明け方、鈴木政志の整備工場に黒いサニークーペが戻る。ステアリングを握る鈴木仁志は、出来る限り回転数を上げずに整備工場前の通りを走らせ、ガレージのシャッターを開ければその音で政志を起こしそうだったのでそのまま整備工場兼住宅の裏に駐める。
そのままシャッター横のドアをそろりと開け、抜き足差し足で忍び込む。
(オヤジは…多分まだ寝てるな。…さっき吐いたから歯が溶けてる気がするな…)
仁志はガレージの隅にある洗面台に行き、手と顔を洗い、うがいを特に念入りにする。歯がザラザラしてガタついている感覚がなかなか消えないが、胃液のような後味が消えたので良しとする。そのまま横から差し出されたタオルを手に取り、礼を言いながら手と顔を拭ったところで、はて、これは何故俺の手元にあるのだろう、と不思議に思いながら受け取ったタオルを見て、それから差し出された方を見ると、政志が立っていた。
「あっ…」
「感心しないな、もうすっかり朝だぞ」
(やべぇ、そういや昨日、何も言わずに妙義行っちまった…)
顔を洗う前とは違う、妙に冷たい汗が仁志の顔に浮かぶ。政志は仁志の顔の青痣と眉の上の裂傷を見て、目つきが変わる。
「お前、まさか
「まぁ、そう…なのかな?…じゃなくて!いや、こうするしかなかったんだ!」
「どうもこうもあるか!俺はお前の育て方を間違えた!」
「違うんだ!これには理由が…」
「他人様に暴力を振るっていい理由などあるか!」
「聞いてくれ!こうするしかなかったんだ!」
仁志は必死で訴える。
「頼むよ!」
政志は仁志の必死そうな目を見て、聞くだけ聞いてみようと思い直す。
仁志は顛末を語った。武内樹の事故が意図的に引き起こされたこと。その意図が藤原拓海に挑戦を受けさせるための脅迫であったこと。義憤に駆られた拓海が挑戦を受ける気でいること。勝ち負けを問わずここで出来た良くない前例が仁志を含め拓海の関係者を無差別に危険に巻き込むと思ったこと。それを防ぐためには抑止力としてこの前例を打ち消す噂が必要だったことを語った。
「言い分はわかった…。計画的な暴力だと言うのか…。昔みたいに我を忘れて暴れてくれていた方がまだマシだったよ…」
聞かなきゃよかったと言わんばかりに政志は頭を抱える。仁志は言う。
「どうせ相手も反社だ。だから警察沙汰にはならないし、あいつらの戦意を失わせるように徹底的にやらかしておいたからお礼参りの心配もない」
「…余計悪いよ。それはつまりお前に罰を与えられる者が一人もいないってことだろう…」
「罰?確かに拙い方法ではあったけど、他にどうすることもできなかっただろ?」
「ガムテープデスマッチも、その庄司慎吾とかいう輩みたいな荒くれ者も、俺達の時代から存在していたよ!そして俺達の先輩方はそういう奴らが起こすイザコザも上手く収めてたんだよ!誰も殴らずに、だ!」
「そんなもん、こないだまでやってたアメリカとソ連のいがみ合いと同じだろ!どっちも喧嘩の用意があったからこそ睨み合いで済んだんだ!どっちかがうっかりクシャミでもすりゃたちまちおっ始まってただろうぜ!」
「文太なら走りで納得させたさ!」
「さぁ、どうだかな!?」
仁志は政志と睨み合う。頭に血が上ったせいか、昨夜殴られた顔がズキズキと痛んだ。政志が口を開く。
「…お前の夏休み中の門限は夜十時とする。どうせ峠で悪さするなら昔から真面目でレベルの高い赤城の連中を少しは見習え。それと…次に暴力沙汰起こしたらお前を寺に預ける」
「寺?…もしかして、あの寺か?俺が小五くらいの時に預けられた…?」
「そこしかないだろ…」
「マジかよ…。ただでさえあの時のことは納得いってねぇのに…。大体、やらかした瞬間の記憶が飛んでるってのに。何があったか誰も教えてくれねぇし…」
「あの頃より今の心配をしろ!お前は今、紛れもない加害者だ!普通の交渉手段として真っ先に暴力が出てくるその人間性がそもそもの間違いだと言ってるんだ!」
その日の午後、藤原文太がスプリンタートレノを整備工場に持ち込んできた。仁志は遂に来たかと呟くと、右手を見つめながら指の曲げ伸ばしをする。政志は文太に、拓海にガムテープデスマッチをやらせる気かと尋ねている。文太はそのつもりらしく、トレノの安定性を更に高めるセッティングをしに来ていた。文太はともかく拓海にガムテープデスマッチが出来るのか政志が訊くと、文太は仁志の右手を見て何かを察し、訊く。
