まった分、低回転域のトルクは増えているはずだな…。馬力は…100馬力も出てりゃ御の字か…)
もちろん、赤城レッドサンズの高橋涼介のように『人間シャーシダイナモ』と呼ばれるような能力が仁志にあるわけではない。カタログで見た、純正エンジンに有鉛ハイオクガソリンを入れた場合の最大出力が83馬力だったという記憶と、シリンダーブロックやヘッドブロック以外の殆ど全ての部品が全て鍛造品に交換されていたことから推測しただけである。
(ワークスレプリカの方なら130馬力くらい出そうと思えば出せるんだろうけど、今のこの音の前ではそんなものが何の意味もないように思える…)
チューニングとは数字に現れる性能だけを追求するものだと仁志は思っていたし、またそうあるべきものだと信じていた。しかし、シゲのマフラーが奏でる排気音はそんな仁志の信念を砕き、これもひとつのチューニングの形だと理解させるには十分過ぎるほどの威力を持っていた。
(今の100馬力は、一昨日までの130馬力よりも速い…そんな気さえしてしまうんだ…!)
拓海は秋名湖畔で最大規模の観光ホテルである『レイクサイドホテル』を出た。昨日の配達で豆腐と一緒に置いていった水槽を積み、周遊道路から秋名道路へと分岐すると、家路を急ぎアクセルを踏み込む。そのまま池谷浩一郎らが溜まり場にしている料金所跡の広場を通過する瞬間、後方で黄色っぽいヘッドライトが灯り、登って来る途中で聴いた爆音が追いかけてきた。
(トシのサニーだ…待っていたのか…!?)
仁志は獰猛な笑みを浮かべながら、眼前のテールランプを追いかける。ひょっとしたら拓海に勝てるかもしれない、そんな気がしていた。
(譲らねぇなら、そっちもヤル気と見做すぜ)
日頃の紙コップ特訓の成果が少しでも出ればいい、と仁志は前にいるスプリンタートレノに続いてカーブに突入する。エンジンが吠え、排気音が高らかに響き、仁志を更にヒートアップさせる。特訓の成果が少し出ているのか、拓海に対して大きく遅れることなく最初のカーブを立ち上がると、続けて次のカーブに突入する。二台のデッドヒートは、そのまましばらく続くかに思われた。
途中に、とある左カーブがあった。緩やかに左へ弧を描く高速の左に見えて、奥の方で急激に曲率がきつくなる、特徴的な複合コーナーである。拓海が右側から大回りに突入したのを見た仁志は、ガラ空きになったように見える左側インコースに一気に飛び込み、並びかける。並びかけた仁志の眼前に、左カーブが急激に曲率を増して迫る。
(しまった…!すっかり忘れてたぜ!)
外側には拓海のスプリンタートレノがいる。レコードラインは大きく外している。拓海との衝突を避けるため、仁志は咄嗟にブレーキを踏み込み、サニーをその場でスピンさせた。拓海の前に出る前にスピンさせたため、拓海はそのままきつくなったカーブの内側の一点を目掛けて切り込み、そのままカーブの向こうに消える。
(危ねえ…勝負にかまけてウチの大事な客の倅に怪我させるところだったぜ)
上手くスピンできて安心した仁志がアクセルターンで方向転換し、再び走り出した直後、さっき見送ったと思ったスプリンタートレノのテールと、ドライバーの姿が見えた。仁志はすぐに停車し、降りて声をかける。
「わざわざ止まって様子見に来たのか?」
「あぁ。一応、トシなら大丈夫そうな気がしたけど…」
「律儀な奴だ」
仁志は一旦言葉を切り、サニーを見やる。それから再び拓海に向き直り、言った。
「次からは、止まって様子を見に来る必要はないぞ。何よりも俺がもう少し焦って追いかけて来てたら、お前は今頃轢かれてる」
「…よく考えたらそうだな」
拓海はそう言いつつも、少しムッとしているようにも見えた。
「あぁ、別に上から説教するつもりはないサ」
「でもトシはそんなに焦って追って来そうには見えなかったし、あぁなったら引き下がるだろうなって」
「…わからんぜ?」
拓海の言葉に仁志は薄笑いを浮かべて返す。
「なぁ拓海、一般道でこういう危険な運転をする以上、何があっても自己責任だから止まる必要はないんだ。俺がたとえ事故ったとしても、それは俺の責任だ」
拓海と同じように運転免許もないうちから、拓海とは異なる理由で危険な運転を繰り返してきたからこその持論を、仁志は拓海に伝える。
「俺もお前が事故っても一旦そのまま見捨てる。まぁ、お前の親父が俺のオヤジの客だから結局車だけは直すんだろうが、な」
拓海は釈然としない顔をしていた。
仁志はサニーの運転席に収まると、開いた窓から拓海に声をかける。
「ところで、これは仕切り直しってことでいいんだよな?」
「えっ?」
「お前どうせ飛ばして帰るだろ?俺勝手に追いかけるけどいいよな?」
「勝手にしな」
拓海は一言そう言うと、スプリンタートレノに乗り込み、発進させる。
「そうさせてもらうさ」
仁志はニヤリと粗野にほくそ笑んだ。
仁志は拓海にどうにか食らいついたまま五連ヘアピンまで下って来た。
(四方先生のスカイラインセダンの時はいいようにやられちまったが、今回はどうかな…!?)
