鈴木仁志は武内樹の見舞いから帰宅した。丁度、代車のスバル・サンバートラックに乗って帰ろうとしていた『藤原とうふ店』店主・藤原文太と鉢合わせる。
「よう坊主、今帰りか?」
「どうも。藤原さんはもしかしてハチロク預けに来たんですか?」
「あぁ、拓海のバカがハチロクぶつけて帰ってきてな。修理頼んでたんだよ」
「やっぱり…」
「知ってたのか?」
「いや、こっちの話です」
仁志はサニーを裏に駐め、自宅に上がる。継父であり鈴木整備工場の主である鈴木政志から、預けていた雑記帳を受け取る。
「サンキュー、オヤジ。…元気ないな、どうしたんだ?」
「セッティングだけ先に決めようってんで、先にテストランしたんだ…俺は横乗りで…」
「あっ…ふ〜ん…」
以前、文太の助手席に乗ると誰も皆たちまち目を回す、と政志から聞いたことがあり、政志も今日は目を回したのだろう、と仁志は察した。
「セッティングはもうこれで決まったんだ?」
「おぅ。よりバトル向けのセッティングになってる」
「じゃあ後は板金だな」
仁志は早速取り掛かる。夕方のうちに騒音が発生するスライドハンマーや金槌、ディスクサンダーを使う作業を済ませたかった。
数日後、代車のサンバートラックでスプリンタートレノを取りに来た文太が言う。
「ほぅ、腕を上げたな、坊主」
文太は仕上がりに満足そうである。仁志はサニーのレストアの時に施工したジャパニングを通じて塗装技術を上げており、これが奏功した。
引き渡し前の確認として、仁志と文太はトレノに乗って秋名道路に向かう。まずは仁志が登り下りで一往復、続いて文太の番になった。
「これなら登りの配達は上出来だな」
文太は山頂側広場でスピンターンすると、ふと仁志に訊く。
「ところで、煙草吸っていいか?」
「いいですよ、いつでも、吸いたい時に」
言いながら仁志はドアに付いたハンドルを回して窓を開ける。文太も窓を開けると、何故か車を発進させ、そのままキンコンという警告音が鳴る速度に達する。仁志は何故、あのタイミングで煙草のことを訊いてきたのか不思議に思う。
下りに入っていくつかのカーブを抜け、少し長いカーブに突入する。全身を強く前方に引きずり込まれるような感覚から、ヌルリとカーブ外側に臍と尻が引っ張られる感覚を一瞬感じると同時に、景色が横向きに流れる。次の瞬間、何故か仁志はゴソゴソという衣擦れの音と、カチカチと火打石を鳴らすような音を聴き、音がする右の方を見やる。
仁志はつい運転席の文太を二度見した。そして口調を取り繕う余裕もなく叫ぶ。
「いや、バカじゃねえの!?何やってんだあんた!」
「何だよ、さっき言ったろ、いつでも吸っていいって」
「普通の人はドリフトの真っ最中にハンドルから手を離して煙草つけないんです!」
「そりゃ普通の人間はドリフトしねぇからな」
「あ、そっか!ワッハッハッハ…ハァ…」
ステアリングが勢いよくセルフカウンターで回り、回りきってカツンと止まる。文太はアクセルで後輪の食い付きを制御していた。
(そうか。確かに、カウンターステアってセルフカウンターに任せていい部分があるからな…)
そう言っている間に、カーブを抜けて直線路に入る。文太は煙草を口に咥えると、ステアリングを握り直す。
「さて、本気で行くか」
仁志は耐えた。耐えながら、文太による本気の秋名道路ダウンヒルをその目に焼き付けた。
整備工場で仁志を降ろし、いつものように請求書を豆腐店に送るように政志に頼むと、文太は帰路に就く。文太はステアリングを握りながら考える。今回、政志がセッティングを担当し、仁志が試運転に付き合った。セッティング自体は一発で決まり、仁志は文太の横に乗っても恐れることなく車の仕上がりを確かめた。セッティングに関しては長い経験と文太との付き合いがあって一度に終わらせられたとも言えた。
(しかし、味気ねぇなぁ)
文太は、仁志がセッティングを担当しながら何度も試運転をしてセッティングを詰めるという、今年から始まったその工程が嫌いではなかった。仁志のメカニックとして、そしてドライバーとしての腕を上げていく過程を楽しんでいたことに改めて気付く。
(ま、仕方ねぇか。商売で使うんだからな、このクルマ…)
しかし、と文太は改めて思う。メカニック兼テストドライバーとしての仁志は、文太の横乗りにも耐え、セッティングを詰める妥協のなさが好ましかったが、今回のようにただ単に隣に乗せて走ると、恐れを見せないのが味気なく感じた。政志や、ガソリンスタンド店長の立花祐一を助手席に乗せる時は、恐怖に泣き叫ぶ様子が面白く、昔からつい色々な趣向を凝らしてきた。しかし仁志は、文太がステアリングから両手を離して煙草を点けた時に少し取り乱したものの、その後は特に取り乱す様子もなかった。
(『手放しドリフト煙草』はイマイチだったかなぁ…)
いいギミックだと思ったのだが、と文太は釈然としないまま『藤原とうふ店』に帰っていった。
その日の夜、文太は閉店間際のガソリンスタンドで給油をし、閉店作業を終えた祐一を秋名道路に誘い出す。そこで夕方、仁志に見せたのと同じように、煙草を吸いたいと言いながらドリフト中に両手を離して煙草を点ける。
祐一の絶叫が、夜の闇に沈んだ秋名山にしっかりと木霊した。
「降ろしてくれぇぇぇぇ!だから俺は嫌だって言ったんだぁぁぁぁぁぁぁ!」