庄司慎吾は苛立っていた。先程まで危なっかしく揺れ動きながら何とか路上に留まっていた『秋名のハチロク』が、早くもガムテープがない時とさほど遜色なく眼前で秋名道路を下っているからである。その苛立ちはこの対決に勝ち、妙義ナイトキッズでの己の政権を盤石にする算段が、逆に一派諸共チーム内の最底辺、それどころか下手をすれば破門の危機に瀕している焦りが四割を占めていた。
一方で残りの六割、つまり半分以上は、慎吾自身が長い年月を掛けて体得した、ステアリングを持ち替えず、ハンドブレーキや左足ブレーキをフル活用した前輪駆動車での慣性ドリフトと、これが真価を発揮するガムテープデスマッチを、目の前の『秋名のハチロク』がわずか十にも満たないカーブで体得し、更には慎吾の腕前を早くも上回ろうとしていることに対する怒りであった。もはやただ勝つだけでは収まらず、後ろから威圧して失策を引き出し、事故に遭わせてやろう、と慎吾はハンドブレーキでシビックの向きを変え、今曲がったカーブの先の少し長い直線路でアクセルを踏み込む。本田技研工業製・B16A型、排気量1.6リッター直列四気筒、ツインカムエンジンが、赤い三枚ドアハッチバックの車体を力強く前方に押し出す。慎吾のシビックは、このエンジンの圧縮比を上げ、可動部品の軽量化とバランス取り、排気管の効率化とスポーツ用ECUへの交換など、限られた予算で吹け上がりや音などの
池谷と健二は拓海と慎吾を追って秋名道路を下っていた。ついて行くことは出来ないが、せめて拓海に万が一のことが起きた時、少しでも早く救助したいと考えてのことであった。今曲がったカーブの先に、大破炎上するトレノが現れるのではないか。池谷らはそんな不安を抱えながら既に十以上のカーブを曲がっていた。曲がったカーブの数は、拓海が右手をガムテープでステアリングに縛り付けられてもこの秋名道路を下って行けることを示していたが、庄司慎吾の性格上、拓海の
鈴木仁志は逆反りに取り付けられていた後輪サスペンションの板バネを下反りにして取り付け直し、車高が上がるであろう後輪に合わせるため、前輪側の車高を少し増やしてから、サニーを下ろす。狙い通り着地状態でほぼ水平になったのを見て、仁志は満足げに頷く。ふと時計を見ると、とっくに十時を回っている。
(例のデスマッチが始まってる頃だな…)
一瞬、ソワソワした様子を見せた仁志に、傍らで煙草を吹かしていた鈴木政志が釘を刺す。
「駄目だ。門限」
「まだ何も言ってないだろ…」
「『まだ』って何だ?やっぱり何かするつもりだったんじゃねぇか」
「…わかってるさ。どこも行かないよ、今日は」
「拓海が心配か?」
「全然」
「今にも秋名に行こうとしてただろ」
「それはまぁ、ちょっと気になったことがあって…」
「拓海のこと以外でか?」
「あぁ。ハンドルは出来るだけ切らないで曲げた方が速いみたいでサ。さっきまでいい感じにコツを掴みかけてたんだよ」
「そうか…。実は俺も走りにはそこまで詳しいわけじゃないからな。そういうのは文太が知ってるはずだ」
「確かに昼間言ってたな…。走りはマジで別格だったけど」
「アレは年の功だ。…いずれにせよ、走りに行くなら明日にすることだな」
ちぇっ、と不満そうな顔の仁志。身から出た錆とはまさにこのことであった。
その頃、拓海は普段よりも上手く、そして速く乗れていることに気付く。舵角は殆ど付かず、速度もタイミングも極めて狭い領域での制御が求められているはずだったが、むしろ今までよりも楽にさえ思えた。
(ハンドルは切らない方が速いのか…?)