「坊主、お前はどう思う?」
「最初は戸惑うでしょうし、カーブ何個分かまでは手こずるでしょうね」
でも、と仁志は続ける。
「必死で喰らいついて、何回か右手に痛みを感じれば、そのうち身体が勝手に正しい乗り方を教えてくれますよ」
政志は唖然とするが、文太は満足そうにニヤリと笑う。
例のごとく、仁志は文太に連れられ、トレノで秋名道路に来ていた。
「ところで、お前、右手に変な痕がついてるぞ。何を使って試したのか知らんが、手は大事にしろ」
「バレちまいましたか。タイラップしかなくてね」
文太は流石に驚いたようであったが、すぐに右手でステアリング、左手でシフトレバーを握る。
「要するに、右手を離さないようにすりゃいいんだろ?なら左手でギアを握ったままにすりゃいい。昔茨城でやり合った奴がやってた方法だ」
文太はそのままトレノを発進させ、殆どステアリングを回せないまま秋名道路を下る。仁志が夜中にどうにか形にしたのとは比べ物にならない速度であった。
「ハンドルってやつは、少ない方が速いんだよ」
「マジかよ…ッ!」
「お前さんももう少し練習すりゃ出来るさ」
「…拓海はどうなんです…ッ?」
「あぁ、それな…」
丁度麓の広場に着いたので、文太はトレノを駐め、言葉を続ける。
「ぶっちゃけ、このままでも十分対応は出来るが、これが出来るようならもう少しアンダーでもいいんだよな。それに、拓海みたいなヘタクソが乗ることもあるわけだし、ナ」
マジかよ、拓海がヘタクソなら俺はハナクソ以下じゃねえか、と仁志は愕然とする。
「とにかく、藤原さん。俺も一本だけ乗せてください」
結局、昼過ぎから始めたトレノのセッティングは日没まで続いた。結局仁志基準でセッティングをすることになったものの、仁志の運転技能を少し拓海に追いつかせる必要があったためである。
「まぁ、悪くねぇんじゃねぇか?」
最終的に、文太から及第点を貰えた仁志は、上がり框に腰を下ろしたまま、複雑な顔をしている。
「どうした、仁志?文太はこう言ってるぞ」
「いや、時間がないから暫定仕様でしか渡せなくて申し訳ないなって」
「それはうちの拓海が乗ってみないことにはわからんさ。多分また明日か明後日くらいに来るワ」
「ええ。そんときにはバッチリ仕上げますよ」
文太がトレノに乗って去った後のガレージで、仁志は政志に問う。
「今日か明日か、拓海のバトルの日だけ門限、
「駄目だ」
「そうだよな…罰だもんな…」
「ところで、今のこの罰の何が一番キツいんだ?」
「俺の仕事を見届けられないこと、だな…」
「…社会に出て、こんな事件起こして逮捕でもされたら、こんなもんじゃ済まないぞ。どんなにいい仕事しても全て水の泡だ」
「…サニーにガソリン入れてくる」
実際にはガソリンは殆ど解体屋で吸い出したものをガレージで給油した。新しいガソリンはもったいなかったので、国道沿いのガソリンスタンドに寄る口実程度に隙間を残し、ガソリンスタンドへ向かう。
「いたいた…」
思った通り、応対には拓海が出てくる。
「ハイオク、満タン。つってもそんなには入らんと思うけど…」
拓海がノズルを挿し、トリガーを引いてロックする。案の定、十リットルも行かないうちにカチリと安全装置の音がした。仁志が訊く。
「結局、あのムカつく野郎とはいつやり合うんだ?」
「今夜…」
「すまんが俺は応援に行けねえ。お前の前例対策で色々やらかしちまってな…。すまん」
そこで仁志は一旦言葉を切り、拓海を見る。拓海の迷惑そうな目と仁志の目が合う。仁志は言葉を続けた。
「あ、もうお前を止めねぇよ。ここで俺がお前の手足をもいだとしてもお前は行くだろうからな。お前のハチロクも今や故障知らずだ」
仁志は自分の右手を見ると、言葉をまとめる。
「まず、お前は今後、走り屋じゃないから挑戦は受けねえ、などとは言えない立場になる。その覚悟はあるよな?」
拓海の目つきが不服そうな色を帯びていた。
「まぁいいや。次に、今夜はとにかく喰らいつけ。喰らいつけばお前の身体が正しい乗り方をケツに叩き込んでくれるはずだ。俺でも慣れればある程度は乗れた」
仁志は一瞬言葉を切る。そして最後に付け加えた。
「これは言うまでもないが…負けたら殺す。それだけだ」