レッドサンズの高橋啓介やナイトキッズの中里毅らと比較し、藤原拓海の乗るスプリンタートレノは
(回りくどいのは無しだ!ここでお前を
仁志は拓海の外側を塞いだままひとつめのヘアピンを抜け、次の逆ヘアピンに向けて外側になった拓海に幅寄せするように道路の中央に寄る。
(ギリギリ一台分は残したぜ…怒るなよ…)
ふたつめのヘアピンで仁志のサニーが半車身分だけ前に出る。ギアを上げるだけの距離はなく、仁志は高回転域で糞詰まり状態になるエキゾーストをアクセル全開で押し通す。
(8,000rpm…やれば出来るじゃねぇか!)
ここで拓海と仁志が同時にブレーキを踏む。拓海は最初のヘアピンよりも明らかにブレーキを遅らせていた。抜きかけた車体が再び並ぶ。
(あっ、そうだった…そういうのもあるのか…)
すぐに仁志は思い出す。以前も『溝落とし』でまんまと逃げ切られていたことを。三つめのヘアピンを立ち上がった拓海と仁志であったが、溝落としの効果で拓海のスプリンタートレノと仁志のサニーでは加速し始める速度、つまりこのヘアピンカーブの脱出速度に大きな差が出来ていた。
(野郎、こんな野良試合でもそれを使うのかよ…!?)
以前の仁志ならばここで戦意を喪失していたかもしれない。それが、無免時代の仁志がギリギリで生き残ってこられた理由でもあった。
しかし、ここに来てシゲのエキゾーストが奏でる排気音が仁志に腹を括らせた。
(しょうがねぇや、俺もやるしかねえよなぁ!)
四つめのヘアピンカーブ、仁志は拓海に遅れながらも内側の排水溝にタイヤを引っ掛ける。何度か死にかけた時の記憶が甦るが、先行するスプリンタートレノに車速と溝を出るタイミングを合わせ、一気に追い付く。
(ぷぅ〜ッ!肝を冷やしたぜ!)
仁志は五つめのヘアピンカーブを睨み、次いでトレノのテールランプを一瞥する。仁志はここで溝落としをギリギリまで使い、拓海よりも速く立ち上がり、次のやや長めの直線区間で抜き去る算段をつける。ブレーキランプが一瞬光る。ここだ、と仁志はブレーキを踏み込みながら排水溝にタイヤを落とす。
ヘアピンカーブの滞在時間など五秒もないはずなのだが、この時の仁志にとって、アクセルを踏み込むタイミングを計るこの五秒間は永遠にも思えた。まだトレノは内側の排水溝にタイヤを突っ込んで斜めになっている。まだだ、まだ我慢…。一瞬、車体の片側を跳ねさせながらトレノが排水溝から脱出した。今だ…!
仁志は排水溝に内側のタイヤを引っ掛けたまま、アクセルを踏んでさらにサニーを加速させ、拓海から遅れて排水溝を脱した。その瞬間、綱引きの真っ最中に相手が一斉に綱を離したような、そんな嫌な感覚が仁志を襲う。
(南無三、やり過ぎだ…!)
死が迫った時、人は走馬灯のように人生の記憶が次々と甦るという。仁志も見た。母と暮らす家に月に二回、謎の老紳士が訪ねてくると、母から小遣いだけ渡され、外の天気などお構いなしに外に出された。今思えばその老紳士を見る母親は雌の顔をしていた気がする。小遣いは運悪く近所のいじめっ子に見つかると取られてしまう。…気が付けば身を守るために覚えたはずの暴力に溺れ、刃向かう人間を誰彼構わず血祭りに上げる、気の休まる暇すらない日々…。
「クソったれがぁ!こんな碌でもねえ人生のまま死ねるか!」
我に返った仁志は無我夢中でサニーをより安全な方へ逃がそうと足掻く。産廃ダンプの荷台に鉄屑を放り込む時のような嫌な音が聞こえた気がしたが、何とかその場でスピンして大事故は回避できた。
「拓海は…そのまま行ったか。上出来だ」
仁志はヘアピンカーブから少し離れた路肩に車を駐めると、車外に出て一周しながら被害状況を確認する。
(何かを引きずる音はこれか…)
フロントバンパーが壊れ、片側だけ固定部が引きちぎられ、引きずっていた。仁志は残っていた方のボルトを外し、バンパーを完全に取り外すと、知恵の輪のようにトランクに積む。その後、思い出したようにナンバープレートをバンパーから外した。
(一旦ダッシュボードに置くか…。
『秋名のハチロク』相手に二度目の敗北を喫し、それでも一度目の敗北よりも清々しい気持ちでいることが仁志にとっては不思議であった。
(勝つまで何度でも絡んでやるさ…)
仁志はこの清々しい悔しさの余韻に浸りながら、秋名道路をゆっくりと下っていった。