池谷浩一郎と健二は藤原拓海と庄司慎吾を追い、既に秋名道路を半分以上下っていた。ガムテープでステアリングを縛り付けられたまま、ここまで事故を起こすことなく下る拓海の適応力の高さに、このまま行けば拓海は慎吾に勝つのではないか、と確信めいたものがあった。
庄司慎吾は完全に冷静さを失っていた。目の前を走る『秋名のハチロク』が秋名道路の半分以下で慎吾の技能を超え、背後からのチャージングでも仕留め損ね、五連ヘアピンは最初のヘアピンカーブで抜かれたばかりか、走行ラインの常識を無視した四次元殺法のような機動をこれでもかとばかりに見せつけられたためである。そして今もなお、眼前では電光石火のごとく右へ左へその白い車体を翻している。1年以上をかけてやっとものにした邪流試合の技術を、わずか一晩で破られた屈辱と、簡単に倒せると豪語しながら勝ち目のない相手に挑んでしまった絶望、そして一人の走り屋としてそのスピードに対する羨望が、慎吾の精神を完全に打ちのめしていた。
鈴木仁志はそろそろ就寝しようかとガレージから住居部に入り掛けたが、思い出したように鈴木政志に声を掛ける。
「俺、明日、朝からスタンドだからそろそろ寝るワ。…多分明日か明後日辺り、豆腐屋さんのハチロクがベコベコで入庫すると思う」
「拓海がぶつけるってか?」
「いや、それが、今回は相手がクソ野郎でさ。十中八九拓海が勝つけど、無傷ってわけにはいかないだろ?」
「そうか。…こっちはこっちでやっとくから、祐一のスタンドの予定を優先しろよ」
「わかったよ。…セッティング変えたらこのノートに書いといてくれない?」
仁志はいつも使っている雑記帳を政志に渡す。
「任された…」
秋名道路の下りも終盤に差し掛かると、秋名山の裾野に入り、下り勾配が緩くなる。今夜行われている『秋名のハチロク』対、庄司慎吾のホンダ・シビックの対決においては、最大出力でシビックに劣る『秋名のハチロク』を助けていた勾配がなくなることを意味していた。すっかり後がなくなり、気が狂ってヒヒヒと笑う慎吾が、そのパワーを活かした悪あがきに転じるのは、ある意味では当然と言えた。
(俺の方から言い出したガムテープデスマッチじゃねえか…。ましてや昼間、全員の前で啖呵まで切っちまってよ…。これで負けたら俺はチームの笑い物…いや、下手すりゃ妙義出禁だ)
直線区間でVTECのパワーを活かし、カーブの間の直線ごとに差を縮め、その機を窺う。
(たとえ引き分けに持ち込んでも、俺の面子は保ってみせるぜ)
渋川市内を一望する比較的長い直線、シビックが一気にトレノに並び掛ける。十分に長いとはいえないが、VTECのパワーで横に並ぶには十分だった。
(この
次の右カーブが迫る中、右から並び掛け、ステアリングを左に切り込みながらサイドブレーキを引き、シビックを真横からトレノに突き刺しにかかる。
「ダブルクラッシュと行こうぜェ!」
慎吾は完全に仕留めたと確信する。しかし、拓海はそのまま右カーブに向けてドリフト体勢に入る。相手の進入速度が予想以上に速く、シビックのフロントノーズはトレノのリアバンパーの後ろで空を切った。慎吾はそのことに気付くが、絶望するよりも前に、胸と腹を叩きつけられるような衝撃と、前腕に付いた靭帯全てがブチブチと引き千切れる音を聞いた。
後悔だけが残った。全てが終わり、正気を取り戻した慎吾が直面したのは、ダブルクラッシュを狙うという形で、『秋名のハチロク』に勝てないことを事実上認めたという現実、ダブルクラッシュを狙った結果自爆し、無残な姿になった赤い愛機、ホンダ党の自分自身が愛してやまないシビックを自らの手で壊したのだという現実であった。特に、大切な愛車を自分の手で、壊すべくして壊したのだという現実は、痛めた右腕よりも痛かった。
