サニーで藤原拓海のスプリンタートレノを追った夜から数日後、午後四時を少し回った鈴木政志の整備工場で電話が鳴った。政志が受話器を取る。
「はい、鈴木整備…おお、拓海か、珍しいな。仁志?ああ、いるぞ」
政志は受話器のマイクを手で塞ぐと、仁志を呼ぶ。
「仁志〜、拓海からお前に電話だ!」
「珍しいな…今行く」
仁志が政志から受話器を受け取り、拓海に電話を代わったことを伝える。
「電話代わった、仁志だ。…何…だと…!?」
拓海の言葉に血相を変えた仁志は、すぐに受話器を置くと、制服に着替えるのももどかしく、作業用つなぎのままサニーに乗り込む。
「すまない、オヤジ!ちょっと病院!」
「お前、血相変えるほど悪いとこあったか?」
「いや、俺じゃないって!イツキが事故ったらしい!」
週末に拓海と樹の同級生である茂木なつきの紹介により、茂木の中学時代の同級生で沙織という少女とドライブに出掛けていた武内樹であったが、とある山道で中里毅政権転覆のために何としても『秋名のハチロク』の首級をトロフィーに加えたい、妙義ナイトキッズの不穏分子筆頭・庄司慎吾に見つかってしまった。慎吾は樹のカローラレビンを秋名のハチロクと勘違いしており、そのまま執拗なバンパープッシュを繰り返す。助手席で怯える沙織に対し、走り屋のプライドにかけてここで引き下がるわけには行かないと樹は躍起になってレビンに鞭を入れるが、慎吾の追撃を振り切れず、駄目押しのバンパープッシュを食らったことで制御不能に陥ったレビンのハンドルを握りながら、せめて沙織だけは守る、と念じ、どうにか運転席側から擁壁に激突したのであった。樹の執念が実ったのか、本人が右前腕、右肩、右の肋骨を骨折し入院することになったにもかかわらず、沙織はかすり傷で済んだ。
病室には拓海となつき、池谷浩一郎と健二が既に駆けつけていた。
「あの庄司慎吾って奴か…許せねぇ…!!」
池谷が憤る。
「ガムテープデスマッチだろうが何だろうがやってやるよ!」
「やめろ拓海。悔しいが、あまりにも無謀過ぎる」
「池谷先輩、俺はアイツに負ける気ないですよ!死んでも負けません」
拓海も憤りを見せる。慎吾からのガムテープデスマッチの挑戦を受けるつもりでいるらしかった。しかし、池谷が止める。ここで慎吾の挑発に乗って圧倒的不利な挑戦を受けてしまっては、完全に相手の思う壺であった。そもそも、慎吾が初めて池谷らの前に姿を見せた翌日から、妙義ナイトキッズ・庄司派によって群馬県内に情報工作が行われていた。彼らは『特別ルール』については何も言及しないまま、とある噂を流した。曰く、『秋名のハチロク』はナイトキッズ・庄司慎吾の挑戦から逃げ続けている、と。噂が広がり、秋名スピードスターズにも悪評が立つ中、それでも池谷や健二が拓海を止め続け、拓海自身も挑戦を受けないことで遂に痺れを切らした慎吾による今回の犯行であった。
病室の入口で、丁度到着した仁志はドア越しに拓海と池谷のやり取りを耳にした。仁志はそのまま引き戸を開ける。
「拓海。池谷さんの言う通りだ。この挑戦には応じるな」
入室早々、仁志はそう告げる。
「な、拓海?仁志もそう言ってるし…。それに何度も言うように、奴らのルールは、お前のハチロクみたいな後輪駆動を潰すためのルールなんだよ」
「駆動方式とか関係ないっすよ、先輩、それにトシ。俺は死んでもアイツだけは倒したいんです!」
拓海は親友の樹にまで手を出され、義憤に駆られている様子であった。ここで仁志が口を開く。
「駆動方式も、お前とそのシビック野郎との勝ち負けも関係ない。ここでお前が行けば良くない前例が出来るから言ってるんだ」
「何だよ、良くない前例って?」
拓海がますます釈然としない様子を見せる横で、池谷がハッとしたような顔をする。
