武内樹の病室を出た鈴木仁志は、廊下の公衆電話を見て、ふと思い出したように足を止める。一瞬、静まり返った病室の方を振り返ると、十円玉を取り出し、受話器を取った。十円玉を入れると、内部機構がガシャンと音を立てる。
(あれ、そういやシャーの家って何番だっけ?)
電話機が置かれた棚の下から使い古されたタウンページを取り出し、記憶を頼りに西田淳二の祖父が営む喫茶店の番号を探し当て、ダイヤルを回した。
(どうせここで店番でもしてるだろう…)
『ロッカーズ・カフェ』で店番をしていた淳二は、黒電話のベルに気付いて受話器を上げる。
「はい、こちら、ロッカーズ・カフェです」
「その声はシャーか、丁度いい。仁志だ」
「トシ?珍しいな。明日はテポドンでも降ったりしてな」
「洒落になってねえよ。…ところで、イツキが事故って入院してるんだよ」
「マジで?何でまた…?」
「まぁ、色々とな。いわゆる地政学的な要因とかいうやつが半分、残りの半分はアイツの自業自得だ」
「何じゃそりゃ?」
「今から出てこれたりしないか?病室でつい大声出して変な空気にしちまった」
「難しいな。今日は夜八時まで店番しなきゃいかんのよ」
「オーケイ、わかった。無理言ってすまない。暇な時にでも笑わせに行ってやってくれ」
「トシ、この夏でちょっと変わったな」
「…どういう風に?」
「以前のトシは、他人の心配なんかしなかっただろ?」
「そうか?今までだってそれなりに余計な敵を作らないように気は遣ってたんだがな」
「よく言うよ…。ところで、なんか声が怖い気がするけど、何をするつもりでいるんだい?」
淳二の想像通り、電話の向こうの仁志は表情がなく、据わった目だけがギラギラと危険な輝きを放っていた。仁志は苛立って怒号を上げる時、実はそこまで激しく怒ってはいない。現在の仁志はその段階を過ぎ、本当に危険な状態であった。
「俺達、年明けたら卒業なんだから、あんまり危ないことはしないほうがいいと思うよ」
「わかってるよ…」
それからしばらくして、妙義山に黒い日産・サニー、B110型クーペが現れる。山麓の少し路肩が開けた場所では、地元の走り屋達が屯していた。彼らがサニーの排気音に気付き視線を向けるのと、サニーが彼らを轢くか轢かないかのスレスレを通過してから急停止するのとはほぼ同時であった。
「テメェ!何しやがる!?」
轢かれかけた一人が運転席側のドアに詰め寄ると同時に、勢いよくドアが開き、その男を跳ね飛ばす。同時に降りてきた鬼のような形相の仁志が、腹を押さえて屈んだその男の頭を靴の裏で上から踏み潰すように蹴った。そのまま鼻血を流して蹲る男の頭部をなおも執拗に何度も踏みつける。男の仲間が、やめろと叫びながら仁志に飛び掛かり、地面に押し倒す。仁志は右手で相手の耳を強く引っ張りながら左手で股間の急所を握り潰す。二人目の男は悲鳴を上げながら仁志の横に転がる。
三人目の男は目の前で繰り広げられた暴力の嵐に腰を抜かしていた。仁志がゆっくり立ち上がり、二人目の男の鳩尾を三回、強く踏み潰してから三人目の男に向かって振り返るのと、三人目の男が失禁するのは同時であった。仁志が口を開く。
「ナイトキッズの庄司慎吾とかいう奴がナメた真似しくさりやがった件で話がある。中里毅はどこだ?」
男は答えられず、腰を抜かしたまま
「まあいい、身体に訊いてやるさ。…喋らねぇ奴を喋らせるには、まずお望み通り喋れなくさせるのが一番だ」
仁志は偶然居合わせたこの哀れな男を二、三回ほど殴打し、抵抗する気力を奪うと、口を無理矢理開けさせ、路肩の小石を一杯に捩じ込み、そのままサッカーボールでも蹴るように下顎目掛けて右足を一気に振り上げる。鈍い音と共に口内に無数の穴が開き、何本かの歯が割れる。男は中里毅が夜八時頃に登ってくることが多いという情報を、血と石と歯が混ざった赤黒い塊と一緒に吐き出した。
「ご苦労。…恨むなら庄司慎吾とかいうサイコ野郎を恨め。先にクルマぶつけてきたのはアイツだ」
仁志は右手を一瞬、腰の後ろに回し、直後、大きく縦に振り下ろす。カシャンと乾いた音と共に伸縮警棒が伸び、ほぼ同時に男の脳天に直撃する。男は意識を失った。
(中里が来るまで時間あるし、もう少し暴れておかないとな。たった三人じゃ、『拓海の良くない前例』に対する抑止力にするには心許ない…)
下車した時から、排気音とスキール音が遠くに聞こえていたので、登ればまだまだ走り屋は見つかると仁志は考えていた。
(丁度いい。もうすぐ降りてくるヤツがいるみたいだし、まとめて叩きのめそう)
こうして夜八時まで、麓で待ち伏せる仁志により、妙義山の入口に血の雨が降った。