今まで意識したことのなかった事実に気付いた拓海の走りは、更なる加速を見せ始めた。
慎吾はいよいよ焦っていた。ここまで来れば、『秋名のハチロク』の実力を認めざるを得ないのではないか、という予感がしていた。先が見えない右カーブ、目の前の白いトレノが、対向車線を登ってきたSUVとガードレールとの間に残った一車線分の隙間を、通り抜けられるギリギリの角度でドリフトしたまま通過するのを目の当たりにし、予感は確信に変わる。慎吾は、中里毅が『秋名のハチロク』に勝てなかった理由を理解する。
「だけど俺は毅ほど甘くねぇぜ!」
一瞬芽生えかけた、『秋名のハチロク』を賞賛する感情を追い出し、慎吾が吠える。
「勝ちゃあいいんだよ!!どんな手を使ってもなァ!!」
直線区間で慎吾のシビックが拓海のトレノの背後にピタリと迫る。
(悪く思うなよ。『秋名のハチロク』が解体屋の鉄屑に変わるだけさ)
二台はブレーキングを開始し、そのまま左カーブに突入する。荷重が右前に乗り、反対に左後輪からは押さえつける力が抜ける。
「お前が行く方向は…反対だろ?」
慎吾は何の躊躇もなく、トレノのリヤバンパーの左側にシビックのフロントバンパーを押し込み、そのまま右前に向かって押し出す。荷重が前に移り、軽くなった後輪に、横向きの強い衝撃を受け、トレノは回転を始める。
拓海は対向車をやり過ごし、短い直線路を抜けて左カーブに突入する。突入前、背後のシビックが先程までよりも近いような気がしたがそのままトレノをドリフト体勢に持ち込む。その瞬間、左後ろから突き飛ばされるような強い衝撃を全身に感じ、咄嗟にカウンターステアをいっぱいに当てようとするが、ガムテープで右手に縛り付けられたステアリングがガクンと止まり、右手に衝撃が走る。これは駄目だと咄嗟に判断し、ブレーキとクラッチを同時に踏み込むとステアリングを左に切れるところまで切る。車体が真後ろを向き、赤いシビックがそのまま通過していくのを横目に見る。わざとやられたと理解すると同時に、ギアを落とす。錐揉み回転するトレノが後ろ向きから更に回る瞬間、トラクションを掛け、拓海は祈る。負けたら殺す、と仁志の声がフラッシュバックする。一回転したトレノの制御を取り戻し、拓海は再び秋名道路を下り始めた。
慎吾はルームミラーで『秋名のハチロク』が体勢を立て直したことを確認し、運のいい奴め、と悪態をつく。シビックとトレノの間には距離が開いていたため、慎吾はこのまま逃げ切って勝つために更にペースを上げ始める。
拓海はスピンしたトレノを一回転させ、態勢を立て直す。慎吾との差は大きく開いていた。続く右カーブの脱出で左側の土手を駆け上がり、数名いた観客を危うく轢きかけながら猛然と速度を上げる。アクセルはフロアにめり込まんばかりに踏み込まれ、踏み込む右足は震えている。
(わざとやりやがったな…?ムカついた!!てめぇみてぇなカスには絶対負けねえからな!!)
拓海は逆上していた。通常であれば逆上し、平常心を保てなくなったドライバーは正確な車両の制御が出来なくなり、致命的なミスを犯すものだが、拓海の場合、五年間の積み重ねで身に染みついた運転感覚が無意識に車を制御していた。キレると速くなる。拓海の特殊体質であった。左右に連続するカーブでは脱出時にガードレールにクォーターパネルをぶち当て、その反動で次のカーブに向けて車体を翻し、前を走る慎吾を怒涛の勢いで猛追する。
慎吾は焦っていた。さっきはるか後方に置いてきたはずの『秋名のハチロク』が、信じられないペースで追い上げてきて、あっという間に背後にピタリと張り付いたからである。一番やってはいけない相手に一番やってはいけないことをしたと、慎吾は薄々感づいていた。二台はテール・トゥ・ノーズのまま五連ヘアピンに差し掛かる。最初の右ヘアピンカーブに向け、慎吾は左車線からブレーキングに入る。その時、後ろにいたトレノが強引に右側に並びかけるのが見えた。
(まずい、アイツさっきの仕返しにぶつけてくる気だ…!!)
幸か不幸か、ぶつけることには慣れている慎吾であるが、逆にぶつけられることには慣れていなかった。横目に見るトレノのフロントノーズは明らかにドアと慎吾を串刺しにせんとばかりに向かってくるように見えた。慎吾は身構えてしまい、ブレーキのリリースを遅らせて後ろに逃げようとする。
次の瞬間、心なしか内側に入ったトレノが、右側にカクンと傾くように見えた。白い機影は慎吾の眼前で右ヘアピンカーブの内側の縁石に張り付いたまま異次元の速度と軌道で走り抜けていく。慎吾は何が起きたのか理解できないまま、一瞬の恐怖心から内側へのブロックが甘くなったことを悔やむ。そのまま再び『秋名のハチロク』を追いかける展開になるが、スタート直後のように後ろからジワジワと威圧して追い詰める余裕はなかった。