「どうやら池谷さんはわかったらしいな…。要するに、『秋名のハチロク』に挑むならまずは周りの奴を危険に晒せばいいって前例が出来るんだよ。今回は偶々イツキがやられたが、次は池谷さんかもしれないし、俺かもしれない。まぁ、俺はそんな奴らは全員八つ裂きにしてやるがな。もしかしたら、お前の彼女の茂木なつきが襲われる可能性だってあるんだよ」
「…別に、茂木とはそんなんじゃねぇよ」
「悪い奴から見て、少しでもそう見えたら狙われるんだ。女子供なんか真っ先に狙われるだろうよ」
拓海が一瞬、ハッとしたような顔をしたように見えた。しかしそれも一瞬のことで、再び拓海の目が据わる。あ、これ話は聞くけど言うことは聞かないやつかもしれない。仁志はそう思う。案の定、拓海の意思は変わらなかった。
「そんなの、終わってからじゃなきゃわかんないだろ!俺は受けてやるって言ってるんだよ!」
「お前、普段は自分が走り屋じゃないって言ってるらしいな。これ受けたらそんなこと二度と言えなくなるぞ」
仁志が念を押す。
すると今まで黙っていた樹が半泣きで口を開く。
「拓海ィ…。俺、悔しいよォ…。お前ならアイツをギャフンと言わせてくれるよな…?」
仁志は樹の方に向き直る。
「武内樹。お前はその時何をしていた?お前はハザード点けてその場で車を停めるべきだったんじゃないのか?お前の彼女になってくれた沙織さんとやらには、
「それは…。でも、停めたからってそれで助かるかどうかなんてわからないだろぉ!?それにな、俺だってスピードスターズのステッカー貼ってんだよ!プライドだってそれなりに背負ってたんだよ!」
「やかましい!そのプライドは、そしてそのステッカーは、罪のない他所の家の娘を巻き込んでまで守るような価値があるのか?…俺達はチンピラと変わらねえんだ。俺達にプライドがあるとしたら、堅気を巻き込まねえってことだけだ!それがわからねえなら、そんな糞みてぇなプライドはドブにでも捨てとけ!」
仁志が発した怒号に、皆静まり返った。直後、病室の扉が開く。
「武内樹さんの手術を担当した、形成外科医の島です。まず、君の声が外まで聞こえていました。今は他のベッドに誰もいませんが、本来この病室は四人の患者さんで使う病室です。そして他の病室にも患者さんがいます。静かにするように。守れない場合、武内さんを強制的に退院させることになります。わかりましたね?」
「すみませんでした」
白衣を着た、島と名乗る男に咎められ、仁志は謝るしかなかった。頭と共に目線を下げつつ、胸の名札をチラリと見る。この男の名は島達也というらしいことがわかる。
「僕はこれから横浜に帰るので、その前に術後の経過観察を、と思ったのですが、武内さん、どこか異変はありませんか?」
島は樹にいくつか質問をする。手術に大きな過誤はないことがわかったらしく、問診は終わった。池谷が質問する。
「島先生、横浜から通っていらっしゃるんですか?」
「まさか…。医者の業界には医者のアルバイトがありましてネ。場合によっては勤め先の病院よりも割が良かったりするんですヨ」
「今日は横浜の方は?」
「非番です」
島は病室の面々を見渡す。
「我々が公道で走ることは、法的・道徳的には間違ったことである、ということは忘れてはいけません。そして、百馬力のファミリーカーであろうと、千馬力のレーシングカーであろうと、事故のリスクは等しく存在することも、です」
仁志は違和感に気付く。島は『貴方達』と言わずに『我々』と言った。公道での暴走行為を止めさせるようなことをはっきりと言うわけでもなく、『忘れるな』とだけ言った。ただの医者ではない。何者だ、この男…?
島が立ち去ると、拓海は義憤に駆られたままの様子で病室を去った。仁志も病室を去ろうとする。池谷と樹が呼び止める。
「仁志、どこに行く気だ?」
「トシ、拓海を止める気か?」
「俺が止めても無理だ。拓海がそういう奴らしいことは俺も最近わかった。…松井田に行く。中里毅にケジメつけさせる」