夜八時を少し回った頃、妙義山の麓に数台の取り巻きを従えた黒いスカイラインGT-Rが現れる。ドライバーの中里毅は、路上に止まる妙義ナイトキッズ構成員の車八台と、己の血溜まりに横たわる構成員十数名を目の当たりにし、下車する。左側の路肩に駐められた四台の車のうち、山頂側の一台が見慣れないサニーであることに気付いた毅に、そのサニーに凭れ掛かっていた男、仁志が声を掛ける。たった一人で十人以上を相手に暴力沙汰を起こして無傷で済むはずもなく、仁志の顔面も血と痣で赤黒く濡れていた。
「妙義ナイトキッズの中里毅で間違いないな?」
「だったらどうする!?俺の仲間を随分と可愛がってくれたみてぇだな!?」
「可愛がる?笑わせるな。あんな醜い虫けら共を誰が可愛がるかよ」
仁志の一言に毅の取り巻きの中でも最も血の気の多い一人が掴み掛かる。仁志は何の迷いもなくその男の喉輪を右手で掴むとそのまま握り潰そうと力を込めた。男の喉が、グエッという、声なのか空気が漏れる音なのかハッキリしない不愉快な音を鳴らす。そのまま振り回される拳を軽くいなしながら締め続けると男の顔が紫色に変色し、ぐったりし始めたので仁志は手を離す。紫色の男が酸素を求めて咳き込みながら、仲間に引っ張られて距離を取るのを、道端の轢死体を見るような冷たい目で一瞥し、仁志は再び口を開く。
「さて、中里さん。俺が何しに来たか心当たりがないとは言わせねぇぞ」
「庄司慎吾のことか?それならわざわざ渋川まで出向いて警告したはずだが?」
「確かに、情けねえチームリーダーぶりだったぜ!てめえの無能さと人望のなさを暴露しくさりやがってな!」
確かに数日前、毅は渋川のガソリンスタンドまで出向いていた。丁度アルバイトをしていた仁志と藤原拓海を見つけると、この前の敗戦以来、チーム内の不穏分子筆頭である慎吾一派の行動が尖鋭化し、毅が止めきれなくなっている、と告げた。その上で、慎吾が元々素行が悪く、思い通りに事を運ぶためには手段を選ばない危険人物であることを告げ、くれぐれも気を付けるように、と拓海たちに伝えた。その矢先に起きたのが樹への襲撃であった。
仁志はその日のことを思い返しながら、その時に毅に言ったことを再び言う。
「たかが一度や二度負けたくらいで足元の馬鹿が言うこと聞かなくなるくらい人望がないなら、即刻チームの看板を下ろせ、と言ったはずだ。飼い犬が垂れた
ナイトキッズの構成員を犬に喩えた仁志の一言に、さっき顔が紫色になるまで首を絞められた男を含めた毅の取り巻き達が今度は一斉に仁志に飛び掛かろうとし、毅がそれを制する。
「待て!待て!…慎吾が何かやらかしたのか?」
「あぁ、大やらかしだ。秋名で最近走り屋を始めたイツキって奴が殺されかけた。昼間、横に女乗せてる時にぶつけられてな。半分は軽く小突かれた時に女の前で粋がって喧嘩を買ったイツキが悪いが、な。おかげで身体の右半分が暫く使い物にならねぇ。あと多分アイツ、別れるワ」
「…それは気の毒なことだ。それで、仇討ちのつもりか?ここまで巻き込む必要があったのか?」
「仇討ち?笑わすな。地元の
毅たちは仁志の考えていることが急にわからなくなり、混乱する。
「だったらなぜここまでやった?」
「拓海って覚えてるだろ。『秋名のハチロク』だ。奴がマブダチやられて怒っちまってな。受ける気でいるんだ、お前のとこのチンピラが挑んだ『ガムテープデスマッチ』とやらを。アイツは一度言い出したら俺の脅迫にすらビビらねぇ」
「ならハチロクのためか?」
「それも違う。俺自身のためだ」
「今更変な綺麗事を抜かそうってのか?」
「違う。良くねぇ前例が出来ねぇように、そして巻き込まれねぇように先手を打ってるだけだ」
このまま拓海と慎吾のガムテープデスマッチを許せば、少なくとも慎吾の望みの半分以上である『マイルールでハチロクに挑む』目的は達せられることになり、そうなれば中々挑戦を受けたがらない『秋名のハチロク』に確実に対戦を申し込むためには周りの人間を巻き込んで脅せばいいという前例になる。仁志は、そのような前例に対抗し、『阿漕なやり方で対戦を挑めば血の雨が降る』という噂を広め、己の身を守ろうとしている、と告げた。
「そういうことだ。ついでにナイトキッズなんていうヤクザと何も変わらんチームは解散してくれた方が安心なんでな。何度でも言うぞ。たかが一度や二度負けたくらいで出来の悪い子分の首根っこもまともに押さえられなくなるくらいなら今すぐ看板を下ろせ」
仁志は一瞬、言葉を切り、塞がっていない方の目で睨みを効かせる。
「それとも…お前ら一人残らず二度とワッパ握れねぇ身体にしてやろうか?」