二台を追って秋名道路を下る池谷と健二の眼前で、ヘッドライトに照らされ、ぐしゃりと歪んだシビックが現れる。割れた灯火のレンズや窓ガラスの破片が、ヘッドライトに反射してキラキラと、車体に向かって散っているように見えた。池谷は車体の傍らで立ち尽くす慎吾に、ケガはないかと声を掛ける。キックバックで右手を痛めたと返答があったので、シルビアの助手席に乗るよう促す。携帯電話がそこまで普及していない時代、救急搬送を要請するためには麓の駐車場にある公衆電話ボックスまで誰かが下る必要があった。救急車より早い、事故った時はお互い様だろ、と池谷は微笑む。
恩に着るぜ、と慎吾は呟く。慎吾は目の前のこの親切な男に対して数日前にしでかした仕打ちを心底恥じた。
まだ暗いうちから鳴り響く目覚まし時計を止めた拓海が次に聞いたのは、一階から怒ったような声で自分を呼ぶ父・藤原文太の声であった。起きてるよ、とぼやきながら階段を降りると、トレノの車体のあちこちにぶつけた痕跡があると告げられる。昨日の記憶が出てこない拓海は、文太が自分でぶつけたのではないかと訊くが、文太は昨日一度もこの車には乗っていないという。何はともあれ、表に出てトレノを見ると、クォーターパネルがガタガタに凹み、ところどころ塗装が剥がれている。その惨状を目の当たりにした拓海は当て逃げにでも遭ったかと憤慨し、文太からお前のせいだろ、と拳骨をもらって悶絶するのであった。
立花祐一のガソリンスタンドに仁志が顔を出す。武内樹が入院中のため、今日は穴埋め要員で出勤していた。制服に着替えるためロッカー室に入ると、拓海がいた。
「おはよう」
「…その様子だと勝ったらしいな」
「あぁ」
まぁそりゃ勝つわな、と仁志は特に驚きもせず、身支度を済ませた。いつも通り、それ以上は踏み込むこともなく、持ち場に着く。
ダンプカーの大群が給油に訪れる時間帯を捌ききり、束の間の暇な時間が訪れた。池谷と健二がいつものように雑談に興じている。あのシビックは自爆したのか、と仁志は何の感慨もなくそれを聞き流していた。自爆に至る経緯まではわからなかったが、どうせ碌でもない理由でそうなったのだろう、と仁志は推察する。どうやら池谷がシビックのドライバーを車で病院に送り届けたらしいことも判明し、お人好しなことだな、と胸の内で呟く。
ところで、と池谷が仁志の方を向く。
「そういや、何日か前からバンパーレスなんだな、お前のサニー」
確かに仁志のサニーは豆腐の配達帰りの拓海に野良試合を挑み、その時にガードレールにぶつけたフロントバンパーを取り外して以来、そのままになっていた。結局、ダッシュボードに置いて持ち帰ったナンバープレートも仮のステーを作って取り付けている。
「ええ。秋名でやらかしましてね」
仁志が答えると、健二がサニーを眺めながら呟く。
「この時代のクルマって、バンパーを外すと一気にレーシーになるよな」
「このままオイルクーラー外付けにするか?」
池谷が同調する。仁志は首を横に振る。
「今んとこ、そこまで熱に困ってないんで、やめときます。わざわざ
唐突な仁志の下品な喩えに池谷と健二がハハッと短く笑った。
早番のアルバイトを終えた仁志は、寄り道して西田淳二を拾うと、樹が入院している病院に見舞いに訪れた。
「すまねぇな、シャー。せっかくのフリーの日に」
「いいってことよ、トシ。お前が雰囲気ぶち壊しそうになったら俺が拾ってやるよ」
「そういうことだ。頼むぞ」
受付で拓海と鉢合わせた仁志は、日程をずらせばよかったと後悔した。拓海の隣に立つ、女性的な柔らかさと丸みを帯びながらもしっかりメリハリの効いた肢体と、対照的に幼く見える無垢な風貌という、どこか退廃的な雰囲気を持つ平均よりやや小柄な少女を見て、これが普段白石が愚痴っている茂木なつきだと直感する。互いに名を名乗り、直感が正しいことがわかった仁志は、隣で鼻の下を延ばしかけた淳二とは対照的に、茂木に対してまるで針鼠のように警戒心を募らせる。
樹は仁志が想像していたよりも元気そうに見えた。拓海は慎吾に勝ったことを伝える。樹は拓海を称えると、早く退院して腕を磨きたいと意欲を見せる。そのまま仁志に向き直ると、レビンの修理を頼んだ。
「そういうわけだからさ、俺のレビンはトシが直してくれよ」
「…駄目だ」
仁志の一言に一瞬の沈黙が流れた。仁志は続ける。
「代金を払う当てはあるのか?特殊技能だ、タダじゃやらねえぞ」
「そりゃもちろんタダでとは言わねぇよ」
「そう言ってどうせまた親父さんにでも泣きついて金を用意するんだろ?それじゃお前は財布も痛まず、手も汚さない。そしてそんなんじゃお前は懲りずにまたやらかすだろうさ」
仁志はここで黙った。病室全体が重い沈黙に包まれる。仁志はガシガシと頭を掻く。そして苦々しげに口を開いた。
「道具だけは貸してやるよ。だから自分で直すんだな」
ここで淳二が言葉を発した。
「トシ、説教臭いぞ。見舞いなんだからさ」
「シャー、お前そういうことはさっき黙った時に言えよ。何のためにお前を連れて来たんだ」
突然の仁志のぼやきに笑い声が漏れる。病室の空気がいくらか和んだ。
「あとよ、どのみちあのレビンはウチじゃ見れねぇな」
「えっ、何でよ?」
「フレーム修正機、ウチには置いてなくてな。もっとデカいとこに持ってくんだな」
その後、病室に一人で退屈していたのか樹は喋り続け、あっという間に面会時間が終わった。拓海たちの帰りがけに樹が呼び掛ける。
「レビン直ったらさ、またダブルデートしようぜ」
その言葉に、茂木が一瞬だけ顔を曇らせたように見えた。
病室を出て、同じフロアの売店を備えた談話室まで戻ると、淳二は便所に行くと告げてその場を離れた。白石からの前情報から、茂木を自分の産みの母親と同じように男に媚びるタイプの、極めて信用ならない女だと認識していた仁志は、これ幸いとばかりに拓海に告げる。
「拓海。俺はシャーを待つから、先に帰りな」
「いいのか?…茂木、家まで送るよ」
いいぞ拓海、と仁志は内心でサムズアップする。
「えっ、せっかくだから
(この
仁志は苛立ちが表情に出ないように全力を尽くす。必死の努力の結果、何の表情もない、まるで死んだような顔が出来上がった。
「気にすんな。暗くなると茂木さんの親御さんも心配するだろ?多分アイツ長いから」
仁志は主に拓海を説き伏せ、どうにか茂木を連れて帰らせることに成功した。
樹に事実を話さなかった、と階段を降りながら茂木は拓海に告げる。沙織のことである。樹が悪いわけではないのはわかっているが、例の事故で相当な恐怖を植え付けられ、樹の顔と車を見るとトラウマがフラッシュバックするため、もう会いたくないと言っていた。茂木は拓海にそう語った。
ところで、と茂木は話題を変える。
「あのコ、鈴木仁志くん、だっけ?なつき、凄く警戒されてたんだけど…」
「えっ、そうかなぁ…?気のせいだと思うけど…。人見知りなんだよ、アイツ」
「ふぅん…」
病室では、樹が人知れず嗚咽を押し殺す。沙織は一度も見舞いに来なかった。今日のように、友達全員が集まった日でさえも、である。男女の機微に疎い樹でも、二人の関係が破局を迎えたことは嫌でも理解出来た。
何故、沙織の身の安全よりも自らのプライドを優先してしまったのか。そんな後悔ばかりが募る。痛恨の念に押しつぶされまいと足掻くかのように、走り屋に女は要らねえ、と樹は吐き捨て、泣くのであった。